第4話 絶望に抗う者たち
オーデル川の北でいまだに出撃の命令が出ず、待機しているロシア将兵の耳に、南の戦場で同志達が立てた勝利が続々と入っていた。
ヒトラーの小悪魔どもはゼーロウ高地に籠って必死にあがいたが、ついにジューコフ軍の戦車に蹂躙され壊滅した。
その南ではドイツ陸軍総司令部が迫り来るコーネフ軍に恐れをなし、ツォッセンの本部から夜逃げも同然に逃げ去ったという。
我らの国へ攻め入った時はあれほど傲慢だったあのドイツ人がなんという体たらくか! 残忍なオオカミ共が今やネズミのように怯えて逃げまどっている。
誰もが思った。
早く戦いたい。
家族を家畜のように殺したヒトラーの手下ども。彼等を同じ目に遭わせなければこの煮えたぎる怒りはおさまらない!
早く!
早く!
四月二〇日。
ベルリンの北東、オーデル川を挟んだ東岸から新たなロシア軍の攻勢が始まった。
北に布陣したロコソフスキー将軍の第2白ロシア軍へ進撃開始の命令が下った時、逸りに逸った兵士達は事前砲撃が終わるのを悠長に待ってなどいられなかった。待機陣地から飛び出し、我先にオーデル河の渡河を始める。
対岸に隠蔽されたドイツ陣地からは野砲代わりの高射砲が必死に渡河を妨害する砲撃を続けていた。防御側にとって、川を渡る軍勢は格好の的なのだ。
無防備の渡河勢を援護すべく、東岸に設置されたロシア軍の砲火が再び閃き、西岸のドイツ陣地を叩き潰し始める。
「オーデルを渡れ!」
「先に進撃しているジューコフ軍の同志達に続け!」
檄が飛ぶ。煽られた兵士達は口々に「ウラー!」と雄叫びを上げた。
艀や舟艇が次々とオーデル川を渡っていった。どの艀にも戦車が載せられ、舟艇には兵士達が鈴なりに群がっている。
制圧砲撃にかろうじて生き残ったドイツ砲が、なおも必死に砲撃する。幾つもの艀が火炎を噴き上げて沈み、舟艇から兵士達が川に投げ出され、身に着けた装具の重みで川底へと沈んでいった。
だが、渡ろうとする者達の数はあまりに多く、渡河を阻止することはもはや叶わなかった。ロシア軍は次々と西岸へ辿り着いた。
するとどうしたことか、生き残っていたドイツ陣地が次々と沈黙した。抵抗を諦めたのかとロシア兵達の目が一様に輝く。
渡河したロシア兵が制圧すべく殺到する。しかし、そこは既にもぬけの殻になっていた。
「見ろ! ナチの犬どもめ、我らに恐れをなして逃げ出したぞ!」
ロシア兵達は快哉を叫んだが次の瞬間、彼等は西から飛来した砲弾に吹き飛ばされた。
「敵がここを狙っている、みんな散開しろ!」
下士官が叫び終わらぬうちに、すぐそばで凄まじい爆発炎の傘が噴き上がる。その向こうでは、艀で渡し終えたばかりのトラックが火炎の雲と化した。
「悪魔め、最初から仕組んでいたな!」
狡猾なドイツ軍は幾つもキルゾーンを設け、ロシア軍がそこへ到達するたび痛撃を浴びせるよう準備していたのだ。
ロシア軍の当初の作戦は上陸した後に決められた場所に集結し、組織だった進撃を開始する予定だった。
だが、ドイツ軍は明らかにそれを阻止しようとしている。
もはや犠牲を厭わず、衆を恃んで前進するしかなかった。
「怯むな同志! 戦いは始まったばかりだぞ!」
一人の将校が声を枯らして叫ぶ。彼は進みながら歌い始めた。
起て、飢えたる者よ 今ぞ日は近し
醒めよ我が同胞、暁は来ぬ……
兵士達は炸裂音と砲弾の擦過音のなかで、途切れ途切れにその歌を聴いた。
ロシアの革命歌「インターナショナル」。
鼓舞された兵士達の歌声が次第にそこに一人、また一人と加わってゆく。やがてそれは大合唱となった。
時ならぬ合唱に励まされ、混乱していたロシア軍は次第に立ち直り、動き始めた。
「ヴェリア(前進)!」
誰かが拳を振り上げ、兵士達が呼応する。隊伍も組まないまま彼等は銃を構え、歌いながら進み始めた。
