最終話 神々の黄昏
「立ち止まるな! ここに留まっても死ぬだけだぞ!」
ベルリン東南部、シュプレーヴァルトの森林地帯。
北からも南からも砲弾が絶え間なく降り注ぎ、木々を燃やし、なぎ倒した。怯えてうずくまる人々の群に飛び込んで爆発し、吹き飛ばされた死体が木々に張り付き、枝に引っ掛かり、血しぶきを飛ばす。
美しかった森の中は、見るもおぞましい光景に一変していた。
ベルリン防衛の前哨戦に敗れた第9軍、そしてベルリンから南へ逃れようとした避難民は、ここシュプレーヴァルトの森の中に追い詰められていたのだった。
屠殺場としか言いようのない地獄の中を兵士も、避難民も、よろ這うようにのろのろと進んでゆく。
傷つき、泡を吹きながら荷車を曳いていた馬が、力尽きてどうと倒れる。どんなに鞭を振るっても彼はもう起き上がらなかった。載せていた荷を諦め、置き捨ててゆくしかない。
「進め! 這ってでも西へ進むんだ!」
どこかに砲弾が落ちるたび必ず誰かが死に、誰かが傷ついた。
血みどろの群衆ともいうべき第9軍を率いるテオドール・ブッセ将軍は「頑張れ、ヴェンクの第12軍はもうすぐそこだぞ!」と声を枯らして人々を励まし続ける。
集団の最先頭と最後尾には鋼鉄の王虎、ケーニヒス・ティーガー重戦車が配置されていた。先頭を行くティーガーは敵中を突破する破城槌として、殿を務めるティーガーは追撃する敵を防ぐ盾として、無数の砲弾を浴びながら奮戦していた。
「助けて……助けて……」
「兵隊さんお願い、連れてって……」
重傷を負って倒れた兵士や動けなくなった避難民は、周囲の人々へ必死に縋った。
だが、誰もが顔を背け、もしくは無表情に見捨ててゆく。疲れ切っていて他人を助ける余裕などないのだ。そして歩みを止めれば死が待っている。
懸命に哀願し手を伸ばす彼等を無情に見捨て、森の中の脱出行は続いてゆく。
西への突破口をなんとか探ろうとブッセは幾つかの先遣隊を森の中へ先行させたが、彼等は皆、ロシア軍の待ち伏せで壊滅してしまった。
「将軍、この先をどちらへ進んでもロシア軍が待ち構えています。もう無理です……」
「あきらめるな。何としても突破口を見つけろ! さもなくば我々はここで立ち往生して皆殺しになるだけだぞ」
肩を落とす参謀や将校をブッセは叱咤した。かつて名将マンシュタインの幕僚として知略を尽くした彼も、追い詰められたこの包囲網の中では作戦など立てようもない。傷ついた将兵や避難民を励まし、ひたすら前へ、前へと進むしかなかった。
一瞬、彼のすぐ傍で爆発が起き、彼は副官もろとも地面に叩きつけられた。近くでまた火柱があがる。よろよろと立ち上がったブッセは片方にヒビが入った眼鏡を掛けなおし、「シャイセ!(くそっ)」つぶやいた。
「将軍」
負傷して汚れた包帯を頭に巻いた将校が、半ば泳ぐような足取りでブッセに近づいた。
「いいニュースと悪いニュースがあります。どっちから聞きますか」
「こんな状況でいいニュースなんてあるのか」
将校はニヤリと笑い「包囲網の薄いところを見つけました。戦死したロシア将校が部隊の配置を書き込んだ地図を持っていたんです」と種明かしした。この死地の中でなんという幸運か! ブッセは顔を輝かせ「でかしたぞ!」と叫んだ。
「で、悪い方のニュースは?」
「オットー (燃料)が無くなりました」
ブッセは顔を強張らせた。特に七〇トンの重戦車ティーガーは燃料が満タンで一〇〇キロも走らない大喰らいだ。
「燃料補給車は……」
「とうの昔にみんなやられてしまいました」
「なんということだ……ここまで来て」
