第四十三話 灰色と白
——魔法学院 応接室 午後
イレーネ・サンクタ教皇代理が来たのは、昼過ぎだった。
白の装束だった。
白地に金糸の刺繍。
リーゼが先に入室し、扉を押さえた。
イレーネが入ってきた。
七十代か、八十代か——年齢が掴みにくい人物だった。
背筋が伸びていた。
足取りが静かだった。
目が——深かった。
私は立ち上がらなかった。
椅子に座ったまま、待っていた。
◆ ◆ ◆
「グラウ・ルナさん。」
イレーネが言った。
「イレーネ・サンクタ教皇代理。」
私が答えた。
「お会いできて光栄です。」
「こちらこそ。」
イレーネが向かいの椅子に座った。
リーゼが扉の前に控えた。
部屋には——三人がいた。
◆ ◆ ◆
「先日の書状への返答、ありがとうございました。」
イレーネが言った。
「条件をお伝えしました。場所は学院内で、と。」
「お聞きしました。」
「それと——感謝と同意は別、という前提でお会いしたい、と。」
「はい。」
イレーネが少し笑った。
「正確に覚えていてくださいましたね。」
「リーゼが正確に伝えると言っていました。」
「そうですね。彼女はそういう人です。」
◆ ◆ ◆
沈黙があった。
短い沈黙だった。
イレーネが先に動いた。
「まず——感謝を申し上げます。先日の件で、多くの命が守られました。正教会として、深く感謝しています。」
「受け取りました。」
「それだけですか。」
「感謝は受け取りました。それだけです。」
イレーネが少し止まった。
「……率直ですね。」
「回りくどいことが苦手です。」
「分かりました。では——私も率直に申し上げます。」
◆ ◆ ◆
イレーネが少し前に出た。
「あなたに——お願いがあります。」
「聞きます。」
「正教会の教皇に——なっていただきたい。」
部屋が静かになった。
リーゼが扉の前で——少し動いた。
「……予測していました。」
私は言った。
「そうですか。」
「感謝を切り口として——接触して——要請する。その順番だと思っていました。」
「そして——それを見抜いた上で、あなたは会いに来た。」
「情報として有益だったからです。直接確認できる機会でした。」
イレーネがもう一度、少し笑った。
「セラフィアが言っていた通りです。」
「何と言っていましたか。」
「『あの子は鋭い。でも——話を聞く子です。』」
◆ ◆ ◆
「断ります。」
私は言った。
「理由を聞いていいですか。」
「いくつかあります。」
「全部聞かせてください。」
私は少し考えた。
「一つ目。私は無神論者です。神の代行者になる理由がありません。」
「二つ目。私はまだ学院の一年生です。学ぶべきことがあります。」
「三つ目。感謝は服従の根拠にならない。正教会への感謝はあります。でも——感謝を理由に何かを受け入れることは、私の論理と矛盾します。」
「四つ目。私は——誰かに決められた役割を生きることが好きではありません。」
◆ ◆ ◆
イレーネが静かに聞いていた。
全部聞き終えてから——口を開いた。
「四つの理由、全部聞きました。」
「はい。」
「一つ目について。あなたが無神論者であることは——教皇の資格を否定しません。正教会の教義では、神の力を行使できる者が教皇です。あなたが神を信じるかどうかは——別の問題です。」
「……それは、一理あります。」
「二つ目について。学ぶことと教皇であることは——矛盾しません。初代教皇は学びながら民を救っていました。」
「それも——一理あります。」
「三つ目について。私は服従を求めていません。感謝への返礼として教皇就任を求めているわけでもありません。」
「では——何のために求めているのですか。」
◆ ◆ ◆
イレーネが少し間を置いた。
「あなたが必要だからです。」
「誰に。」
「正教会に。正教国に。そして——この世界に。」
「……根拠を教えてください。」
「一つお伝えしたいことがあります。」
イレーネが少し真剣な顔になった。
「神の使徒という組織を——ご存じですか。」
「知っています。クロイツという研究者が実行部門の責任者でした。先月死亡しました。」
イレーネが少し止まった。
「……よく知っていますね。」
「関わりがありました。」
「そうですか。では——その上部組織については。」
私は止まった。
「上部組織。」
「はい。神の使徒を動かす組織があります。評議会、と私たちは呼んでいます。」
◆ ◆ ◆
「評議会。」
私は繰り返した。
「初めて聞く名前です。」
