第十話 重ね合わせの術式
——魔法学院 寮 ルナの自室 深夜
眠れない夜がある。
正確には、眠ろうとしていない夜だ。
頭の中で何かが動いている時、睡眠は後回しになる。
前世でもそうだった。
証明の途中で床についても、目が覚めると手がノートを探していた。
今夜は、セインの言葉が引っかかっていた。
「腐食術式を使うと自分の魔力も削れる。長時間使えば術者の寿命が縮む」——それが嘘だとしたら。
闇属性の術式は「負のエネルギー」を扱うとされている。
負のエネルギーが術者に跳ね返るから危険、というのが通説だ。
でも「負のエネルギー」の定義が、この世界の理論書には曖昧にしか書かれていない。
ノートを開いた。手が動き始めた。
◆ ◆ ◆
闇属性の術式構造を書き写す。
通常の火属性術式と比較する。差異を列挙する。
エネルギーの流れが逆方向。外に放出するのではなく、対象から「引く」構造になっている。
引く。
——前世の記憶が動いた。
量子力学。
粒子の状態は、観測されるまで確定しない。
電子は「ここにある」でも「ここにない」でもなく、複数の状態が重ね合わさった確率の雲として存在する。
観測した瞬間、波動関数が収束して一つの状態に確定する。
シュレーディンガーの猫。
箱の中の猫は、開けるまで生きているでも死んでいるでもない。
「観測」が現実を確定させる。
◆ ◆ ◆
手が止まった。
——この世界の魔法は、「現実の書き換え」だ。術式を展開することで、世界の構造式を一時的に変更する。
では——書き換える前の状態、つまり「未確定状態」を意図的に作り出せるとしたら?
ノートに新しい数式を書き始めた。
通常の術式は「状態Aから状態Bへ」の変換式だ。
でも量子力学的に言えば、状態は観測されるまで確定しない。
観測されなければ、AでもBでもない、重ね合わせの状態が続く。
「観測されない魔法」——展開しているが、確定していない術式。
数式が展開される。
ダークエネルギー変換式を基底に、波動関数の収束を遅延させる項を追加する。収束遅延係数τ。τが大きいほど、術式の「確定」が遅くなる。
`Ψ_superposition = Φ(x,t) · Σ cₙ|ψₙ⟩ · e^(-t/τ)`
*cₙ:各状態の確率振幅。t:経過時間。τ:収束遅延係数。*
τ→∞の極限で、術式は永遠に「確定しない」。
◆ ◆ ◆
これが何に使えるか、三つの可能性を書き出した。
一、自分の存在を「未確定状態」に置く——観測されても認識されない。透明化とは違う。
存在はしているが、観測者の認識系に引っかからない。
二、術式そのものを「未確定」にする——展開中の術式が敵に読まれない。
どんな属性の術式か、どこに向かうか、収束するまで分からない。
三、対象の状態を「未確定」にする——傷を「治った状態」と「傷ついた状態」の重ね合わせに置き、収束させる方向を選択する。
理論上は治癒術式になる。
——三番目は、まだ手が届かない。
でも一番と二番は、今夜中に初期検証ができる。
◆ ◆ ◆
目を閉じた。
ダークエネルギー変換式を起動する。
世界の底から、細く糸を引く。
それを基底に、重ね合わせ術式を展開する。
収束遅延係数τを最大に設定した。
何かが変わった。
正確には——何かが変わったかどうか、自分でも分からなくなった。
……これが、未確定状態か。
鏡を見た。映っている。
存在は確定している。
でも——何か、輪郭が薄い。正確に言えば、「そこにいることへの確信」が、わずかに揺らいでいるような感覚だ。
術式を解除した。輪郭が戻った。
観測者への影響については、まだ検証できていない。
自分で自分を観測している限り、正確なデータは取れない。第三者が必要だ。
ノートに書き留めた。
`「重ね合わせ術式:初期展開確認。自己観測条件下では効果測定不能。外部観測者による検証が必要。」`
◆ ◆ ◆
窓の外が、白み始めていた。
気づけば夜が明けていた。
前世でも何度もあったことだ。数式を追っている間、時間の流れが変わる。
ノートを閉じた。今夜の収穫を整理する。
新しい術式の概念:**重ね合わせ術式**。量子力学の観測問題を魔法に適用した、この世界にない発想。基底はダークエネルギー変換式。消費魔力は変換式経由のため実質ゼロに近い。
用途の可能性:隠蔽、術式秘匿、理論上は治癒。
課題:外部観測者による検証。収束遅延係数τの最適値。長時間展開時の安定性。
——検証には、信頼できる観測者が要る。
セインの顔が、一瞬頭に浮かんだ。
すぐに打ち消した。
まだ早い。証明が先だ。
それが、数学者のやり方だ。
朝の光が、ノートの数式を照らした。




