第十六話 名前を賭ける理由
——魔法学院 中庭 放課後
翌日、エルヴィンから声をかけてきた。
いつもの北棟ではなく、中庭だった。
午後の授業が終わった直後、廊下でいきなり「少し時間をくれ」と言われた。
中庭のベンチに並んで座った。
「返事を聞かせてほしい。」私は言った。
「分かっている。その前に、一つ聞かせてくれ。」
◆ ◆ ◆
「あのノート——本当に、お前が書いたのか。」
「そうだ。」
「どこで学んだ。」
「独自のアプローチだ。既存の魔法理論書を読んで、別の角度から組み直した。出典は言えない。」
「言えない、というのは——」
「言う必要がないからだ。術式は機能している。それで十分だ。」
エルヴィンが少し黙った。否定しなかった。
「クロイツはお前の閲覧記録を確認していた。お前が自分と同じ領域を調べていると知っている。」
「おそらく。」
「そして今、お前はクロイツより先にいる。」
「今は。」
エルヴィンが中庭の噴水を見ていた。
水が落ちる音だけが続いた。
「公証の記録にアストラの名が残れば、クロイツが後で調べれば私が関わっていたと分かる。」
「分かっている。リスクを理解した上で聞いている。」
「そうだな。」
◆ ◆ ◆
エルヴィンが、初めてこちらを向いた。
「父が言っていた。『クロイツは協会の中でも異質だ。研究の成果を権力に変えようとしている。止められる者がいればいいのだが』と。」
「お父上は何かを察している。」
「証拠がなくて動けないようだが。」
「お前のノートが公証を受ければ——先に到達していた者がいるという記録が残る。それが牽制になる。」
「そうだ。」
エルヴィンが何かを決めた顔をした。
「保証人になる。条件を一つだけ付ける。」
「聞く。」
「内容を教えてくれ。お前が何を知っていて、何を目指しているのか。言える範囲で全部。」
◆ ◆ ◆
一時間、話した。
ただし——この世界の言語だけで話した。
「私の術式の根拠になっているエネルギー源は、この世界の魔法理論に名前がない。」私は言った。
エルヴィンが眉を上げた。「名前がない?」
「大気中の魔法素とは別の層にある。術者の魔力回路とも繋がっていない。世界の構造そのものの底に存在するエネルギーだ。既存の理論書には記述がない。私が独自に発見した。」
「……それを、お前は使えるのか。」
「使えている。実証済みだ。」
エルヴィンが少し黙った。
「名前がなければ、他の術者には説明できないじゃないか。」
「今日のところは『世界の底の未名エネルギー』と呼んでおく。正式な名称はまだ決めていない。」
「分かった。続けてくれ。」
——理解ではなく、受容だ。
今は知らなくていいと判断した。
それで十分だ。
第四公理の誤りの証明。
クロイツの研究記録の欠陥——収束紋が第五段階で止まるという問題。
公証で記録に残す理由。
エルヴィンはノートを出して書き留めながら聞いた。
「一つ確認する。クロイツはその『世界の底』に気づいているか。」
「直感はあるようだ。でも概念として掴めていない。名前も持っていない。」
「なぜお前には分かる。」
「別のアプローチで考えたからだ。」
エルヴィンが少し止まった。
それ以上は聞かなかった。
——「別のアプローチ」という答えで十分だと判断した。
聡明さではなく、節度だ。
◆ ◆ ◆
中庭はすでに夕暮れの色になっていた。
「お前は何のために動いているんだ。クロイツに勝つためか。」
「違う。正しいものを、正しい場所に残すためだ。誰かに利用される前に、私が先に形にする。それだけだ。」
「それだけか。」
「それだけだ。」
エルヴィンが空を見上げた。夕暮れの雲が西に流れていた。
「……検査の日から何も変わっていないな。水晶球がほとんど光らなかった時も、今も、同じ顔をしている。」
「そうか。」
「褒めているのか貶しているのか分からないが。」
エルヴィンが立ち上がった。
「明後日には動ける。」
「ありがとう。」
エルヴィンが少し止まった。「……お前が礼を言うのを、初めて聞いた。」
「必要な時には言う。」
エルヴィンが歩き出した。
◆ ◆ ◆
中庭に一人残った。
——「なぜ分かるのか」と聞かれた。
「別のアプローチで考えたから」と答えた。
嘘ではない。でも全部ではない。
この世界の誰にも、正確な説明はできない。
概念の土台がないから。
翻訳するたびに、何かが零れ落ちる。
ノートを開いた。ページの隅に書いた。
「世界の底の未名エネルギー——この世界の言葉で、正確な名称を決める必要がある。」
手を動かしながら、考え続けた。夕暮れの光が石畳に長い影を作っていた。




