第九話 同じ座標
——魔法学院 北棟 非常階段 昼休み
学院の北棟には、生徒がほとんど来ない。
古い建物で、採光が悪く、冬は特に冷える。
非常階段の踊り場は風が通り抜けるだけの空間で、用途がない。
だから私はそこを使っていた。
昼休みにノートを広げるのに、人がいない場所は都合がいい。
◆ ◆ ◆
その日、先客がいた。
踊り場の隅、壁に背を預けて座っている男子生徒。
同じ一年、見覚えがある顔だ。
セイン・ノワール。闇属性。
魔力量——上位一パーセント以内。
入学時の検査で記憶していた。
水晶球が深い紫黒に染まった時、広間が一瞬静まった。
その後に広がったざわめきは、エルヴィンの「欠陥品」より質が悪かった。
声には出さず、顔だけが動いた。
生徒たちが、一歩引いた。
彼は今、弁当箱を膝に置いたまま、食べていなかった。
私は階段を上り、反対側の壁に座った。ノートを開く。
「……何しに来た。」低い声だった。
「ここを使っていた。先客がいるとは知らなかった。」
「出て行け。」
「断る。ここは公共の場所だ。」
沈黙。
◆ ◆ ◆
十分間、二人とも何も言わなかった。
私はκの改良を続けた。
セインは壁を見ていた。
弁当箱は開いたままだった。
観察する。
闇属性は「精神干渉」「負のエネルギー操作」「腐食術式」などに適性を持つ。
攻撃性が高い属性とされ、魔法協会の規定では闇属性術者の術式展開に追加の許可証が必要だ。
授業中も、ゼルム教師の視線がセインに向く時だけ、警戒の色が混じっていた。
強力な属性を持ちながら、それを理由に排除される。
構造が、似ている。
「なぜ食べない。」私は言った。
「関係ない。」
「食事は認知機能に直結する。午後の授業効率が落ちる。」
「うるさい。」
「うるさいのはあなたの空腹音だ。三分前から聞こえている。」
短い沈黙の後、セインが弁当箱の蓋を閉じた。
「食堂では食えない。席に座ると周りが立つ。」
言ってから、舌打ちをした。私に話すつもりはなかったらしい。
◆ ◆ ◆
私はノートから目を離さずに言った。
「私は検査でほとんど光らなかった。測定限界以下。あなたは深紫黒に染めた。方向は正反対だが、結果は同じだ。」
「同じじゃない。お前は欠陥品扱いだ。俺は危険物扱いだ。」
「どちらも正確な評価ではない、という点では同じだ。」
セインが初めてこちらを見た。
灰色の目だった。
属性は闇だが、目の色は淡い。
少し意外だった。
「……お前、グラウか。」
「そうだ。」
「無属性の。」
「そうだ。」
「なんで不合格を受け流せる。ゼルムの採点、廊下に貼り出されていた。お前だけ全項目不可だった。」
「間違った物差しで測られた結果だから。」
「……意味が分からない。」
「いつか分かる。」
◆ ◆ ◆
セインはしばらく黙っていた。それから弁当箱を開いた。
食べ始めた。
私はノートに戻った。
κの波長パラメータ、定義域を〇・〇〇三拡張する。
変換効率が理論上一・七倍になる計算だ。
「一つ聞く。」セインが言った。
「どうぞ。」
「闇属性は、腐食術式を使うと自分の魔力も削れる。長時間使えば術者の寿命が縮む、とされている。だから闇属性は不安定で危険だ——それがこの学院の公式見解だ。」
「知っている。」
「それが嘘だとしたら、どうやって証明する。」
私はペンを止めた。
——この問いは、以前の問いと同じ構造だ。
「公認された理論が間違っている可能性を、どう証明するか」。
「まず既存の実験データを調べる。腐食術式と寿命短縮の相関を示した研究記録の、実験設計を検証する。変数の制御が適切か、他の要因が除外されているか。」
「やったことがある。研究記録が二本あった。どちらも実験対象が三人以下だった。」
「サンプルサイズが小さすぎる。統計的に有意な結論は出せない。」
「それを学院に言っても、聞かない。」
「今は聞かないかもしれない。でも証明は証明だ。聞かれなくても、正しいものは正しい。」
◆ ◆ ◆
セインが弁当箱を閉じた。
「……お前、変な奴だな。」
「よく言われる。」
「俺を怖がらないのか。」
「闇属性だから危険、という前提が誤りだと思っている。怖がる根拠がない。」
長い沈黙が落ちた。風が踊り場を通り過ぎた。
「名前。」セインが言った。
「グラウ・ルナ。」
「知ってる。下の名前だ。」
「ルナ。」
「……セインだ。」
私はノートに戻った。セインは壁に背を預け直した。
二人とも、それ以上は話さなかった。でも沈黙の質が、最初とは違っていた。
——観察結果:セイン・ノワール。研究記録を読む。実験設計を検証する。正しいものを正しいと言おうとしている。
この学院で、それができる人間は少ない。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
私たちは同時に立ち上がり、別々の方向へ歩いた。




