第5話 錯綜と惨劇
4月25日。
総統地下壕の薄暗い一室で、政府の高官や軍首脳が食事を摂っている。
かつては群衆の歓呼を浴び外交の場や勝利の式典で華やかに活躍していた面々だったが今は見る影もない。誰もが俯きがちで会話も少なく、生気がなかった。
新聞の発行も途絶えている。地下生活を始めてから何日が経ったのか、彼等はもう正確に覚えていなかった。
それでも、誰ひとり地上に出ようなどとは思わない。そこには確実な死が待っているのだ。
だが、この地下に潜み続けていても、いずれはすべてが終わり、罪を購うために死を強制されるであろうことも彼等は知っていた。
ではどうすれば……そもそもどうしてこんなことになってしまったのか……ためらい、悩み、運命を引き延ばすだけの日々だった。
その一日、一日が、多くの生命と苦しみで贖われていることを知りながら……
「カイテル将軍、戦況はどうなっている? 戦線は……」
外相リッペントロップがコーヒーを啜りながら国防軍総長に尋ねる。かつて諸外国を狡猾に欺き、あるいは恫喝した頃の精悍な面影はなく、どこか卑屈そうな笑みを浮かべている。
カイテルは虚ろな表情で応えた。
「戦線? 存在してるよ。総統の作戦地図の上にならね……」
「……」
今度はリッペントロップの横にいた小太りの男がパンを頬張りながら尋ねかけた。ヒトラーの側近マルティン・ボルマンである。
「逮捕したフェーゲラインはどうした? 奴は親衛隊中将でありながら西側連合国へ寝返ろうとしていた」
「銃殺されたよ。総統のご命令だった」
「さもあろうな、当然だ。だが……」
陰謀家のボルマンは下卑た笑みを浮かべて続けた。
「奴は小物だ。連合国へ降伏の交渉を持ち掛けた大元がいる」
「ヒムラー」
こともなげに言い放ったのは宣伝相、ゲッベルスだった。誰よりもヒトラーを信奉する小鬼のような男が自暴自棄な様子で一枚の紙を差し出した。外国の通信電らしい。
不審そうに紙を受け取ったボルマンは紙片に目を走らせ、凍り付いたように動きを止めた。手元からパンが零れ落ちる。
「『ヒムラー、英国に降伏交渉』……」
その紙片を既に読んでいた参謀長のクレブスが皮肉そうに自嘲した。
「第三帝国はもう終わりだ。親衛隊長官まで裏切ったんだからな。武装親衛隊はハンガリーの油田を奪回するどころかウィーンも防衛出来ずに逃げ出したそうだ」
「何ということだ、あの芸術の都がロシアの蛮族どもに汚されているのか!」
吐き捨てるように言ったリッペントロップの横からボルマンが勢い込むように言った。
「総統に進言してヒムラーを処刑しよう。奴はまごうことなき反逆者だ!」
「好きにしたらいいさ、いっそ彼の権力もあんたが握ればいい……ボルマン」
クレブスは憐れむように見返し、ボルマンは思わず鼻白んだ。
「もうすぐ総統も我々も親衛隊も……この国のなにもかもが消滅するんだ」
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真っ暗な一室の天井から一筋の照明が差し込んでいる。
その下には瀟洒で真っ白な模型の都市が置かれている。
その中でひときわ巨大な建物……総統宮殿に男の眼はじっと注がれていた。
「余が国民に約束した帝国……ゲルマニア」
陶然とした声で男は虚空に告げた。
「そうだ、オーストリアのリンツにしよう。あの場所こそ、新しき国家の首都にふさわしい」
聞く者は誰もいない。
男は右手を掲げ、聞けるはずもない民へ吼えるように宣言した。
「ゲルマニア、とこしえに栄えよ! 余の帝国は千年続くであろう!」
男の声に応えるように天も地も 晦冥した。
地上でロシアの巨砲が次々吼え、ドイツに残された僅かな地に嵐のように叩きつけられた。ボロボロになっていた建物はひとたまりもなく倒壊した。木造の建物は炎に包まれ、崩れ落ちていった。
「ポンペイ最後の日」の悲劇が、ここベルリンで再び地上に再現したかのようだった。人々は叫び、駆け巡り、瓦礫や炎の中で次々と死んでいった。
老人や年端もいかぬ子供は銃やパンツァーファウストを手にしたまま、自分が目にしている世界が信じられずにただ立ち尽くしていた。そしてぼう然となったまま、一閃する砲火の中に消え去った。
生き残った人々は砲火に追われるまま僅かな家財道具を手に、生き延びる寄る辺を求めて地獄の街ベルリンから郊外へ逃れ出ようとした。
