幕間 報告
——正教国 大聖堂 執務室 夜
リーゼ・ハルバーからの報告が届いたのは、接触から三日後の夕刻だった。
セラフィアは報告書を三度読んだ。
一度目は内容を確認するために。
二度目は言葉を正確に受け取るために。
三度目は——自分が何を感じているかを確認するために。
イレーネ・サンクタの執務室に向かったのは、その後だった。
◆ ◆ ◆
——正教国 大聖堂 教皇代理執務室
扉を叩いた。
「セラフィアです。報告があります。」
「入りなさい。」
扉を開けた。
イレーネ・サンクタが執務机に座っていた。
白髪を丁寧に結い上げた老女だ。
穏やかな目をしている。
でも——その奥に、何十年もの重さがある。
「グラウ・ルナの件です。」
セラフィアが言った。
「座って。」
セラフィアが椅子に座った。
◆ ◆ ◆
「リーゼから報告が届きました。」
セラフィアが言った。
「直接接触しました。伝言を伝えました。そして——返答を預かってきました。」
「どんな返答でしたか。」
セラフィアが報告書を開いた。
「『感謝しています。正教会が私の敵ではないことも理解しています。ただし——私の行動への同意は、私が決めます。孤独に戦っているわけではありません。でも、誰かの指示で動くつもりもありません。』」
執務室が静かだった。
イレーネが少し間を置いた。
「それだけですか。」
「もう一つ。『配置を解いてほしいとは言いません。でも——根源律接続に干渉しないでください。それだけ守っていただければ、共存できます。』」
◆ ◆ ◆
イレーネが窓の外を見た。
夜の正教国が広がっていた。
「……十歳ですね。」
「そうです。」
「十歳で、そこまで言えるのですか。」
「リーゼも同じことを言っていました。」
イレーネが少し笑った。
穏やかな笑い方だった。
でも——何かを考えながらの笑いだった。
「感謝は服従ではない。行動の決定権は自分にある。」
イレーネが繰り返した。
「正確な言葉ですね。」
「そうです。」
「あなたはどう思いますか。セラフィア。」
◆ ◆ ◆
セラフィアは少し間を置いた。
「……正しい、と思います。」
「正しい。」
「私たちは——あの子に何も聞かなかった。封印も、後見も、騎士団の配置も。全て——あの子の同意なしに決めました。」
封印、という言葉を言った。
イレーネが少し動いた。
「封印のことを、本人に伝えるつもりはありますか。」
「……まだ、分かりません。」
セラフィアが言った。
「伝えるべき時が来たら、伝えます。でも——今ではない。今伝えれば、あの子は正教会から離れるかもしれない。そうなれば——守れなくなる。」
「守る、というのは——誰のためですか。」
セラフィアが少し止まった。
「……あの子のためです。」
「本当に。」
「……本当に、そう思っています。」
◆ ◆ ◆
イレーネが執務机に肘をついた。
「二百年以上、教皇の座が空いています。」
イレーネが静かに言った。
「私は代理に過ぎない。神の力を行使できない。正教会は——不完全なままです。」
「はい。」
「あの子が教皇になれば——正教会は完成する。でも——」
イレーネが報告書を見た。
「あの子は、誰かの役割を担うつもりがない。」
「そうです。」
「だとすれば——正教会はどうすればいいのでしょう。」
セラフィアは答えられなかった。
◆ ◆ ◆
「一つだけ確認させてください。」
イレーネが言った。
「はい。」
「あの子は——今、安全ですか。」
「クロイツ主任との接触が続いています。公証による牽制が機能しています。騎士団が周囲にいます。今のところは——安全です。」
「今のところは。」
「そうです。」
イレーネが少し目を閉じた。
「根源律接続への干渉は禁止します。あの子の要請通りに。」
「分かりました。」
「でも——騎士団の配置は続けます。あの子も求めていない。共存できると言った。」
「はい。」
「セラフィア。」
「はい。」
「あの子が封印を知った時——正教会への問いが来るはずです。その時、あなたは答えられますか。」
◆ ◆ ◆
セラフィアは長い沈黙の後、答えた。
「……答えを、今も探しています。」
イレーネが頷いた。
「私も同じです。」
二人が黙った。
執務室の窓から、正教国の夜が見えた。
どこかにクレーターがある。
三十年前に残ったクレーターが。
「あの子が『感謝は服従ではない』と言った。」
セラフィアが静かに言った。
「……その言葉を、私たちは正面から受け取るべきです。」
「そうですね。」
「でも——受け取った上で、どうするかは——まだ分かりません。」
「分からなくていいと思います。」
イレーネが言った。
「今は、あの子が安全でいることだけを考えましょう。」
「……はい。」
◆ ◆ ◆
セラフィアが立ち上がった。
扉に向かいながら、一度だけ振り返った。
「イレーネ様。」
「何ですか。」
「あの子は——『孤独に戦っているわけではない』と言いました。一緒に問題を解いている人間が二人いると、リーゼに話したそうです。」
イレーネが少し表情を変えた。
「……そうですか。」
静かな声だった。
セラフィアが扉を閉めた。
執務室に一人が残った。
イレーネが窓の外を見た。
「一緒に問題を解いている。」
呟いた。
二百年以上、教皇の座が空いていた。
その間、正教会は守り続けてきた。
「……羨ましいですね。」
誰にも聞こえない声で、イレーネが言った。