ドイツの銃火が降り注ぐ。兵士達はバタバタと倒れたが歌声は途切れることなく続く。
最初に歌い始めた将校もいつの間にか姿が見えなくなっていた。きっとどこかでボロギレのようになって倒れているのだろう。
それでも……
圧制の壁破りて 固き我が腕
今ぞ高く掲げん わが勝利の旗
彼が遺した歌声も、そして兵士達の歩みも止まらない。
戦線は東から西へ、ゆっくりと動き始めた。
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かつてヨーロッパに広大な版図を広げていた第三帝国には、今や瓦礫に埋もれた都市と荒れ果てた国土しか残っていなかった。
長年に渡る戦争で経済は疲弊し、昼夜を分かたぬ爆撃の連続で産業は停止していた。人々は疲れ切り、絶望し、今や虚ろにその日暮らしを送っていた。
だが一人だけ、現実からひたすら目を背け、己の掲げた高邁な理想に必ず奇跡が起きる! と、信じる者がいる。
「中央軍集団は何をしている! コーネフのロシア軍を撃退しろと余は命じたはずだ!」
「中央軍集団麾下の第4装甲軍がゲルリッツの北西部でロシア軍と交戦中です。我が軍優勢という報告も入っておりますからきっと……」
「シュタイナーの救援部隊はどうしたのだ!」
「現在、将軍は部隊を編制中です。間もなく出撃するものと思われます……」
「シュテッティンからの撤退要請だと? 断じて許さん! 第3装甲軍はオーデル川のロシア軍橋頭保をひとつ残らず粉砕せよ! そのまま南下してロシア軍を包囲するのだ!」
「第3装甲軍のマントイフェル将軍は現在ロシア軍と交戦中です。戦闘は熾烈ですがロシア軍に多大な損害を与えていると思われます。暫時ご猶予を……」
敗勢を正しく伝えようとする者は、もう誰もいなかった。真実を伝えればただ逆鱗に触れるだけなのだ。
退却や壊滅は伏せられ、勝利の希望が間もなくもたらされるだろうという希望的観測ばかりが伝えられる。
だが、いつまで経っても勝利の報告はひとつも入ってこない。来るはずがなかった。
怒り狂う男を、そのたびに参謀長のクレプスや側近のボルマンらは懸命に宥め、来るべき未来の勝利を騙った。
偉大なゲルマン民族の力を信じて、いまドイツ中の人々が立ち上がり、死に物狂いで戦っている。それは必ずや、総統へ偉大な勝利をもたらすに違いない、と……
地下の世界にいる男は知る由もない。彼らが語る光景など、地上のどこにもないことを。
爆撃や砲撃の業火に人々は倒れ、逃げまどい、あるいは彷徨っていることなど……
「必ず勝利の報告を余に届けよ」
男が厳かに告げると側近や将軍たちは一斉に踵を鳴らし「ハイルヒトラー!」と右手を挙げた。
冷ややかな一瞥を投げて彼が一室へ姿を消すと、彼等は一斉に安堵のため息をついた。
「敗走している第9軍の司令部とは連絡がつかないのか? せめて反撃の見通しを総統にお伝えして……」
「連絡がつかないのです。それよりロシア軍がテンペルホーフ空港を占拠したという報告が……」
「そんなもの総統に知られたらどうなるか……何としても奪回しろ!」
「しかし、そんな兵力が一体どこに……」
戦火に逃げ惑うベルリン市民を救うことより男の「脳裏」にある真実へ辻褄を合わせることに、彼等は汲々とするばかりだった。
「小戦闘でもいい、どこかで我が軍が勝利したという報告はないのか? 総統のお耳に入れられるようなニュースは……なにか……」
辻褄の合わない現実と理想を取り繕おうと浅ましく右往左往する姿はどこか、道化師たちの滑稽な舞台劇のようにも見えた。
「そうだ、編制中の国民突撃隊がいる。これを通りに配置してロシアの戦車隊を撃滅すれば……」
銃の撃ち方すらろくに知らない怯え切った群衆が鋼鉄に鎧われた重戦車を前に戦えると、どうして考えられるのだろう。
