第四十話 無に帰す夜
——王都北東 旧試験場北西の丘 夜
丘に着いたのは、日が完全に沈む前だった。
草が膝まで伸びていた。
風がある。
北西から。
根源律の接続を確認した。
細く糸を引く。
届く。
「ここでいい。」
私は言った。
セインが隣に座った。
闇の中、その目が静かに光っていた。
「……感知できる。」
セインが言った。
「北東の方角に、何かがある。まだ弱い。」
「クロイツだ。」
「始まっていないが——準備している。魔力が溜まり始めている。」
「分かった。続けて教えてくれ。」
◆ ◆ ◆
一時間が過ぎた。
風が止んだ。
「……強くなってきた。」
セインが言った。
「土属性と、もう一つ——濁った色の魔力が混じっている。」
「魔核の闇属性だ。」
「混じり方が——不安定だ。」
計算した。
土属性と魔核由来の闇属性を同時に収束させようとしている。
二つの属性が反発し合っている。
制御できていない可能性がある。
「いつ崩れると思うか。」
「……分からない。でも——」
セインが少し止まった。
「崩れ始めたら、早い気がする。」
「そうだ。」
私は根源律の糸を少し太くした。
準備だ。
◆ ◆ ◆
二時間が過ぎた頃、セインが立ち上がった。
「来る。」
声が変わっていた。
「どのくらい。」
「……大きい。これまでで一番大きい。土属性の魔力が——爆発している。魔核の力も混じって——制御できていない。」
北東の空が、かすかに赤くなった。
遠くから、低い音が聞こえた。
「セイン。距離を取れ。」
「お前は。」
「動かない。ここから届かせる。」
セインが一歩下がった。
でも——離れなかった。
「見ている。」
「……分かった。」
◆ ◆ ◆
根源律に接続した。
全開ではない。
必要な分だけ。
最小限で最大の効果を出す。
北東の空が明るくなった。
爆発音が聞こえた。
一つではない。
連続していた。
低い音が重なり、高い音が重なり——やがて全部が一つの轟音になった。
土属性と闇属性が混じった魔力の塊が、旧試験場の上空で膨張していた。
色がなかった。
正確には——色が混じりすぎて、目が認識できない色だった。
土の茶と闇の紫が混じって、歪んで、脈動していた。
「……でかい。」
セインが言った。
声が変わっていた。
脈動するたびに、旧試験場の建物が崩れた。
石造りの壁が、音もなく砂になった。
屋根が吹き飛んだ。
地面が抉れた。
旧市街だ。
人は少ない。
でも——いない、わけではなかった。
◆ ◆ ◆
遠くから声が聞こえた。
悲鳴だった。
「……人がいる。」
セインが言った。
「分かっている。」
魔力球の縁が、旧市街の路地に触れた。
その瞬間——
石畳が抉れた。
路地の端を歩いていた人影が、よろめいた。
右腕が——消えていた。
切断ではなかった。
魔力球に触れた部分が、そのまま無くなっていた。
叫び声が上がった。
別の場所で、また叫びが聞こえた。
旧試験場の周囲、半里の範囲が既に崩壊していた。
石造りの建物が砂になっていた。
地面に巨大な亀裂が走っていた。
亀裂の底が——見えなかった。
魔力球が次の街区に触れた。
古い商家の建物が——吸い込まれるように消えた。
外壁が。
柱が。
屋根が。
順番に、静かに、消えた。
中にいた人間が、半身だけ残った状態で路上に倒れた。
叫ぶ声が、複数の方向から聞こえた。
王都の南の灯りが、揺れていた。
「急げ。」
セインが言った。
「分かっている。」
◆ ◆ ◆
「今だ。」
目を閉じた。
根源律に触れる。
世界の底。
有の属性が生まれる前の場所。
光も闇も土も水も——何もなかった場所。
そこから、引く。
引いて。
引いて。
「無に帰す。」
声には出さなかった。
でも——根源律が動いた。
◆ ◆ ◆
最初に、音が消えた。
爆発音が——止まった。
悲鳴が——遠くなった。
風の音も——消えた。
次に、光が変わった。
脈動していた塊が——揺れを止めた。
茶と紫が混じった歪んだ色が——白くなった。
白というより、色がなくなった。
