第十四話 二つの演算
——魔法学院 大講堂 視察当日 午前
オルヴァン・クロイツは、想像より小柄だった。
五十代前半。
白髪混じりの整えられた髪。
深緑の礼装。
王立魔法協会の紋章が左胸に縫いつけられている。
穏やかな目元。
口元には、常に薄い笑みが貼りついていた。
大講堂に集められた全校生徒の前で、クロイツは挨拶をした。
声は低く、落ち着いていた。
「魔法とは世界への問いかけです。皆さんの探究心が、この国の魔法学を前進させる。私はその探究を——完成させるために、ここに来ました。」
拍手が起きた。
私は拍手をしなかった。
——「支援する」ではなく「完成させる」。
主語が自分だ。
探究の主体は生徒ではなく、クロイツ自身だと言っている。気づいた者はいなかっただろう。
◆ ◆ ◆
二時間目の魔法理論の授業に、クロイツが入ってきた。
ヴァルム先生が緊張した顔で椅子を用意した。
クロイツは後方の壁際に座り、静かにノートを取り始めた。
「魔力の総量は術者の属性によって上限が決定され、外部からの補填は不可能である——第四公理について確認しましょう。」
ヴァルム先生が黒板に書く。
クロイツのペンが、止まった。
一秒。二秒。三秒。
長すぎる停止だった。
他の生徒には気づかれなかっただろう。私の角度からは見えた。
クロイツの目が黒板の文字を見ていなかった。
——遠くを見ていた。計算をしていた。
それから視線が動いた。
教室の生徒を順番に流れていく。
形式的な観察ではない。
何かを探している。
篩にかけるような視線だ。
視線が私の列に来た。
私はノートを見ていた。視線を上げなかった。
止まった。私で。
五秒間。
それから静かに次へ移った。
◆ ◆ ◆
——魔法学院 廊下 昼休み前
「グラウ・ルナさん。」
授業の終わりに声をかけられた。振り向く前から、誰かは分かっていた。
クロイツが一人で立っていた。随行の職員を連れていない。
「少しよろしいですか。個別面談に申し込みがなかったようですが——私の方から、どうしてもお話ししたくて。」
「どうしても」。強調した。意図的だ。
「構いません。」
廊下の端、窓際に二人で立った。
「出席簿で拝見しました。無属性、とのことで。今学期の実技評価も、残念な結果で。」
「ゼルム教師の評価基準は一貫していました。」
「そうですね。」クロイツが頷いた。「でも——基準が間違っていることもある。」
ゼルムと同じ公理を持ちながら、使い方が違う。ゼルムは切り捨てるために使う。クロイツは——手元に置くために使う。
「図書館の閲覧記録を確認しました。」クロイツが続けた。
声のトーンが変わった。
穏やかさは同じだ。でも——重さが加わった。「外部エネルギー論。禁忌術式の理論的背景。質量変換術式の理論限界。」
一冊一冊、正確に。
「よく読まれていますね。」
——これは感心ではない。確認だ。お前が何を知っているか、どこまで辿り着いているか、確かめている。
「興味がありました。」
「どこまで理解できましたか。」
直接的な問いだった。笑みは変わらない。でも目が、初めてまっすぐ私を見た。
◆ ◆ ◆
一秒考えた。
「理解できた部分と、まだ検証中の部分があります。」
「検証中。」クロイツが繰り返した。「十歳の学生が、検証を。」
「年齢は関係ないと思います。」
「そうですね。」クロイツが少し前に出た。「まったく、そうです。」
笑みが深くなった。深くなるほど、目から感情が消えた。
「グラウさん。あなたのような頭脳は——完成のために使われるべきです。」
「正しい場所で」ではなく「完成のために」。
完成とは何の完成か。
誰のための完成か。
言わなかった。
言う必要がないと思っている——あるいは、自分でも考えていない。
「何を完成させるのですか。」私は聞いた。
クロイツが少し止まった。
「それを、一緒に考えてほしいのです。」
——答えられなかった。
目的を問われて、答えが出なかった。
手段の完成が自己目的化した人間は、目的を持たない。だから答えられない。
「検討します。」
◆ ◆ ◆
クロイツが歩き出した。
三歩進んで、止まった。振り返らずに言った。
「一つだけ。」
声から笑みが消えた。廊下に反響しない、低い声だった。
「第四公理は——正しいと思いますか。」
探りではなかった。
これは確認だ。お前がどこまで知っているかではなく——お前が知っていることを、私も知っている、という確認だ。
「正確に検証されていない命題だと思います。」
沈黙が四秒続いた。
「……そうですか。」
クロイツが歩き出した。今度は止まらなかった。
角を曲がる直前、横顔が見えた。笑みは消えていた。代わりにあったのは——満足でも驚きでもなく、純粋な、感情のない集中の顔だった。
計算していた。私の答えを材料に、次の手を計算していた。
◆ ◆ ◆
廊下に一人残った。
壁に背を預けて、ノートを開く。
「クロイツ評価:知性:高。目的:不在。手段(術式完成)が自己目的化。倫理的歯止め:存在しない。「完成のために使われるべき」=私をパーツとして認識している。」
一行追加した。
「彼は目的を問われて答えられなかった。完成した先に何があるかを、考えていない。——これが最も危険な点だ。」
さらに一行。
「次の接触は、もっと直接的になる。」
ノートを閉じた。
北棟の踊り場で、セインが待っている。
今日の話を、する必要がある。