「西へ……西へ行けば助かるかも知れない……」
人々の惨めな行進は長く伸び、いつしか蛇のような長い列となっていた。
荷物を担ぐ力ももうなくズルズルと引きずりながら歩く老女、泣き疲れた赤子を抱え、虚ろな目でただ惰性で歩き続ける母親。疲れ果て、道端に座り込んで虚ろに行列を見つめている男。
いち早く戦火の匂いを嗅ぎつけて逃げ出した政府の高官や要領の良い者と違い、彼等は住み慣れたベルリンへの愛着や、何とかなるだろうという漠然とした楽観、人間関係のしがらみなどからなかなか腰を上げられなかった人々であった。ベルリンに砲火が炸裂し、ロシア軍が身近に迫った今となって、ようやく逃れようとしている。
そのーー
疲労と失意に囚われたまま歩き続ける人々の耳に、かすかな音が響いてきた。
重々しいエンジン音が急速に近づいて来るのを聞き、ぎょっとなった人々は顔を見合わせ……そしてすぐにそれと察した。
「敵機!」
悲鳴があがり、人々が駆け出した時には二機編隊のロシア戦闘機ラヴォチキンが低空を駆け抜けていった。彼等は眼下に見つけた獲物を認めると、ゆっくりと上昇しながら旋回する。
そして猛禽のように降下しながら群衆へ襲い掛かった。
「ギャァァァァーーー!」
「助けてぇ! 助けてぇ!」
狂ったように駆け回り、逃げまどう人々へ雨のように機銃掃射が降り注ぐ。人々はバタバタと倒れていった。
ロシア戦闘機はひとしきり銃弾の雨を降らすと緩慢な動きで上昇し、再び降下して襲い掛かった。逃げ回る群衆の様子が面白いのか、それともパイロット自身にドイツ人へ深い怨恨があるのか、何度も何度も執拗に襲い掛かり、人々を追い立て、虐殺を繰り返した。
そうして銃弾をすべて使い果たしロシア戦闘機が去った後に残されたのは、無数の屍だった。
辺り一面は血の海と化し、見るも無残な光景が広がっている。頭や腕を銃撃に吹き飛ばされ、噴水のように血を流し続けている死体など正視に耐えないものも数多くあった。正気を失い、死体の山の中をフラフラと彷徨している者もいる。
しばらくして、生き残った人々が三々五々と惨劇の場に戻って来た。誰もが虚脱と悲嘆の入り混じった面相で、探し人の名前を呼び、倒れて動かぬ人を検めて回る。
すすり泣きや嗚咽があちこちからあがった。
彼等の中に、ゲルマン民族の優越性や総統の奇跡を信じる者など、もう誰もいない。
そして神の存在を信じる者も……
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「馬鹿な!」
怒りも露わにハインリツィは怒鳴りつけた。
「馬鹿な……何をたわけたことをしている!」
真っ青になって彼の前に立ち尽くしているのはヒトラー青年団の指導者アルトール・アクスマンだった。
彼はヴァイクセル軍集団の司令部へ、ベルリンを守る増援として五万のヒトラーユーゲントの少年達に武器を持たせてベルリンの南に配置したと嬉々として報告に来たのだった。
「我々軍人が戦っているのはドイツの母たる女性やドイツの未来であるべき子供を守る為ではなかったのか? その子供を死なせて何を守れと言うのだ、馬鹿者が!」
真っ青になったアクスマンは更に「子供たちを家に帰せ! 今すぐに!」と怒号を浴び「分かりました、命令を撤回します……」と、慌てて踵を返した。
続いて彼は電話をベルリンの総統官邸へ繋げた。電話の相手は例によって参謀長のクレブスである。
「クレブス、ゼーロウ高地から撤退している第9軍の主力、第56装甲軍団を何故ベルリンに入れた! 第9軍は私のヴァイクセル軍集団の指揮下にある。彼等にはベルリンに入らず、北か南へ迂回しろと私は命じていた。命令系統を無視して何故ベルリンへ引き入れるよう勝手に命じた!」
「ハインリツィ閣下……」
「私はベルリンにいる市民を極力戦闘に巻き込まぬようにするつもりだった。それを、そちらが勝手な真似をしてくれた為に今や市街戦が起き、多くの人が犠牲になっている! この責任をどう取るのだ!」
「閣下、第56軍団をベルリンへ来るよう命令したのは自分ではありません」
「では一体誰が……!」
「総統閣下です」
言葉を失ったハインリツィにクレブスは弁解じみた口調で「総統は自ら第56軍団のヴァイトリンク将軍へベルリン防衛を命じられました」と告げた。