有の属性が持つ固有の色が、全て——剥がれていった。
「……何が。」
セインが言った。
答えなかった。
◆ ◆ ◆
塊の縁から、消えていった。
燃えるのではない。
崩れるのでもない。
ただ——なくなっていった。
有であったものが、無に還る。
最初から存在しなかったように。
生まれる前の状態に戻るように。
静かに。
丁寧に。
一片も残さずに。
塊の中心部が——最後に残った。
土属性と魔核の闇属性が最も濃く混じった部分だった。
それが——最も長く、抵抗した。
でも。
根源律の前では——有の属性は全て等しい。
中心部が、薄くなった。
薄くなって。
薄くなって。
消えた。
◆ ◆ ◆
空が、戻ってきた。
夜の空だった。
星があった。
風が吹いた。
旧市街に、静寂が戻った。
遠くから、人の声が聞こえた。
悲鳴ではなかった。
呆然とした声だった。
「……消えた。」
セインが言った。
「そうだ。」
「お前が消したのか。」
「そうだ。」
◆ ◆ ◆
——旧試験場
クロイツは地面に倒れていた。
周囲の建物は全て崩れていた。
石の破片が散らばっていた。
地面に深い亀裂が走っていた。
右腕の魔核が、かすかに光っていた。
でも——光が弱かった。
空を見ていた。
遠くから、足音が聞こえた。
王国騎士団だった。
協会の者も来ていた。
誰も近づかなかった。
「……消えた。」
クロイツが言った。
「私の魔力が——無に帰した。」
空が広かった。
「……無とは。」
クロイツが続けた。
「こういうことだったのか。」
少し笑った。
計算のない笑い方だった。
「有をいくら積み重ねても——無には届かない。私は最初から——間違えていた。」
右腕を持ち上げた。
魔核が最後に光った。
「あの子は——最初から持っていた。生まれた時から。私が二十三年かけて辿り着けなかった場所に——最初から立っていた。」
◆ ◆ ◆
「公爵家に——絶望あれ。」
声が小さかった。
でも——はっきり聞こえた。
「兄よ。お前が私を処理した。その金で私は研究した。その研究の副産物として——お前の秘密を全て記録した。」
右腕が落ちた。
「正教会に——協会に——王国騎士団に——今夜、全てが届く。公爵家が神の使徒と繋がっていた証拠が。」
「……エルネスト。」
クロイツが最後に言った。
「お前は光の絶対支配を誇った。でも——光は、無に帰した。」
魔核の光が消えた。
◆ ◆ ◆
——王都北東 丘
セインが立ったまま、北東を見ていた。
「……終わったか。」
「そうだ。」
「クロイツは。」
「もう動かない。」
セインが少し動いた。
「……お前は今、何を感じている。」
私は少し考えた。
「終わった、という事実だけだ。」
「それだけか。」
「それだけだ。」
セインが少し間を置いた。
「俺は——少し、悲しかった。」
「クロイツが死んだことが。」
「違う。」
セインが言った。
「あいつが——二十三年間、間違えたまま進んでいたことが。気づいた時には、もう遅かったことが。」
「……そうか。」
「お前は悲しくないのか。」
「悲しい、かどうか——計算できない感情だ。でも——」
少し間を置いた。
「間違えたまま止まれなかった者の末路を、見た。それは——何かを残した。」
「何を。」
「まだ分からない。でも——残った。」
◆ ◆ ◆
丘に二人が立っていた。
王都の灯りが、南の方角に見えた。
旧市街の一角が、暗かった。
灯りがなかった。
建物が消えていたからだ。
「戻ろう。」
私は言った。
「エルヴィンが待っている。」
「そうだ。」
ノートを開いた。
「実験:制御不能・魔力爆発。旧市街一帯が崩壊。市民に被害あり。介入:無に帰す術式を発動。消滅。クロイツ——死亡。最期の言葉:『公爵家に絶望あれ』。公爵家と神の使徒の証拠を残した。」
一行追加した。
「終わった。でも——これで終わりではない。置き土産が動き始める。次の問いは、その先にある。」
ノートを閉じた。
丘を下りた。
王都の灯りに向かって、二人が歩いた。




