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第3話 神は罪に目を背けし者を打ちたもう

「頼む。わしに命令してくれ」


 ベルリンから遙か西に流れる広大なエルベ川。そのほとりで、六〇歳とおぼしき初老の男がしきりにもう一人の男へ懇願している。

 初老の男はいかにも軍人らしい無骨な顔をしていた。三ツ星の並んだ鉄兜を被り、胸には幾つかの略章が光っている。

 二人が立っている位置から少し離れた場所にはトレーラーが並び、テントが林立していた。突き立てられたポールにはアメリカ軍の司令部を示す旗と星条旗が風に翻っている。彼方にはオリーブグリーン色の戦車やトラックが大量に集結し、進撃を待っていた。


「一言『行け』と言ってくれさえすればいい。アイク、この通りだ」

「ジョージ」


 男とは対照的に上官は人なつこそうな顔をしていた。穏やかな物腰で、懇願する男の肩を優しく叩く。政治的な配慮など出来ないこの男が肩を怒らせて司令部に現れた時、彼はすぐにそうと察して部下たちを遠ざけ、男をエルベ川へと連れ出したのだ。


「わしがこうやって頭を下げてもか」

「だから二人きりになったんだよ。ドイツを震え上がらせた猛将パットンが頭を下げるところなど、他の誰にも見せたくない」

「アイク……」


 西側諸国の陸海空軍を統べる総司令官アイゼンハワー元帥、通称「アイク」は父親のような慈悲深い笑みを浮かべ、しかし首を横に振った。


「ベルリンはすぐそこなんだ。残ったドイツ軍なんぞ、わしの部隊だけで蹴散らしてゆける」

「ああ知ってるよ。去年の暮れにはアルデンヌで孤立した私の部下達を救ってくれたな。最高のクリスマスプレゼントだった。パットンの第3軍は誰より私が誇りに思う最強のアメリカ軍だ。でも、駄目なんだ」

「……」


 唇を噛んだパットンはしばらく黙り込んだが、やがて怒りを押し殺した低い声で話し始めた。


「アイク。わしの部隊がこの間ブッヘンヴァルトの強制収容所を解放した。わしはそこで見たんだよ。奴らがそこで何をしていたか」

「……私も見たよ。どんなおぞましいことがあっていたか。人は、悪魔になれるんだな」


 応えるアイゼンハワーの声色にも、抑えきれない冷たい憎悪がにじんだ。


「虫けらのようにガス室で殺され積み上げられた死体の山、赤ん坊は生きたまま焼却炉に投げ込まれ……そればかりか人体実験に使われたり、首を干して装飾品になどと……あんな鬼畜な所業があるものか。人は、決して同じ人にしてはならないことがあるんだ。絶対に奴等を許してはならん」

「私もまったく同じことを思ったよ、ジョージ」


 アイゼンハワーはパットンへ力強くうなずいた。


「わしは……あの悪魔どもへ、この怒りを叩きつけてやりたい……アイク、分かってくれ。わしを行かせてくれ。第3軍にベルリンへの進撃を命令してくれ。頼む……」


 屈辱や敗北に今まで涙ひとつ見せなかった鬼将軍の頬に、涙が伝っていた。

 アイゼンハワーも、震える手でハンカチを取り出すと自分の目元を拭った。


「ジョージ、お前の言う通りだ。だがな、それはお前だけの怒りであってはいけないんだ」

「アイク……」

「悪魔どもを法廷に立たせて、すべてを世界中に知らしめる。こんな残忍なことが二度と起きないように何もかも。我々はここで停止し、エルベ川の向こうでまもなく戦争は終わる。ロシアとはそんな取り決めなんだ。奴らの罪を暴くのはそれからだ」

