幕間 灰色の子どものこと
——正教国 大聖堂 夜明け前
祈りの時間は、夜明け前と決めている。
誰もいない大聖堂に、セラフィアは一人で座っていた。
六十年以上、この場所で祈り続けてきた。
膝が痛む。それでも、座る。
祈りとは神への問いかけだ。
答えが返ってくることは、ない。
それでも問いかける。
それが信仰だと、若い頃に師から教わった。
今夜の問いは、いつもと同じだった。
——あの子のことを、どうか見守ってください。
◆ ◆ ◆
グラウ・ルナが孤児院に来たのは、ほんの赤子の頃だった。
出自は分からなかった。
名前もなかった。
ただ、灰色の目をした小さな子どもが、礼拝堂の前に置かれていた。
抱き上げた瞬間、分かった。
魔力の流れが——ない。
正確には、あるのだ。
でも全て、内側に向いている。
外に出ようとしていない。
世界と繋がろうとしていない。
——無属性だ。
三十年前にも、一度見た。
神の力を持つ者を。
あの時と同じ感覚だった——でも、今度は赤子だ。
あの時と違い、まだ何も知らない子どもだ。
◆ ◆ ◆
三十年前のことを、セラフィアは今でも覚えている。
その者にも封印を施した。
完璧に機能した。
でも——別の理由で、覚醒した。
暴走した。
正教国の一角が消えた。今もそのクレーターは残っている。
外部から干渉した者がいた。神の力を力として使おうとした者が。それが引き金になった。
——あの時の無属性者が教皇になれていれば、二百年の空白は続かなかった。
正教会が制定した教会法には書いてある。
「神の力を持つ者は、時が来るまでその力を封じ、正しき場所で育てなければならない。」
でも三十年前の件で分かった。
封印は覚醒を防がない。
外部干渉を防ぐためのものだ。
それでも——この赤子に封印を施した。
理由は一つだ。
外から干渉されても、神の力に接続しにくくするため。
三十年前と同じことを繰り返させないために。
◆ ◆ ◆
封印は、子どもが眠っている間に行った。
魔力の核に触れ、内側から鍵をかける。
傷はつけない。痛みもない。
ただ——静かに、鍵をかける。
子どもは眠ったまま、小さな息を繰り返していた。
灰色の睫毛が、かすかに揺れていた。
——ごめんなさい。
思ったかもしれない。
思わなかったかもしれない。
十年経った今も、あの瞬間に何を感じたか、正確には覚えていない。
覚えているのは——子どもが眠っていたこと。
灰色だったこと。静かだったこと。それだけだ。
◆ ◆ ◆
報告は定期的に届く。
魔法学院に入学したこと。
無属性と判定されて笑われたこと。
実技評価で全項目不合格だったこと。
進級審査で圧力をかけられたが、規定を武器に跳ね返したこと。
そして——
公証番号〇〇四七。
外部エネルギー変換式の理論的証明と実装記録。
セラフィアは報告書を読んだ。何度も読んだ。
外部エネルギー変換式。内部魔力に依存しない術式。
封印した意味が、ない。
あの子は——封印の外側から、神の力に届いていた。
外部からの干渉を防ぐために封じた内部魔力を、あの子は使わなかった。
使う必要がなかった。
別の道で、神の力に辿り着いた。
セラフィアには、その道が見えなかった。
◆ ◆ ◆
もう一ページ、読んだ。
そこに、一つの名前が書かれていた。
「根源律。」
セラフィアは、しばらくその言葉を見つめた。
——根源律。
正教会では「神の力」と呼んでいる。二百年以上前から、そう呼んできた。
神が世界に刻んだ根本の恩寵。
人が触れることのできる、世界の最も深い層。
あの子はそれに辿り着いて——「根源律」と名付けた。
神の名を、使わなかった。
——神の力を持つ者が、神を認めなかった。
これが何を意味するのか、セラフィアにはすぐには分からなかった。
信仰への挑戦なのか。
それとも——別の何かなのか。
ただ一つだけ、はっきり分かることがあった。
あの子は、私たちの言葉では動かない。
◆ ◆ ◆
もう一つ、報告があった。
オルヴァン・クロイツ。
王立魔法協会特別研究部門主任。
彼がグラウ・ルナに接触しているという。
二度目の接触では、アストラ子爵家への圧力を示唆したとも。
その名前を聞いた時、セラフィアは少し止まった。
クロイツ公爵家の妾腹。協会の研究者。
——三十年前と、同じ匂いがする。
あの時も、外から近づいた者がいた。
神の力を力として使おうとした者が。
あの時と同じ方向を向いている者が、今度はあの子に近づいている。
さらにもう一つ。
カルヴァーン王国の第一王女が、魔法学院に留学してきたという。
カルヴァーン王国。
セラフィアは少し目を閉じた。
その国が今どういう状況にあるか——正教会は把握している。
——包囲が、少しずつ狭まっている。
「騎士団長を呼んでください。」
側に控えていた修道女に言った。
「グラウ・ルナへの監視を、さらに強化する必要があります。」
◆ ◆ ◆
夜明けの光が、大聖堂の窓から差し込んだ。
ステンドグラスの色が床に広がった。赤、青、金。様々な色。
灰色はなかった。
セラフィアは立ち上がった。
膝が鈍く痛んだ。
——あの子が封印を知る日が来るとしたら。
その時、自分は何を言うだろう。
「封印が正しかったかどうかは、まだ分からない。でも、あなたを守ろうとした。それだけは本当だ。」
そう言えるだろうか。
あの子は、きっとこう言う。
「守ろうとした根拠を、証明してください。」
——答えを、まだ持っていない。
そしてもう一つ——
「神の力と根源律は、同じものですか。」
——その問いにも、答えられない。
二百年以上、正教会は教皇を持てなかった。
イレーネ・サンクタが代理を務め続けている。
あの子が教皇になることを、セラフィアは願っている。
でも——あの子が「感謝は服従ではない」と言う日が来ることも、セラフィアはどこかで知っていた。
夜明けの光の中で、セラフィアはゆっくりと歩き出した。




