第6話 破局
「退却だと? 私に無断で総退却だと!」
クレプス総参謀長の報告を聞いて激昂したのはカイテル元帥だった。
総統に次ぐ陸軍の副司令官ともいうべきこの男は、将軍らしい風貌こそしていたがその実ただのイエスマンだった。ヒトラーの命令に一度も逆らったことがなく、軍内部では「茶坊主」と陰口を叩かれている。
戦況が悪化してもその追従振りは変わらなかったが、ドイツが破局する事実を取り繕えなくなった今となっては電話口から前線司令官へ口汚く喚き散らすことしか出来なかった。
「ハインリツィ! 戦線を今すぐ立て直せ! ロシア軍はもうベルリン市内へ入って来ているのだぞ!」
「……」
彼の傍で、クレプスはぼんやり立っていた。その顔には、ただ命令すれば何とかなるとでも思っているのか……と言わんばかりの呆れた表情が浮かんでいる。そこには服従や尊敬などもうなかった。
クレプスを睨みつけると、カイテルは再び苛立たしげに電話へ怒鳴った。
「ヴァイクセル軍集団は何をしている!」
「死に物狂いでロシア軍と戦っています。貴方はロシア軍が退却するドイツ兵を黙って見ているとでも思っているのか? 元帥ともあろう御方が、退却は勝利よりずっと厳しく辛い戦闘とも知らないのか? 今この瞬間も私の部隊は戦っているのだ。命懸けで!」
「……」
「そして戦線を立て直すのに増援が必要だと私は今まで何度も要請していた。貴方こそ一体何をしていたのだ!」
電話の向こうから返って来るハインリツィの言葉は辛辣だった。
「増援はない! 予備軍はもう残っておらん!」
「そして退却を禁止すればどうなる? 一人残らず皆殺しになるだけだぞ!」
「黙れ! 総統閣下がそう御命じなされたのだ!」
「貴様こそ黙れ! その命令で……今までどれほどの兵士が犠牲になったと思っているのだ!」
長年、ロシア戦線で苦しい退却戦を続けてきたハインリツィこその糾弾だった。それはカイテルが鼻白むほど手厳しいものだった。
「スターリングラード、ハリコフ、ドニエプル、コルスン、東プロイセン……退却を禁じて包囲された我が軍の将兵が、どれだけ無駄死にした! 何度、愚行を繰り返した!」
「ハインリツィ、総統を侮辱することは許さんぞ!」
「……お前も総統も、もっと大きなものを侮辱している。無駄死にした何十万、何百万というドイツ人の生命をだ!」
激烈なハンリツィの非難に対し、カイテルはついに自制心を失って絶叫した。
「貴様はクビだ!」
返答はなかった。取合う価値もないとばかりにヴァイクセル軍集団指揮官は既に電話を切っていたのである。
激昂する感情の行き場を失い、カイテルは壁を蹴りつけると従兵に向かって怒鳴った。
「車を用意しろ、第3装甲軍の司令部へ行く! 私がじきじきにマントイフェルへ反撃を命じる!」
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ゲッベルスは、小さなラジオ放送ブースの中に設けられたマイクをじっと見据えた。
かつてはドイツ中の国民が自分の言葉に酔い、叫び、歓喜し、右手をあげた。ナチスの赴くところ、栄光と繁栄があるものと信じ、幾度も繰り返し誓ってくれた。
それが今や自分を恨み、総統を呪い、ただ浅ましく生き延びようとあがいている。
ドイツの誇りはどこへ行ったのか。優良民族たる誇りはどこへ消えてしまったのか……
爆発音が響き、大地が揺れるなか、彼はマイクに向かって滔々と叫んだ。
ドイツ国民は過ちを犯した!
東では逃げ惑い、西では白旗を掲げ、命乞いしている!
第三帝国の赴く先に破滅が待っていようとも、これはドイツ国民自身が望んだことなのだ!
ドイツ国民は投票によって我々を選び、我々に運命を委ねた!
私は誰一人、強制しなかった。ドイツ国民は前大戦の屈辱を恥じ、妥協と譲歩を拒み、勇気と名誉ある戦いの道を選んだはずだ。
なのに、何故それを悔いるのか? 何故、我々と運命を共にしたのだ?
ドイツの運命が切り裂かれようとしている今になって……何故だ!
だが忘却の彼方へ消え去る前に、私は宣言しよう。
我々が倒れるとき、世界は大いに揺らぎ、震えるだろう!