ブッセはがっくりと肩を落とした。
だが鋼鉄の守護神、戦車なしでこの地獄から突破など出来るはずがない……
彼は唇を噛んでしばらく考え込んだがすぐに決断した。
「全軍に通達! トラックや装甲車はここで全て放棄する。燃料を全て抜いて戦車に給油するんだ!」
「将軍。そんなことをしても、あとどれくらい進めるというんです……」
「諦めるな! 諦めたら終わりだ! ここで待っている間にも犠牲は増えてゆく。急ぐんだ!」
将校たちは疲れた足を引きずるようにして四方へ散った。ブッセは額の汗を拭い、ふと気が付いたように振り返った。傷つきながら森の中をひたすら進んでゆく自軍の兵士や避難民たち。みな疲れ切り、暗い顔をしていた。しかしまだ絶望せずに歩き続け、戦い続けている。それだけでもブッセには嬉しかった。
彼等を一人でも多く助けたいと、死に物狂いでここまで来た。だがどれくらいの人々がこの地獄から抜け出せるだろうか……
また一発、彼の近くで敵の砲弾が炸裂した。
** ** ** ** ** **
総統地下壕で男に侍る人々は声ひとつ出すことなく、息を潜めて男を見つめていた。
男は、青ざめた顔でテーブルにひろげられた書面をただ黙って読んでいる。、
もはや隠すことが出来なくなった側近や将軍たちは、ついに数々の真実をテーブルの上に並べたのだった。
ベルリンを守って戦ったヴァイクセル軍集団の敗走……ベルリン救出の望みを懸けていたシュタイナー将軍の部隊が実在しない虚構だったこと……ベルリンに立て籠った敗残軍は反撃の余力すらなく弾薬が底をついたこと……総統の死を見越した空軍元帥ゲーリングの離反……親衛隊長官ヒムラーの裏切り……
そして、祖国を守って蹶起していると男が思っていたはずのドイツ国民は武器すらなく、ただ殺戮されていること……
男の手は衝撃と怒りで小刻みに震えていた。
「……すべて真実なのか? なにもかも……」
非難するような男の目は腹心のボルマンへ向けられたが、彼は目を合わせることも出来ず、下を向いていた。
忠臣ゲッベルスが代わって「間違いありません、総統閣下」と応えた。
「余は……余は裏切られた! ドイツのすべてに……」
テーブルから立ち上がった男は、激情の迸るまま叫んだ。
「余は全てを与えた! 職無き者には職を! 飢えたる者にはパンを! 希望を、名誉を、光を、正義を、全てを与えた! なのに国民は何故余を裏切った!」
硬直したように屹立する臣下を睨みつけ、男は炎立つように獅子吼した。
「余の期待にどこまでも背き、命令に逆らい、ついには裏切ろうとまで……何故だ! 何故なのだ!」
応える者は誰もいない。
力尽きたように椅子へ崩れ落ちた男を気遣いゲッベルスは心配そうに寄り添ったが、それすら気がつかないように彼はうなだれた。
打ちひしがれたようなつぶやきが、口からこぼれる。
「すべては失われた……余の崇高なる理想も、第三帝国も、国家社会主義も、なにもかも……」
「総統閣下……」
静けさに満ちた部屋の中に、かすかに砲声が響いた。ロシア軍はもう間近まで迫っている。
やがて、男は力なく立ち上がった。
「余はここで……ベルリンで死ぬ」
「……」
「死……余に残された最後の救済だ。すべての苦しみから解放してくれる」
ゆっくりとどこかへ歩き出した男を、一同は怪訝そうに見つめた。
「総統閣下、どちらへ?」
「……地上だ。外を散策してくる」
クレプスが「危険です! 地上には砲火が……ロシア軍がもうそこまで迫っています!」と慌てて止めようとする。男は振り返った。
「なにを言う……ベルリンは首都だ! 私の! 危険などあるはずがない……」
