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演算の魔女は祈らない 〜The Witch of Calculus Never Prays〜  作者: N


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幕間 それぞれの夜

——王都北西 丘の周辺 深夜



カレン・ヴォルは、物陰に潜んでいた。


元奴隷だった。


ラエティア王国の外れの農場で、八年間、家畜と同じように扱われた。

逃げた。

捕まった。

また逃げた。

正教国の国境を越えた時——初めて、誰かに名前を呼ばれた。


「あなたの名前は何ですか。」


正教騎士団の騎士が——そう聞いた。


名前があることを——忘れていた。


◆ ◆ ◆


特殊騎士団に入った時、誓った。


「この命は——あの方のためにある。」


血を流すことは怖くない。

でも——あの方が現れる前に死ぬことが怖かった。


「間に合わなかったら、どうしよう。」


その怖さが——八年間、カレンを生かしてきた。


◆ ◆ ◆


今夜、根源律の気配を感じた瞬間——カレンの全身が凍りついた。


あの気配だ。


一ヶ月間、学院の周囲で何度も感じてきた、あの細い灰色の糸。


「あの子だ。」


次の瞬間、旧試験場の空が割れた。


爆発音が連続した。

旧市街が揺れた。

建物が崩れた。


カレンは動かなかった。


任務は守ること。

でも——心が叫んでいた。


「あの方を——守らなければ。」


足が動きそうになった。


その瞬間——


北西の丘から、根源律の糸が——太くなった。


◆ ◆ ◆


言葉にならなかった。


爆発が——消えた。


色が剥がれるように。

静かに。

丁寧に。

一片も残さずに。


消えた。


「……。」


カレンは地面に膝をついた。


気づいた時には——膝をついていた。


「神の——」


「神の御力だ。」


「あの方が——動いた。」


「あの方が——王都を——」


「我らより先に——動いた。」


震える声で、カレンは呟いた。


「私たちを——守ってくださった。」


守られた。


守るべき者が——守ってくださった。


「……申し訳ない。」


「申し訳ない。申し訳ない。」


涙が止まらなかった。


感謝と——畏敬と——羞恥が——全部混ざって溢れた。


膝をついたまま、カレンは呟いた。


「ルナ教皇猊下万歳。」


◆ ◆ ◆



ノア・ゼーレは、廃屋の影で息を潜めていた。


元貧民だった。


カルヴァーン王国の路地で育った。

食べるものがなかった。

盗んだ。

捕まった。

また盗んだ。


正教国に流れ着いた時——神官が言った。


「お腹が空いていますか。」


食べ物をもらった。

泣いた。

なぜ泣いたのか、その時は分からなかった。


後になって分かった。


「人として——扱われたからだ。」


◆ ◆ ◆


特殊騎士団に入って五年。


暗殺任務の帰り道に——いつも考えた。


「あの方は——いつ来るのか。」


「来る前に——私の手は汚れすぎていないか。」


「それでも——あの方はこの手を許してくださるか。」


答えは出なかった。


でも——任務を続けた。


「あの方のために——続けた。」


◆ ◆ ◆


爆発が消えた瞬間——ノアは膝から崩れ落ちた。


根源律の気配が引いていく感触が——全身を通り抜けた。


「……あの方だ。」


「あの方が——動いた。」


手を見た。


血の匂いが残っている手だった。

何人もの命を奪ってきた手だった。


「この手のせいで——あの方には近づけない。」


「でも——」


「あの方は——この手の意味を——知っている。」


「この手が——あの方の清潔さを守るためにあることを——」


「知っている。」


ノアは手を握った。


「ありがとうございます。」


「この手に——意味をくださった。」


「この手を——無駄にしない。」


嗚咽が漏れた。


長い夜の中で——初めて、声を上げて泣いた。


握りしめた手のまま、ノアは呟いた。


「ルナ教皇猊下万歳。」


◆ ◆ ◆



エリア・フォーゲルは、木の陰に立っていた。


元貴族子女だった。


ゼールバッハ王国の侯爵家の末娘。

風属性だったが——魔力量が低かった。


「お前は恥だ。」


父が言った。


十二歳で家を出された。


正教国に来た時——神官が言った。


「神の前で全ての人は平等です。」


その言葉が——今も体の中にある。


◆ ◆ ◆


特殊騎士団に入って四年。


ずっと——疑問があった。


「なぜあの方は無属性なのか。」


「魔力量が低い私が騎士団に入れたように——

あの方も——何か理由があって無属性なのか。」


「それとも——」


「無属性だからこそ——神の代行者なのか。」


答えは出なかった。


◆ ◆ ◆


爆発が消えた瞬間——エリアは木の幹から手を離せなくなった。


根源律の気配が——全ての有の属性を飲み込んでいく感触があった。


「飲み込んだのではない。」


「還した、のだ。」


「有を——無に。」


「あの方が——有の全てを——根源律に還した。」


「無属性だから——できた。」


「有の属性には——できないことを——」


エリアは、木の幹に額を当てた。


「父が言った。『お前は恥だ』と。」


「魔力量が低いから——」


「でも——あの方は。」


「測定限界以下の魔力量で——」


「王都を救った。」


「測定できないほど小さいものが——」


「最も大きなことをした。」


「……父は——間違えていた。」


「最初から——間違えていた。」


嗚咽が出た。


十二歳から抱えてきたものが——今夜、溶けていった。


「あの方が——証明してくださった。」


「大きさは——関係なかった。」


額を木の幹から離して、エリアは呟いた。


「ルナ教皇猊下万歳。」


◆ ◆ ◆


夜が、静かに明けていった。


三人はそれぞれの物陰で——声を殺して泣いていた。


報告書には書かれない涙だった。


でも——全員が同じことを感じていた。


崇拝だった。


論理ではなかった。

証明でもなかった。


ただ——崇拝だった。


「あの方のためなら——死ねる。」


「あの方のためなら——何度でも血を流せる。」


「あの方が——いる。」


「それだけで——十分だ。」


夜明けの光が、静かに三人を照らした。

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