……銃弾に追われ、砲声に怯え、瓦礫の中を彷徨うベルリン市民に、ゲッベルスの呪詛じみた演説をまともに聞いた者などほとんどいなかった。
街にはずっと灰の雨が降り続けていた。建物のしっくいやセメント、地面の土砂が砲弾によって巻き上げられ、煤や火の粉に塗れて降り注ぐのだ。太陽は見えなかった。
薄暗い幽界じみた黄昏のなかを、彼等はただ生き延びるために必死だった。ラジオに耳を傾ける余裕などなかった。
空虚な演説などこの期に及んで何のよすがになるだろう。連合国の側でラジオを聞いた者でさえ、冷笑しただけだった。
かつて失意のドイツ国民を奮い立たせ熱狂させた男の最後の演説は、もはや何の価値も意味もなかった。
「ドイツは滅びるのだ! すべての世界を道連れにして……!」
マイクに向かってゲッベルスは絶叫した。
しかし、それはもう誰にも届かない、独りよがりな言葉でしかなかった。
かつて国家を動かし男の言葉は、ただ虚しく響くばかりだった。
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カイテル将軍が指定したフェルステンベルクに近い十字路にマントイフェルが到着した時、その周辺には疲れ切った足取りで西へと落ち延びてゆくベルリン市民や、退却してゆく兵士達の姿があった。
だが、いらいらした様子のカイテルはひたすらそれから目を背けている。
連絡用の軍用車からマントイフェルが降りるなり、カイテルは叫んだ。
「マントイフェル、これ以上の退却は許さん! 何故踏みとどまってロシア軍と戦わぬ!」
泥と戦塵で汚れた軍服のマントイフェルは罵倒を平然と聞き流し、カイテルと対峙した。
彼の姿は、埃ひとつない軍服を着ていながら狼狽の余り口汚く罵る上官と対照的だった。
「戦わない、のではない。戦うことがもう出来ないからです」
「な、なんだと?」
「空軍の援護はなかった、砲も戦車もロシア軍の10分の1しかなく、砲弾も燃料も僅かしなかった。それでも国民が西へ避難する時間を作るために彼等は命懸けで戦ってくれた。大砲も戦車も今はない。弾薬もない。それでもなお踏みとどまれと命じるのは無意味に死ねと言っているだけだ。私はそんな命令は出さない」
「マントイフェル、貴様……」
「出来るものなら貴方がしてみせるがいい。あの血だらけ、泥だらけの疲れ切った兵士達に。さあ!」
歯ぎしりしたカイテルは退却する兵士達を見た。みな疲れ切り、足を引きずるように歩いている。怪我をした者同士助け合って歩いている者も多かった。誰もが精魂尽き果てた表情をしている。彼等に混じって戦いの指揮を執り続けたマントイフェルへ労わりの眼差しを向ける者はいたが、汚れひとつない軍服姿のカイテルへ立ち止まって敬礼をする者は一人もいない。
「マントイフェル、ドイツがこのまま負けたら貴様は歴史に汚名を残すだろう。それでもいいのか」
「フォン・マントイフェル家は二〇〇年の間、軍人としてプロイセンに尽くしてきた。それが勝利でなく敗北であろうとも、私は胸を張って責任を負う」
「……」
「貴方はどうなのだ」
独裁者の権力にひたすら媚び、へつらい続けてきた男に答えられるはずがなかった。汗を噴き、ただ身体を震わせるカイテルに、マントイフェルは静かに告げた。
「今後、第3装甲軍戦区の一切の命令はマントイフェルからのみ出される」
ヒトラーや陸軍最上部の無謀な命令にもはや従わないという宣言に、カイテルは目を見開いた。
「デュフェティスト(叛将)! この敗北主義者め!」
後ずさったカイテルは震える指を突きつけて叫んだ。マントイフェルは動じる様子もなく、取り乱した上官の姿を静かに見つめている。
一分間ほど、二人は言葉もなく相対したままだった。カイテルは肩を起伏させあえいでいる。
「……」
マントイフェルは黙ったまま敬礼すると踵を返し、軍用車へ乗り込んだ。強張った表情の運転手を黙って促し、その場を離れる。
隣の座席からずっと見守っていた参謀が、おそるおそる尋ね掛けた。
「閣下。カイテル元帥は閣下を軍法会議に掛けるつもりなのでしょうか」
「気にするな。我々は最後まで軍人の責務を全うするだけだ。それに……」
マントイフェルは車のバックミラーの中で遠く小さくなってゆく影を見つめ、憐れむようにつぶやいた。
「彼はもうすぐ法廷よりもっと大きなものに裁かれる。逃れることが出来ないものに……」