正気を失ったようなその顔には、凄惨な笑みが浮かんでいた。
「……」
ぞっとなった人々はそれ以上言葉を発することが出来なかった。
それまで部屋の片隅にじっと伏せていた男の愛犬が、つと立ち上がり、身を寄せる。男は虚ろに笑み、犬の頭をそっと撫でた。
「お前だけはいつも忠実だブロンディ……人間より犬の方がずっとましだ」
従兵からコートを受け取ると、男は黙って部屋を出た。引き留める者はもう誰もいない。
部屋の外には美しい女性がたたずんでいた。男の愛人、エヴァ・ブラウンである。
だが、男は彼女にも一顧だにせず、地上へと続く地下通路をゆっくりと歩き始めた。
誰一人この世界に理解者のいない男、アドルフ・ヒトラーは隣を歩く忠犬へ独り言のように話し掛ける。
「ブロンディ、お前も知っているだろう。ベルリンは美しい街だ」
「……」
「どこの街角でもグリム童話のような不思議な匂いがする、世界中のどこより美しい街だぞ」
男の脳裏に、ベルリンで彼が過ごした日々の様々な出来事が蘇った。
画家を志して挫折し、政治家を目指した先にあったドイツの首都。薄汚れたダスターコートを羽織って現れた彼に、ベルリン市民は最初冷淡だった。
そんな彼等は次第に自分の言葉に目を輝かせ、熱狂し、右手を挙げるようになった。
なによりインフレに喘いでいた社会を再建した時……世界中がドイツの奇跡に驚愕し、全てのドイツ人が自分を神のように讃えた。
「あの方の為される何もかもが、我らに喜びをもたらしてくれる!」
「あの方の言葉にどこまでも従い、力の限り尽くそう。我等は世界に冠たる国の臣民なるぞ!」
政治の頂点に就いても、贅沢を憎んだ。常につつましい食卓を望み、いつも国民と同じ立場であることを誇りに思った。
そんな自分を見る眼差し。どれもが、憧憬と尊敬と、そして笑顔だった。
ふと話し掛けたユーゲントの少年は感激のあまり「総統の為に、いつでもこの命を捧げます!」と泣き出した。
フランスに勝利しベルリンへ凱旋した時には、群衆の中から飛び出した一人の男が街角から叫んだ。
「総統! あなたは神がドイツへ遣わした偉大な救世主です!」
微笑んでうなずいた自分があのとき見上げた空は蒼く、雲ひとつなく……
歓呼に混じった不思議な声に耳を澄ませば、それはベルリンの中心にある大庭園ティアーガルデンからだった。祝福する鳥のさえずりに思わず破顔一笑すると、どよめいた人々は昂ぶる感激のまま連呼した。
「ジークハイル! ジークハイル! ジークハイル……」
男の顔にいつしか笑みが浮かんでいた。
階段をゆっくり上り、衛兵を押しのけ、鋼鉄の扉を静かに開ける。
彼の愛したベルリンの街並みが、そこに広がっている。
広がっている、はずだった……
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ベルリンの遥か北西にある僻地、メクレンブルク。
白旗を掲げた司令部の中でマントイフェルは待ち受けていた。その顔色は浮かない。
この先にあるイギリス軍の占領地区へは既に部下の将校を送り、降伏を申し入れている。
どんな回答がもたらされるか、彼はそれを心配しているのだった。
イギリス軍の戦線が近いことを察してか、後方から聞こえていたロシア軍の砲声はしばらく前から止んでいた。
「……」
すべての人々を救うことは出来なかった。
それでもこの天幕の外には、今もなお避難する人々の列が西へと続いている。劣勢の兵力を率いて精いっぱい戦い、復讐に燃えるロシア軍の牙から彼が護り抜いた人々である。