「そうだと思いました。」
「どういう組織ですか。」
「純粋な学術者・技術者の集団です。感情的な悪意はありません。でも——目的のためなら何でもする。根源律への到達、そして——根源律を行使できる者を通じて世界を支配することが目的です。」
「……根源律を行使できる者。」
「そうです。あなたのことです。」
私は少し考えた。
「クロイツが——その組織の実行部門を動かしていた。」
「そうです。クロイツが死んで、実行部門の責任者がいなくなりました。でも——評議会は残っています。そして——方針を変えました。」
「方針を。」
「これまでは間接的に接触しようとしていました。でも今は——直接、あなたに接触しようとしています。」
◆ ◆ ◆
私は黙った。
変数が——増えた。
評議会。
神の使徒の上部組織。
根源律への到達を目的とする。
世界支配を目的とする。
直接接触の方針に変えた。
「どのくらいの規模の組織ですか。」
「正確には分かりません。でも——ラエティア王国の宰相が構成員の一人です。カルヴァーン王国の現王も。」
私は止まった。
「カルヴァーン王国。」
「はい。」
「……エルミラの父が。」
「そうです。」
部屋が静かになった。
リーゼが扉の前で——表情を変えなかった。
でも——手が少し動いた。
◆ ◆ ◆
「それを——なぜ今、私に伝えるのですか。」
私は聞いた。
「あなたに判断材料を持ってほしいからです。」
「判断材料。」
「評議会はあなたを利用しようとしています。正教会もあなたを必要としています。二つの違いを——あなたに知っていてほしい。」
「違いを教えてください。」
「評議会はあなたを道具として見ています。根源律を行使できる器として。」
「正教会は。」
「あなたを——人として見ています。」
少し間を置いた。
「少なくとも——私はそのつもりです。」
◆ ◆ ◆
「セラフィア大神官も同じですか。」
「セラフィアは——あなたを育てた人間です。私より、ずっと深く人として見ています。」
「…………。」
「それと——四つ目の理由に、私は反論しません。」
「なぜ。」
「正しいからです。あなたは誰かに決められた役割を生きることが好きではない。それは——正しい感覚です。否定できません。」
「でも——要請するのですか。」
「はい。矛盾していることは分かっています。あなたの自由を尊重したい。でも——お願いしなければならない事情がある。だから——命令ではなく、お願いしています。」
◆ ◆ ◆
「今日は——答えを出しません。」
私は言った。
「分かりました。」
「考えます。」
「ありがとうございます。」
「一つだけ聞いていいですか。」
「どうぞ。」
「イレーネ・サンクタ教皇代理は——私に教皇になってほしいのですか。それとも——教皇が必要だから要請しているのですか。」
イレーネが少し止まった。
「……どちらだと思いますか。」
「両方だと思います。」
「正解です。」
◆ ◆ ◆
イレーネが立ち上がった。
「今日は来てくださってありがとうございました。」
「来たのは——情報を確認するためです。」
「それでも——ありがとうございます。」
イレーネが扉に向かいながら——一度だけ振り返った。
「グラウ・ルナさん。」
「何ですか。」
「セラフィアが——あなたのことを話してくれることがあります。」
「……何と言っていますか。」
「『あの子は——自由が好きなのです。』」
「……そうですね。」
「私も——あなたに自由でいてほしい。」
「でも。」
「でも——お願いしなければならない。」
扉が閉まった。
◆ ◆ ◆
一人になった。
私はノートを開いた。
「イレーネ・サンクタ教皇代理との面会。」
書いた。
「要請内容:教皇就任。」
「新情報:評議会——神の使徒の上部組織。純粋な学術者・技術者の集団。根源律への到達・世界支配が目的。現在、直接接触の方針に変更。」
「評議会員:ラエティア王国宰相・カルヴァーン王国現王。」
一行空けた。
「エルミラの父が——評議会員だ。」
「エルミラは——知らない。」
もう一行空けた。
「イレーネの反論:四点全て論理的に処理された。」
「印象:誠実な人間だ。」
少し止まった。
「だから——難しい。」
ノートを閉じた。
窓の外、中庭の学生たちが歩いていた。
「評議会。」
静かに呟いた。
「クロイツが動いていた理由が——一つ繋がった。」
「でも——まだ足りない変数がある。」
灰色の瞳が——静かに、遠くを見ていた。




