幕間 時が来た、とは
——正教国 大聖堂 教皇代理執務室 早朝
ヴェラ・シュタインからの報告は、夜明け前に届いた。
セラフィアはその報告書を持って、イレーネの執務室に向かった。
扉を叩いた。
「セラフィアです。急を要する報告があります。」
「入りなさい。」
イレーネはすでに起きていた。
執務机に座っていた。
窓の外が——まだ暗かった。
「昨夜の件です。」
セラフィアが言った。
「座って。」
◆ ◆ ◆
セラフィアが報告書を開いた。
「昨夜、王都北東の旧試験場で大規模な魔力爆発が発生しました。協会の研究者——オルヴァン・クロイツ主任の実験が制御不能になったものです。クロイツ主任は死亡しました。」
「爆発の規模は。」
「旧市街の一角が崩壊しました。市民に被害が出ています。」
「……それだけなら、急を要する報告ではない。」
「はい。続きがあります。」
セラフィアが一拍置いた。
「魔力爆発が——消えました。」
◆ ◆ ◆
イレーネが少し動いた。
「消えた。」
「爆発の途中で、痕跡なく消滅しました。リーゼ・ハルバーが現場近くで待機しており——その瞬間を目撃しました。」
「リーゼは何と。」
セラフィアが報告書の一節を読んだ。
「『北西の丘の方角から、根源律の気配が急激に強くなった。これまでに感じたことのない規模だった。大聖堂で感じる神の力の気配より——深く、静かで、自然だった。その直後、爆発が消えた。』」
「……リーゼが根源律を感知した。」
「そうです。」
「誰が動かしたと。」
「報告書には名前がありません。でも——北西の丘の方角は、旧試験場から超長距離です。その距離から根源律を動かせる者は——」
「一人しかいない。」
「そうです。」
◆ ◆ ◆
沈黙があった。
イレーネが窓の外を見た。
夜明けの光が、少し差し始めていた。
「封印されている状態で、あの規模の根源律を動かした。」
「そうです。」
「セラフィア。」
「はい。」
「封印は——機能しているのですか。」
セラフィアが少し止まった。
「……機能しています。でも——あの子は封印の外側から根源律に接触する方法を持っています。以前から分かっていました。今夜、それが——王都規模の介入に使われた。」
「封印の意味は。」
「……外部からの強制干渉を防ぐためのものです。あの子が自発的に動くことは——止められない。」
「最初から——止められなかった、ということですか。」
セラフィアは答えなかった。
◆ ◆ ◆
「時が来た、と思います。」
イレーネが静かに言った。
「時、というのは。」
「教皇就任を求める時です。」
イレーネが言った。
「あの子は今夜——神の御力を行使しました。二百年以上、正教会が待ち続けた瞬間です。」
少し間を置いた。
「教皇が——現れた。」
セラフィアが少し動いた。
「さらに言えば。」
イレーネが続けた。
「神の代行者が——現れた。」
執務室が静かになった。
「二百年以上、この座は空いていました。私は代理に過ぎなかった。神の力を行使できない代理が、正教会を守ってきた。でも今夜——神の御力が行使された。これ以上、待つ理由がない。」
◆ ◆ ◆
セラフィアが少し間を置いた。
「……申し上げてもよろしいですか。」
「どうぞ。」
「あの子は——従わないと思います。」
イレーネが向き直った。
「根拠は。」
「以前、リーゼを通じて伝言を交わしました。あの子の返答は——『感謝しています。でも行動の決定権は私にある。誰かの指示で動くつもりもありません。』」
「それは——教皇就任の要請を受ける前の言葉です。」
「はい。でも——あの子の思想を考えれば。」
「思想。」
「あの子は自由を何より愛しています。正教会に感謝している。でも——感謝は服従ではないと、はっきり言った子どもです。教皇という役割を求めれば——」
「拒否する、と。」
「……そう思います。」
◆ ◆ ◆
「でも——今夜、あの子は動きました。」
イレーネが言った。
「そうです。」
「誰の指示でもなく。自発的に。」
「……王都を守るためではないかもしれません。」
セラフィアが静かに言った。
「どういう意味ですか。」
「あの子は——王都が消えれば、自分の研究環境も消えると計算した可能性があります。自分のために動いた。」
「自分のために。」
「それがあの子らしい動き方です。英雄的な理由ではなく——最も効率的な選択をした。」
イレーネが少し黙った。
「……それでも、結果は同じです。王都が守られた。神の御力が行使された。」
「そうです。」
「結果が同じなら——動機は問わない。」
◆ ◆ ◆
「意見が分かれていますね。」
イレーネが言った。
「はい。」
「あなたは——まだ早いと思っている。」
「そうです。あの子に教皇就任を求めれば——正教会から離れる可能性があります。離れれば、守れなくなる。」
「私は——時が来たと思っている。」
イレーネが静かに言った。
「二百年以上待った。これ以上待てば——他の力があの子を動かす。評議会が動く。他の勢力が動く。正教会が動く前に、他が動けば——」
「あの子を失う。」
「そうです。」
二人が黙った。
◆ ◆ ◆
「一つだけ確認させてください。」
セラフィアが言った。
「どうぞ。」
「あの子は今夜——封印下で神の御力を使いました。封印を知っているということですか。それとも——知らないまま動いたということですか。」
イレーネが少し止まった。
「……どちらだと思いますか。」
「知らないまま動いた、と思います。知っていれば——まず封印について問うはずです。あの子は論理的な子どもです。」
「知らないまま、封印下で神の御力を行使した。」
「そうです。」
「……封印を知った時——あの子はどうするか。」
セラフィアが答えなかった。
答えを、持っていなかった。
◆ ◆ ◆
「今日——動きます。」
イレーネが言った。
「どういう意味ですか。」
「ルナへの正式な接触を始めます。教皇就任の要請ではありません。まず——感謝を伝える。今夜の件への。」
「感謝を。」
「あの子は感謝に応じる子どもです。感謝を否定しない。そこから始めます。」
セラフィアが少し間を置いた。
「……賢い入り方です。」
「あなたの懸念は分かります。でも——待てない理由も分かってほしい。」
「……分かります。」
「では——一緒に動きましょう。あなたは慎重に。私は速く。どちらかが間違えた時、もう一方が修正できる。」
セラフィアが頷いた。
「分かりました。」
◆ ◆ ◆
セラフィアが立ち上がった。
扉に向かいながら——一度だけ振り返った。
「イレーネ様。」
「何ですか。」
「あの子は——感謝を伝えられた時、何と言うでしょう。」
イレーネが少し考えた。
「おそらく——『それだけですか』と言うでしょうね。」
セラフィアが少し笑った。
「……そうですね。」
扉が閉まった。
◆ ◆ ◆
執務室に一人が残った。
イレーネが窓の外を見た。
夜明けの光が、大聖堂の石畳を染めていた。
「二百年。」
呟いた。
「教皇が現れた。」
少し間を置いた。
「神の代行者が——現れた。」
もう少し間を置いた。
「でも——」
窓の外を見たまま、イレーネが静かに言った。
「あの子は、そう呼ばれることを——望まないだろうな。」
それでも——イレーネは立ち上がった。
代理として座ってきた椅子から。
今日から——動く。