「出来る限りのことはやれた」
マントイフェルは自分を納得させるように、独りつぶやいた。
しばらくして天幕の入り口から連絡将校が現れた。続いて参謀達が。皆、どこかほっとした顔をしている。
「閣下、イギリス軍から降伏の申し入れを受諾すると返答がありました!」
「おお、そうか……」
「ただちに武装解除し、差し向けるイギリス軍先遣隊の指示に従うように、とのことです」
「よし、すぐに準備してくれ。だが避難民の足は止めるな。少しでもロシア軍から遠ざけておくんだ」
幕僚たちを集めたマントイフェルは、第3装甲軍は自分の責任でイギリス軍に降伏したことを静かに伝えた。
降伏に納得ゆかない者が戦闘を起こさないとも限らない。いま銃を置き手を挙げる行為は避難民を守ってきた戦いに等しいのだと彼は説いた。異論を唱える者はいない。
最後に、マントイフェルは「これが諸君への最後の命令となる。ご苦労だった。ありがとう」と静かに謝辞を示し、敬礼した。
「イギリス軍はまもなく来るだろう。彼等の前にあらかじめ武器を置き、敵意がないことを示す必要がある」
「わかりました。では早速に準備を」
万感の思いに浸る余裕もなく、参謀達は敬礼すると次々と天幕を出ていった。
答礼して彼等を見送ると、マントイフェルは独りになった。
携帯机の前に座り、覚書を書き始める。
それは間もなく到着するであろうイギリス軍の指揮官へ宛てたもので、勝者の慈悲を持って窮迫しているドイツ国民に出来る限りの救済を乞うという内容であった。今戦争で生じた犠牲、犯罪行為の責任には軍人の自分も含まれることを明記し、法廷で裁かれる覚悟でいることも。
軍人としての責任を取ることで自分の人生はもうすぐ終わりを告げるだろう……マントイフェルはそう思っていた。
「これから、どうなさるのですか?」
天幕に入り込んだ民間人だろうか。ペンを走らせていたマントイフェルは、静かに問いかける声へ顔も上げずに応えた。
「戦争を遂行した軍人として責任を取るだけだ。法廷が自分を待っているだろう。そこで私の人生は終わる」
「いいえ、あなたはこの先、もっと大きな責任を担うことでしょう」
「私は軍人だ。戦争に対する責任以外に担うものなど、あるだろうか……」
マントイフェルは首を傾げる。
声は、静かに彼へ説いた。
「この国はいずれ二つに引き裂かれ、人々は永遠に消えぬ重い十字架を背負うことになるでしょう。貴方のまだ知らないこの国の罪業が暴かれ、世界は戦慄し、この国の人々は未来への希望を見失うでしょう」
「……」
「それを見かね、この国を今度こそ正しく導こうと、これから様々な人々が立ち上がるでしょう」
「それは政治の道だな。だが私はまもなく滅びるドイツ軍の軍人だ。政治のことなど何も分からぬし、人を導く資格など……」
苦笑して否定しかけたマントイフェルは、ふと真顔で考え込んだ。
自分は政治に無知で興味などない。しかし、少なくともこの国を滅亡へと導いた者よりはましなことが出来るはずだ……と、思ったのだ。
「出来るだろうか。私に……」
「人々を誤った道へ二度と導いてはならぬ……そんな志を持つ者には、この国の先に待ち受ける数々の困難に耐え、未来を示す資格があるでしょう」
あなたは誰だ、とマントイフェルは顔を上げようとしたが出来なかった。なにか、見えない力でそっと押さえつけられている。
視線の先に光のようなものを感じたが、顔を上げることも見ることも出来ない。
「この国に光と祝福がもたらされる日は、遥か遠い未来でしょう」
「……だが、希望がある限り人は生き続け、歩み続ける。いずれそこへ辿り着くだろう」
