第十五話 先手の論理
——魔法学院 北棟 非常階段 視察当日 昼休み
セインはいつもの場所にいた。
弁当箱を膝に置いたまま、私が来るのを待っていたらしい。階段を上がってくる足音で分かったのか、振り向かずに言った。
「クロイツと話したか。」
「した。」
向かいに座った。
ノートを開く前に、今日の廊下での会話を順番に話した。
「完成のために使われるべき」という言葉。
目的を問われて答えられなかったこと。
最後の「第四公理は正しいと思うか」という問い。
セインは黙って聞いていた。
弁当に箸をつけていない。
「……直接来た。」
セインが言った。
「そうだ。もう観測段階ではない。」
「俺のところにも来ると思うか。」
「来る可能性がある。闇属性の魔力分解研究——素材として、あなたは条件に合う。」
セインの手が、弁当箱の蓋を強く握った。
感情が出た瞬間だった。すぐに緩めた。
「——分かった。来たら教える。」
◆ ◆ ◆
「一つ聞いていいか。」セインが言った。
「どうぞ。」
「お前は怖くないのか。相手は協会の主任だ。」
「怖いかどうかと、やるべきかどうかは別の問いだ。」
「それは答えになっていない。」
「怖い。計算した結果、動かない方が危険だと判断した。それだけだ。」
セインが少し黙った。
「……お前は変わってる。」
「よく言われる。」
「褒めてない。」
「知っている。」
短い沈黙の後、セインが箸を動かし始めた。食べていなかった昼食に、ようやく手をつけた。
◆ ◆ ◆
昼休みの残り時間、私はノートを開いた。
次にやることが決まった。
王立魔法協会の公開資料室。
クロイツが発表した研究記録の全文。
彼がどこまで到達しているか、どこで止まっているか——それを確認してから、動く。
「行動計画①:協会資料室でクロイツの研究記録を読む。②:理論の欠陥を特定する。③:先に証明を完成させ、日付入りで記録を残す。」
「何を書いてる。」
セインが横から覗いた。
「次の手順だ。」
「一人でやるつもりか。」
「今は一人でやれる範囲だ。」
「……エルヴィンには言わないのか。」
私は少し考えた。
「結果が出てから話す。動く前に相談すると変数が増える。」
「それは——信用していないということか。」
「信用と変数管理は別の話だ。」
セインが何か言いかけて、やめた。
◆ ◆ ◆
——魔法学院 北棟 非常階段 三日後 昼休み
協会資料室から戻って、三日が経った。
クロイツの研究記録は十七本あった。四時間で読んだ。
今日、二人に話す。
エルヴィンも来ていた。
最近は毎日来る。
弁当も持ってくるようになった。セインはすでに座っていた。
「報告がある。三日前から動いていた。先に聞いてほしい。終わってから意見を言え。」
エルヴィンが眉を上げた。「三日前から?」
「視察当日に方針を決めた。セインには当日話した。エルヴィンには結果が出てから話すと決めていた。」
「……なぜ私には後なんだ。」
「変数管理だ。」
エルヴィンが何かを言いかけて、止まった。
セインが小さく目を逸らした。
◆ ◆ ◆
クロイツの研究記録の欠陥を説明した。
収束紋の設計問題——魔法素が第五段階で散逸する。
接続構造が術者の魔力回路を前提にしているため、外部エネルギーを通せば回路が焼き切れる。彼はまだそこに気づいていない。
「今は私が先にいる。この差を維持するために——先に完成させて、記録に残す。日付入りで。協会の公証を受ける形で。」
「発表はしないのか。」
エルヴィンが言った。
「しない。盾として使う。発表は剣になる。今は剣を抜く時ではない。」
エルヴィンがノートを受け取った。数ページ、黙って読んだ。
表情が少しずつ変わった。困惑から驚きへ。
驚きから——何か別のものへ。
「……これを書いたのか。」
「書いた。公証の申請には保証人が必要だ。アストラ家の名前を使わせてほしい。」
「セイン。」
私は続けた。
「あなたにはクロイツの研究の被害事例を集めてほしい。使い道はまだ決まっていない。でも手元にある方がいい。」
セインが頷いた。「分かってる。」
◆ ◆ ◆
「次から先に言え。」エルヴィンが言った。
「なぜ。」
「そうした方が、手が増える。」
私は少し止まった。
視察当日、セインに「一人でやれる範囲だ」と言った。それは本当のことだ。でも——
「——検討する。」
エルヴィンが立ち上がった。
「明日、保証人の件で返事をする。」
セインが階段を下りながら、ぼそりと言った。「変数管理、ね。」
何かが含まれていた気がしたが、背中しか見えなかった。
——「次から先に言え」——参加の意思表示だ。「分かってる」——同じだ。
三日前、私は一人で動くことを選んだ。
今日、二人はその後から来ることを選んだ。
どちらも、正しい選択だったのかもしれない。
ノートを閉じた。
北棟の踊り場に、春の風が通り過ぎた。




