第四十一話 静かな変数
ここから第二章な感じです。
——魔法学院 屋上 昼休み
一ヶ月が経った。
クロイツが死んだ夜から、一ヶ月が経っていた。
授業は続いている。
昼休みは屋上に来る。
ノートを開く。
根源律の接続を確認する。
いつもと同じだった。
◆ ◆ ◆
でも——何かが違う。
根源律の糸を引いた瞬間、気づいた。
以前から学院の周囲にいた正教騎士団の気配が——少し変わっていた。
「近づいている。」
声に出した。
遠くから見ていたのが——少し近くなった。
でも接触はしない。
干渉もしない。
「観察が——変わった。」
◆ ◆ ◆
術式を閉じた。
ノートを開いた。
「正教騎士団の配置変化:以前より接近している。干渉はなし。観察の密度が上がった。あの夜以降の変化と推定。」
書いた後、少し止まった。
「あの夜、私が動いたことを——知っている。」
それは以前から予測していた。
リーゼ・ハルバーが近くにいた。
感知できる位置にいた。
「報告された。大神官セラフィアに。」
「だから——観察が密になった。」
「次に何が来るか。」
まだ分からなかった。
◆ ◆ ◆
昼休みが終わる前に、廊下でエルミラを見かけた。
接触はしなかった。
でも——様子が違った。
いつものエルミラは、廊下を歩く時に少し周囲を見回す。
話しかけられるのを——少し待っている様子がある。
今日は違った。
下を向いて歩いていた。
誰とも目を合わせていなかった。
「……何かがあった。」
◆ ◆ ◆
エルミラの変化を、ノートに書いた。
「エルミラ・カルヴァーン:本日の様子に変化あり。下を向いて歩いていた。接触を避けている様子。原因不明。」
書きながら、少し考えた。
エルミラはこの一ヶ月、普通だった。
「証明を見せてほしい」と言っていた。
「立場なしで話せる」と言っていた。
それが——今日は違う。
「何かを聞いた。あるいは——知った。」
「何を。」
今は分からなかった。
◆ ◆ ◆
午後の授業は魔法理論だった。
教師が話していた。
ルナは聞きながら——考えていた。
一ヶ月前と、何が変わったか。
クロイツという変数が消えた。
でも——何かが残った。
旧市街が崩壊した。
でも——ルナには、その後の情報がほとんど届いていない。
フェルト・マイナーからも、この一ヶ月——連絡がなかった。
「フェルトは——今、どこにいるか。」
今夜、エルヴィンに確認する。
◆ ◆ ◆
授業が終わった後、窓から王都の方角を見た。
旧市街は——あの夜から、どうなったか。
王都の空は今日も青かった。
いつもと変わらない青だった。
でも——何かが動いている気がした。
根拠はなかった。
計算できる変数もなかった。
でも——根源律の接続を通じて感じる世界の底が、少し——違う気がした。
「気のせいかもしれない。」
声に出した。
「でも——気のせいではないかもしれない。」
◆ ◆ ◆
ノートに書いた。
「一ヶ月後の変化の記録:①正教騎士団の観察密度が上がった ②エルミラの様子に変化あり ③フェルトからの連絡がない ④根源律の接続時に微かな違和感。」
一行追加した。
「全ての変数がまだ把握できていない。でも——何かが動き始めている。」
◆ ◆ ◆
窓を離れた。
机に向かった。
「あの夜の術式を——数式にする。」
声に出した。
一ヶ月経っても、まだやっていなかった。
やろうとして——止まっていた。
「なぜ止まっていたか。」
少し考えた。
「怖かったのかもしれない。」
数式にすれば——何が起きたかが明確になる。
明確になれば——何を使ったかが分かる。
「分かることを避けていた。」
それは——珍しい状態だった。
◆ ◆ ◆
ペンを持った。
まず、根源律変換式の基本形を書いた。
「Ψ(r) = ∫E₀·φ(x)dx」
根源律(E₀)から魔力(Ψ)を生成する式だ。
以前証明した。
公証番号〇〇四七に記録されている。
「でも——あの夜は逆だった。」
「有を——無に帰した。」
有の属性が生み出したエネルギーを消滅させた。
根源律を通して。
「逆関数だ。」
ペンが動いた。
「Ψ⁻¹(r) = ∫φ⁻¹(x)·E₀dx → 0」
有のエネルギー(Ψ⁻¹)が根源律(E₀)を通じて零(0)に収束する。
◆ ◆ ◆
書いた後、止まった。
「……これは正しいか。」
眺めた。
根源律変換式の逆関数として書いた。
でも——何かが足りない。
「あの夜、私は何を使ったか。」
内部魔力ではない。
仮想魔力器官も使っていない。
根源律に直接——触れた。
「触れた」というより——「なった」に近かった。
「根源律そのものに接続した状態で、有のエネルギーを無に帰した。」
「これは——単なる逆関数ではない。」
◆ ◆ ◆
新しいページを開いた。
「無属性の根源的な性質:」
書いた。
「有の属性(火・水・土・風・光・闇)は世界の部分を操作する。」
「無の属性は世界の全体(根源律)に触れる。」
「全体は部分を含む。→ 無から有を生み出せる。」
「部分は全体を含まない。→ 有から無は生み出せない。」
「では——有を無に帰すことは、なぜできるか。」
ペンが止まった。
「……私が無だから、か。」
◆ ◆ ◆
考えた。
「無が有を消す」のではない。
「有が——無に還る。」
これは強制ではない。
根源律の前では——有の属性は全て等しい。
「全ての有は無から生まれた。だから——無に還ることができる。」
「私はその『還る』という動きを——促しただけだ。」
数式を書き直した。
「∀E_有 → E₀ : lim(E_有/E₀) → 0」
全ての有のエネルギー(E_有)は、根源律(E₀)との比において——零に収束する。
「根源律の前では——有は限りなく小さい。」
「だから——根源律を通じて触れれば、有は消える。」
◆ ◆ ◆
書いた後、また止まった。
「でも——これには前提がある。」
「根源律に接続できる者でなければ——この術式は成立しない。」
「有の属性を持つ者が同じ式を書いても——使えない。」
「無属性だから——できた。」
「有から無は作れない。でも——無は有に触れることができる。」
もう一行書いた。
「Ψ_無 ⊃ Ψ_有 : 無は有を包含する」
無属性の魔力体系(Ψ_無)は有の属性の魔力体系(Ψ_有)を包含する。
「これが——『無に帰す』の数学的根拠だ。」
◆ ◆ ◆
ノートを見た。
数式が三行、並んでいた。
「でも——まだ足りない。」
「あの夜の規模が——なぜあれほど大きかったか。」
自分の魔力量は〇・四単位だ。
あの規模の術式を使える量ではない——はずだ。
「でも、使えた。」
「根源律変換式は内部魔力に依存しない。」
「でも——あの規模の接続を維持するには、何かが必要なはずだ。」
答えが出なかった。
「……変数が足りない。」
「私の中に——まだ把握できていない変数がある。」
ノートに書いた。
「未解明:あの夜の接続規模の根拠。内部魔力〇・四単位では説明できない。何かが——私の中にある。それが何かを、次の問いとする。」
◆ ◆ ◆
ノートを閉じた。
窓の外、王都の空が——静かに広がっていた。
数式が三行、ノートに残った。
「Ψ⁻¹(r) = ∫φ⁻¹(x)·E₀dx → 0」
「∀E_有 → E₀ : lim(E_有/E₀) → 0」
「Ψ_無 ⊃ Ψ_有」
次の問いは——自分自身の中にあった。
灰色の瞳が、静かにノートを閉じた。