応えたマントイフェルは、問うた何者かが微笑んだように感じた。
そして我に返ったとき、薄暗い天幕の中に自分一人でいることに気がついた。
「……」
幻想だったのだろうか。それとも……
「この国の道しるべを……」
自分に与えられた啓示と告げられたこの国の未来。
滅びたこの国の先に待ち受けるであろう険しい道。茨の道。
それでもこの地に生きる人がいる限り……
「そうか。私には新たな戦いの道が待っているのか……」
それとて自分の望むところだ。今も胸に持っているこの鋼鉄の意思で臨もう。
黙って天幕を出たマントイフェルは、降り注ぐ日差しに思わず目を細めた。
ハッソ・エッカート・フォン・マントイフェル。
彼はこの後、イギリス軍に降伏し捕虜となった。捕虜収容所を転々とした後、アメリカ軍に引き渡され、1947年に釈放される。
戦後は西ドイツのノイスに住み、政治の世界に身を投じた。
第二次世界大戦で果敢に戦車戦を戦った彼は、東西冷戦の最前線で揺れる西ドイツを支える謹厳居士の政治家として生涯を捧げ、その名を歴史に遺した。
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男は、唖然となって立ち尽くしていた。
大都市と自然が融和したベルリンの姿はどこにもない。
「……」
異世界の中に迷い込んだような錯覚を男は覚えた。
空は赤黒く染まっていた。鳥のさえずりなど、もうどこにも聴こえない。遠くでは砲声が雷鳴のように轟いている。
「ここは一体どこなのか……」
腐臭の漂う地表は瓦礫の山と化し、熱に溶けた鉄骨が醜く歪み、横たわっていた。
生きている者の姿はどこにも見当たらない。
それでも男は、この世界が自分の招いたものであることをなおも悟ろうとはしなかった。
「……」
ぼう然としている男の側にいた愛犬は、ふと顔を上げると何かに呼ばれたように走り出した。
「ブロンディ!」
呼びかけたが、彼は立ち止まることも振り返ることもなくどこかへと走り去ってゆく。
「どこへ行く! お前まで余を見捨てるのか!」
そのとき……
――聴け、富める者よ――
死都と化したベルリンの遥か高みから、何者かが厳かに告げた。
汝らの上に来たらんとする艱難のために泣き叫べ
汝らの財は朽ち、汝らの衣は蠧み、汝らの金銀は錆びたり
「……」
独りになった男は、この先自分を待ち受けるものを知った。
そこに光はなく、安らぎも、喜びもないことを……
暗闇の中を永遠に彷徨う苦しみだけがあることを……
「……」
打ちひしがれたように肩を落とした男は黙って踵を返し、地下壕へと戻っていった。
この後、彼は銃と毒薬を併用し自らの生涯に終止符を打つ。
しかし、占領国同士の対立によってドイツは東西に引き裂かれ、冷戦の駆け引きに翻弄される運命が待ち受けていた。
この国の人々は己の国が犯した過去の罪業に、今なお苦しみ続けている。
アドルフ・ヒトラー
彼の名と、そして彼が築いたナチス・ドイツ第三帝国は忘却の闇に消えることはない。
その忌名は、この先も続く歴史の暗部に深く刻まれてゆくのであろう。
おそらくは、未来永劫に……
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「行け! 行くんだ! ヴェンクの第12軍はもうすぐそこだぞ!」
敵の砲弾はありとあらゆるところから飛んできた。
血と汗と泥に塗れた人々は、次々と倒れた。
この森を彷徨い歩いてどれほどの時間が経過したのか……誰ももう正確に覚えていない。
幽鬼の列のように、彼等は森の中を彷徨し続けていた。