現実から目を逸らし、事実を顧みようとしない地下室の彼等を嘲笑うかのように、地上で荒れ狂う砲火の地響きで天井からコンクリートの欠片がパラパラと零れ落ちた。
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右にバルト海を望みながら、無人の野を突き進むように第2白ロシア軍は前進を続けていた。
オーデル川の渡河の妨害を排除した後は、拍子抜けするほどドイツ軍の抵抗は皆無だった。
このまま北から回り込み、南から進撃するジューコフ軍に続くのだ! ベルリンへ躍り込まんばかりの勢いに将兵の士気は天をも衝かんばかり。先鋒の前衛部隊は戦車を押し立て、二個師団相当の規模で進んでいる。
「……あれは?」
先鋒のロシア戦車車長は我が目を疑った。今まさに横目に眺めながら通り過ぎようとしている廃墟の影から黒い影の群が忽然と現れたのだ。
車長は慌てて砲塔から身を乗り出し双眼鏡を目に当てた。見たものが信じられず、改めて自分の目で確かめようとしたほどだった。
「ドイツ戦車……!」
それも退却の後姿ではなかった。ずらりと砲口をこちらに向け、楔形で突き進んでくる。「パンツァーカイル」と呼ばれるドイツ機甲軍団の突撃隊形である。
戦車の中でドイツ兵たちは汗をにじませ、息を喘がせていた。俄か仕立ての反撃部隊であったが、それでも一矢報いてやろうと意気込む将兵の眼は燃えていた。奢り昂ぶるロシア兵に対しここで俄然、猛虎の面を突き出してやるのだ!
油断しきっていたロシア側は防御陣形を取るゆとりさえなかった。
「撃て!」
前列を占めるパンター戦車から次々と徹甲弾が放たれ、横腹を晒したロシア戦車を貫いていった。一台のスターリン重戦車が全身を激しくゆすり、地面に打ち付けられたように動かなくなった。傍らのロシア戦車はキャタピラを断ち切られ、襟首でも掴まれたかのように一方へ反れて停止した。擱座して傾いだ戦車のハッチから黒煙に追われるように乗員が吐き出される。こうして前衛の戦車隊はまたたく間に壊滅した。
突然の攻撃に後続のロシア戦車部隊は狼狽している。反撃の砲火もまばらだった。
その隙を突くように一台の指揮車がドイツ戦車群の前に躍り出た。被弾の危険も顧みず陣頭に立ったマントイフェルが、たじろぐロシア戦車群に向かって車上から指揮杖を打ち据える。
「続けて撃て! 間を置くな!」
ドイツ戦車は勇敢な指揮官の叱咤に見事に応えた。砲弾が矢継ぎ早に放たれ、ひしめいている敵の只中に集中した。ロシア戦車は次々と血祭りにあげられてゆく。
「撃て! 怒りを込めて撃ち尽くせ!」
相次ぐ命中にドイツ側の砲撃は昂まった。各車は数秒に一発という連射を競い合う。
「引け! 後退だ!」
乱打を散々浴びてもはや残存兵力となったロシア軍は、今まで来た東の方角へと散り散りになって潰走するしかなかった。
しかし、ドイツ軍はその後をわずかに追っただけだった。
それは、敵に比べて僅勢な兵力で望外な勝利を得たことで満足したからではなかった。
「各車、残弾ありません。燃料も……」
「そうか……」
マントイフェルは言葉少なにうなずいた。
ベルリンを巡る戦いが始まってからずっと補給はなかったのだ。この勝利も僅かな弾薬と燃料、僅勢の戦車で得られたささやかなものでしかない。一度は勝利に沸いた兵士達も無念な顔で戦車を捨てるしかなかった。
再び攻め寄せるであろう敵へ明日はどう立ち向えばいいのだろう。勝者のはずの誰も暗澹となったが、それを敢えて口に出す者はいない。
せめて、こうして戦っている間に民間人がロシア軍から少しでも逃れてくれれば……そう願うばかりだった。
西に向かってとぼとぼと歩き出した将兵達の最後尾でマントイフェルはふと立ち止まり、暮れてゆく空を見上げた。
(この国にあと幾つの明日が残っているだろうか)
そんな思いにとらわれて……




