プロローグ 宇宙の最後の答え
私が数学を始めたのは、六歳の時だった。
雨粒が窓を伝う軌跡を見て、それが放物線だと気づいた日。世界は美しかった。数式という言語で記述できる、完璧な機械だった。
宇宙を宇宙たらしめる方程式——私はそれを「存在方程式」と呼んでいた。
重力は曲率テンソルの収縮だ。
光は電磁場の波動方程式の解だ。
生命でさえ、熱力学と情報理論の必然的な帰結だ。
では宇宙そのものは? 存在することの根拠は?
同僚たちは笑った。「詩的すぎる」「哲学者になれ」。
気にしなかった。
私には数式があった。
それだけで十分だった。
◆ ◆ ◆
あの日も、証明の途中だった。
十年かけた論文の最後の一行。
変数が一つ、どうしても定まらなかった。
頭を冷やすために珍しく外へ出た十一月の昼下がり、交差点で子どもを見た。
三歳か四歳。
赤信号を知らずに車道へ踏み出そうとしていた。ドライバーは気づいていない。
衝突まで一秒を切っていた。
体が動いた。
計算より先に。
子どもを押しのける。
衝撃。
——痛みは、なかった。
◆ ◆ ◆
意識が遠のく中で、頭の中で数式が動いた。
十年間止まっていた証明の最終行が——完成した。
……そうか。変数は「初期条件」じゃない。「選択」だ。宇宙は、選択によって分岐する——
暗転。
そして光。
空一面に広がる、金色の構造式。
見たことがない記号体系。
でも、読めた。
これは……物理法則じゃない。でも構造は似ている。世界の記述言語——魔法の、根本定理?
存在方程式を求めて三十四年生きた。死んだ先に、別の宇宙の方程式があった。
痛みも後悔も、もうなかった。
あったのは、純粋な好奇心だけだった。
——面白い。




