第二十話 取引の構造
——魔法学院 廊下 放課後
クロイツが来たのは、公証から十日後だった。
放課後の廊下。
エルヴィンと図書館に向かっていた時、曲がり角で鉢合わせた。
偶然ではない。
——この時間、この廊下を私が通ることは、時間割から計算できる。待っていた。
「グラウさん。」クロイツが言った。笑みは変わらない。「少しよろしいですか。」
視察の日と同じ言葉だ。
でも——視線がエルヴィンに一瞬だけ向いた。
「構いません。」私は言った。
「エルヴィンも同席します。」
クロイツが少し止まった。
それから頷いた。
「もちろん。」
◆ ◆ ◆
廊下の端、窓際に三人で立った。
前回と同じ場所だ。
「公証番号〇〇四七。」
クロイツが言った。前置きなしに。
「確認しました。」
「そうですか。」
「興味深い内容でした。」笑みが深くなった。「根源律の記述。私が長年追っていたものに、非常に近い。」
——「近い」と言った。
同じではなく、近い。
自分の理論との差を認識している。
「そうですか。」
私はもう一度同じ言葉を返した。
クロイツの目が少し動いた。
◆ ◆ ◆
「一つお願いがあります。」
クロイツが続けた。
「私の研究室に来ていただけませんか。資料を見ていただきたいものがあります。あなたの理論と、私の研究の接点について——直接話し合いたい。」
「断ります。」
即答だった。
クロイツが少し止まった。
「理由を聞かせていただけますか。」
「研究室に行く必要がありません。話し合うことがあれば、ここで話せます。」
「しかし——」
「私の理論は公証で記録されています。内容は既に確定しています。研究室でどんな話をしても、その事実は変わりません。」
クロイツの笑みが、一度だけ薄くなった。
すぐに戻った。
◆ ◆ ◆
「アストラさん。」
クロイツが突然エルヴィンに向いた。
「保証人として署名されましたね。」
エルヴィンが表情を動かさずに答えた。
「そうです。」
「アストラの名を持つ家は、協会とも長いお付き合いがある。」
クロイツが穏やかに言った。
「そのような家が関わっているとなれば、協会としても記録を精査することになりますが。」
——牽制だ。「アストラ」という姓を使って圧力をかけようとしている。クロイツ公爵家の遠縁という関係を利用しようとしている。
エルヴィンが一瞬だけ固まった。でも答えた。「存じています。それでも署名しました。」
「そうですか。」
クロイツが頷いた。
「お父上は、協会との関係を大切にされている。その関係に影響が及ぶことを——」
「保証人の件は、私の判断です。」
私は言った。
クロイツの視線が戻ってきた。
「公証の内容はエルヴィンの署名を必要としました。それはアストラ子爵家の判断です。協会との商会取引とは別の話です。混同するなら、それは論理的な誤りです。」
◆ ◆ ◆
沈黙が五秒続いた。
クロイツが、初めて笑みを完全に消した。
一秒だけだった。すぐに戻った。でも——見えた。
——仮面の下に何があるか。感情ではない。計算だ。でも今日は計算が少し乱れた。
「グラウさん。」
クロイツが声のトーンを変えた。穏やかさは同じだ。でも重さが増した。
「率直に聞きます。あなたは何を守ろうとしているのですか。」
「正しいものを正しい場所に残すことです。」
「それは——私の研究の妨げになりますか。」
「あなたの研究が正しければ、妨げにはなりません。」
「もし私の研究が正しくないと、あなたが判断したなら。」
「判断はすでにしています。」
クロイツが止まった。
「研究記録を読みました。収束紋の設計に問題があります。魔法素が第五段階で散逸する。接続構造が術者の魔力回路を前提にしているため、外部エネルギーを通せば回路が損傷する。それが——」
「——続きは結構です。」
クロイツが初めて私の言葉を遮った。
——核心に触れた。
◆ ◆ ◆
短い沈黙の後、クロイツが言った。
「あなたは、私が何をしているか知っていると思っている。」
「知っています。」
「どこまで。」
「研究の欠陥の場所まで。」
クロイツの目が、初めてまっすぐ私を見た。
笑みも消えた、素の顔だった。
一秒間。
それから全てが戻った。
「……賢い子どもですね。」
クロイツが静かに言った。褒め言葉ではなかった。
「ありがとうございます。」
「最後に一つだけ。」
クロイツが歩き出しながら言った。
振り返らずに言った。
「根源律——美しい名前だ。でも名前をつけたものは、いつか誰かに使われる。それを忘れないでください。」
足音が遠ざかった。
◆ ◆ ◆
廊下に二人が残った。
エルヴィンが少し間を置いてから言った。
「……アストラの名前を出した。」
「想定内だ。」
「想定していたなら、なぜ同席させた。」
「あなたがいた方が、クロイツの手札が見えるからだ。一人で会えば、彼は手札を隠す。あなたがいれば、使える手札を確認しようとする。今日——アストラ家への圧力という手札を確認した。」
エルヴィンが少し黙った。
「……私を、道具として使ったのか。」
私は少し考えた。
「あなたに危険が及ぶ手札かどうかを確認したかった。結果——圧力として使おうとした。それが分かった。」
「それは——私のためか。」
「あなたのためでもあるし、情報収集のためでもある。どちらかと言えば——両方だ。」
エルヴィンが少し笑った。
「……お前は毎回同じことを言うな。」
「正しいから言う。」
◆ ◆ ◆
図書館に向かって歩き始めた。
「最後の言葉。」
エルヴィンが言った。
「『名前をつけたものは、いつか誰かに使われる』——どういう意味だ。」
「脅しだ。根源律の存在を公証で記録したことで、いつか第三者が参照できるようになる。私以外の誰かが根源律に到達する可能性を示唆している。」
「——それは本当のことか。」
「本当だ。だから私は今、発表の条件を整えている。誰かに使われる前に、正しい形で世に出す。」
エルヴィンが頷いた。
——クロイツの最後の言葉は脅しだった。でも同時に——正しかった。名前をつけたものは使われる。だからこそ、使われる前に正しい場所に置く必要がある。
彼は警告のつもりで言った。
でも私にとっては、もう計算済みの話だった。
ノートを開いた。今日の会話を記録する。
「クロイツ第二接触:①研究室への誘導を試みた→拒否。②アストラ家への圧力示唆→確認済み。③収束紋の欠陥に触れた時、初めて言葉を遮った→核心への反応確認。④最後の警告:根源律は誰かに使われる——想定内。」
一行追加した。
「仮面が一秒だけ消えた。その下にあったのは、感情ではなく乱れた計算だった。」
図書館の扉が見えた。