「戦車前へ!」
これで何度目なのか。突破は何度も挫折し、そのたびに誰もが絶望した。
傷だらけの兵士達は戦車と共に突撃したが、そのたびに鉄の壁に突き当たったように跳ね返された。
彼等の後ろからはロシア戦車が迫っている。僅か数台のティーガー戦車がなおも追撃を食い止めていたが、敵の数はあまりにも多かった。
満身創痍となった鋼鉄の王虎は多くの敵戦車を道連れに一頭、また一頭と息絶えていった……
「前衛の戦車は全滅しました……」
「後衛のティーガーも一台を残すのみです」
ブッセ将軍の周囲に集まった将兵達はみな血まみれ、傷だらけだった。
いよいよ最後の刻が来たのかと誰もが思ったが……
「最後のティーガーを前衛へ呼べ。私も一緒に突撃する。最後まで諦めるな……」
激戦を重ねた瀕死の王虎が人々の間を掻き分け、のろのろと先頭に立った。装甲に施された迷彩塗装は高温の爆炎で灼けたり命中弾の爆圧にえぐられ、ほとんど痕をとどめていなかった。
「進め!」
ブッセは短機関銃を掲げ、自ら戦車に並んで進み始めた。彼は最後の突破に己の命を投げ出すつもりでいた。
ブッセの勇姿を目にした兵士達は、最後の力を振り絞って吶喊の声をあげ、後に続く。
たちまち敵陣地から砲火が閃き、兵士達はバタバタと倒れたが、なおも遮二無二突き進んだティーガーは敵の対戦車砲を踏みつぶし、陣地を蹂躙してゆく。
ロシア兵はついに浮足立った。ここを先途とばかりに鬼と化したドイツ兵が襲い掛かる。
……と、ロシア兵達が左右に分かれるように逃げ散ってゆき、その彼方から同じ灰緑の軍服を着たドイツ兵が駆け寄って来るのが見えた。
「カメラード(戦友)!」
「カメラード(戦友)!」
合言葉のように呼び合い、邂逅を果たした両軍の兵士達は精魂尽き果て、互いの腕の中に倒れ掛かかった。抱き合い、男泣きに泣きだす者もいる。
あまりにも多くの犠牲を払いながらも第9軍は、ついに友軍のもとへ辿り着いたのだ。
「助かった!」
「助かったぞ!」
疲労困憊した第9軍の兵士達を労わるように、同じように疲れ切った第12軍の将兵は自軍の陣地へと導いた。生き残った避難民達が後に続く。
死闘を潜り抜け、森を出たとき彼等はそれまで自分達が夜の闇の中で戦っていたことを知った。
地平線の彼方にうっすらと夜明けを知らせる銀色の筋が見えてきたのだ。ドイツ人が「ジルヴァー・シュトライプ(希望の光)」と呼んでいる曙光。
後世に「ハルベの戦い」と呼ばれる壮絶な脱出戦はこうして終わった。
当初、20万を擁したブッセの第9軍のうち生き残ったのはわずか4万人と言われている……
光を背に歩く群衆を誘導していた第12軍の指揮官ヴェンク将軍は、疲れ切った第9軍の隊列から一人の男が離れ、よろよろと自分の方へ歩いて来るのを見た。
「……」
血と泥に汚れきり破れた軍服、割れた眼鏡、痩せこけて髭ぼうぼうの男。自分の目の前へ近づいて来るまで、彼はそれが第9軍司令官、ブッセ将軍だとは気づかなかった。
「将軍……」
ブッセはかすれた声で告げた。
「あまりにもたくさんの部下を……民を……死なせてしまいました」
俯き、恥じ入った男の手をヴェンクはしっかりと握りしめた。
「それでも、あなたがここにいることを、神に感謝する」
人類史上もっとも凄惨な戦争と言われた独ソ戦は終わった。
5月7日の朝だった。
割れた眼鏡の奥で涙に濡れた目に、打ちひしがれた頬に、朝の光は恵みゆたかにふりそそぎ……ヴェンクはブッセの汚れ切った手を自分の手に包み込んだまま、いつまでもいつまでも動こうとはしないのだった。