「総統は……無辜の民より自分の生命が惜しいのか……」
「そ、そんなことは……」
追従者の言い訳など聞きたくもないとばかりにハインリツィは電話を叩き切った。
「なんということだ……」
戦局がもはや絶望的であり、敗戦が避けられないことを彼は既に知っていた。
ただ、ヒトラーが最後まで戦えと命じるならせめてドイツ国民を出来るだけ救うための戦闘を、と密かに心づもりしていたのである。
だが、勝利ばかりを求めるヒトラーと彼にへつらう追従者は頑なに現実を受け入れようとしない。そればかりか良心の呵責もなく、いたずらに国民への犠牲を強いている。
ハインリツィは怒りを覚えずにいられなかった。
そこへ通信兵が「閣下、第9軍のブッセ将軍からです!」と、慌てた様子で駆け込んできた。
「ハインリツィ閣下、我々第9軍はベルリンの南で完全に包囲されてしまいました。北からはジューコフ、南からはコーネフ軍から猛烈な砲撃を受けています」
「総統が君に退却を許可しなかったばかりに……すまない」
かつて名将マンシュタインの参謀であったテオドール・ブッセは、電話の向こうで疲れ切った顔に笑みを浮かべた。
「ベルリンから脱出してきた市民も数多くいますが、彼等を守って戦おうにも弾薬も燃料ももう底を尽きます。脱出も不可能でしょう。我々はもう終わりです。ここで全滅するしか……」
「ブッセ、西へ脱出しろ。君には市民を最後まで守る責務がある。それにまだ希望がある」
「希望?」
そんなものがどこに……と不審げなブッセをハインリツィは懸命に励ました。
「米英の連合軍はエルベ川で停止している。その先へ彼等は進撃するつもりはないようだ。対岸で対峙しているヴェンクの第12軍を東へ向かわせれば、君の第9軍と生き残ったベルリン市民を救い出せるはずだ!」
「おお! しかし総統の退却許可なしにそれは……」
「総統の命令など無視しろ。私が命令する。第9軍は西へ突破せよ!」
電話を終えたブッセは頭を深く垂れた。生き残る望みがまだある……おそらくそこへ辿り着くまでに多くの血が流れるであろう厳しい道の先に、ではあろうが……
周囲を見回すと、疲れ切った参謀達が虚ろな目をしてぼんやりと運命を待っていた。ブッセは声を張り上げ、呼びかけた。
「ヴェンクの第12軍が我々を救出するためにこちらへ向かって来る。助かるぞ!」
信じられない、という面持ちで参謀達が立ち上がり、将校達が駆け寄って来た。
「西へ脱出するぞ! 各部隊の指揮官を集めろ!」
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時を同じくしてハインリツィはヴァイクセル軍集団の擁するもう一方の軍、第3装甲軍から電話を受けた。
「駄目です、ハインリツィ閣下! 我々はこれ以上ロシア軍の攻撃を支えきれません!」
苦しげに退却を乞うマントイフェルの電話の向こうで、激しい銃声がしていた。もはや司令部すら最前線となって戦っているのだった。
「シュテッティンからの後退を許可して下さい。さもなくば我々はロシア軍に包囲されます!」
しばらく黙り込んだハインリツィは静かに応えた。
「マントイフェル、貴官の最適と思う行動を執れ。その行動は全て私が許可する」
「……ありがとうございます、閣下」
「よく、今まで支えてくれた」
予備部隊を取り上げられ、僅かな戦車と高射砲しかない劣勢の第3装甲軍を率いて、彼が圧倒的なロシア軍を相手に3日間も戦線を持ちこたえてくれたことに、ハインリツィは心から感謝した。
そのおかげで、西へ避難するドイツ国民がどれだけ救われたことか……
「マントイフェル、君のような軍人がもっといればこの戦争に勝てただろうにな」
「いいえハインリツィ閣下、あなたのような軍人がもっといればこんな悲劇は起きなかったでしょう。どうか幸運を……」
再び生きて会えるかどうか……短いやり取りに万感の思いがこもっていた。
受話器を置いたハインリツィは、祈るような思いで俯いたが、すぐに振り返って幕僚に命じた。
「我々も撤退する。すぐ準備にかかれ!」
参謀達は敬礼すると慌ただしく四方へ駆け出して行った。
ふと気づいた一人の参謀が、恐る恐る尋ねかける。
「閣下。ベルリンはどうなるのでしょうか……」
ハインリツィの応えは、苦渋に満ちたものだった。
「もはや救う手立てはない。ドイツが降伏しない限り……」