「……」

「ここが我々の戦争の終わりなんだよ、ジョージ。不本意だろうが、こんな戦争にこれ以上アメリカの若者の血を流してはいけない。分かってくれ」


 肩を震わせ泣き出したパットンの肩を優しく抱きながら、アイゼンハワーは川の遥か彼方を見やった。

 その目が厳しく細められる。


「お前の望んでいることはロシア人が今頃やっている。悪魔と狼が血みどろになって互いに牙を突き立てあっているだろう。地獄なんぞ、好きなだけ奴等にくれてやれ……」



**  **  **  **  **  **



 目に見えない巨大な圧力の下に、破滅の晩鐘は次第にテンポを増してゆく。

 ベルリンを守る要衝だったゼーロウ高地はついにロシア戦車が蹂躙し、突破するに至った。

 ドイツ軍も手をこまねいて見ていた訳ではない。

 崩壊した戦線をなんとか防ごうと、北から第11SS装甲師団「ノルトラント」が急派され、ゼーロウへ向かっていた。


「急げ、今なら敵を押し戻すことが出来るはずだ!」


 しかし上空からロシア軍の襲撃機が幾度も襲い掛かる。応戦と避難を繰り返さねばならなかった。そのたびに貴重な時間が失われる。

 そして、彼らはついにゼーロウ高地へ到着することはなかった。行軍の途上で別の前線が瓦解する場面に遭遇したのだ。

 その荒野は砲弾に掘り返され、穴だらけになっていた。塹壕線はほとんど崩れ落ち、砲兵陣地も滅茶苦茶に破壊されている。

 この地区を守備していたのは敗残兵の寄せ集めで編成された第9降下猟兵師団だった。士気も低く、ロシア軍の攻撃が開始されたとき、ひとたまりもなかった。

 猛砲撃に生き残った兵士達は戦う気力も潰え、ロシア砲弾が炸裂するなかを大仰な悲鳴をあげて逃げまどっている。そんな場面に救援部隊は遭遇したのだ。


「味方を救え! 戦闘準備!」


 師団長が顔色を変え、矢継ぎ早に命令が飛んだ。もはやゼーロウ高地へ援軍に赴くどころではなかった。崩壊したこの前線を捨て置けばロシア軍が一気呵成にベルリンへ雪崩れ込みかねない。


「戦車前へ!」


 撃退するには心もとない兵力だった。装甲師団と言いながら戦車はなく、三〇両程度の突撃砲(砲塔のない戦車。防御戦闘に適している)があるばかりなのだ。

 だがノルトラント師団は歴戦の勇名を汚さなかった。潰走する友軍と敵の間へ大胆にも押し入り、ロシア軍の追撃をなんとか阻んだのである。何台かの犠牲を払いながらも突撃砲が果敢に踏みとどまり、戦車砲の連射で敵の先鋒を牽制する。逃げまどうドイツ兵を追い立てていたロシア軍は多くの炎上と擱座した戦車を残して後退せざるを得なかった。

 だが、いったん引き下がっただけだった。たちまち東からロシア軍の砲撃が始まり、ドイツの優勢を覆す。

 さらに「退却したロシア兵が集結、重戦車を中心にして再度攻撃を準備している」と、報告が寄せられた。


「残った味方を集めろ。撤収する」


 ここはゼーロウ高地のように防御に適した戦場ではない。踏みとどまって戦っても不利な戦いを強いられ壊滅するだけだろう。師団長の判断は素早かった。

 そこへ参謀が第9降下猟兵師団長を連れて来た。前線で一人、ぼう然と立っていたのだという。


「第11SS装甲師団、ツィーグラー少将です」


 敬礼して名乗った師団長へ答礼することも出来ず、第9降下猟兵師団の指揮官ブラウアー大将は「私の部隊はおしまいだ。みんな死んでしまった。生き残った者も逃げてしまった」と、子供のようにすすり泣いた。


「取りあえずいったん下がりましょう。我々も兵力が足りません。ブロイアー閣下の降下猟兵は我々と行動を共にして下さい」


 後退して支援を受け、機を見て反撃を加えるのだとツィーグラーは壊滅した部隊の指揮官を懸命に励ました。

 どこに拠れば敵の攻勢を食い止められるのか、参謀は机に地図を広げる。


「閣下、敵の動向を教えて下さい。兵力はどのくらいでしたか? どこを目標にしていましたか?」


 敗残の将軍は力なく「分からんのだ。よく分からんのだ」と、泣きながら頭を振った。


「敵が圧倒的で、部下はみんな怯えて逃げ出してしまった。戦おうにもどうにもならんのだ」

「閣下……」

「どうすればいいのだ、どうすれば……」


 嘆く将軍を前に、師団長と参謀は思わず顔を見合わせた。

 彼の悲嘆はそのまま明日の自分達を見舞う悲嘆かも知れない……そんな恐ろしい予感がきざしたのだ。

 無慈悲で巨大な嵐に立ち向かっても自分達もまた無力さを思い知らされ、絶望を突きつけられる時が来るのだと。目の前で打ちひしがれている将軍のように。


「戦いましょう、将軍。最後まで義務を果たしましょう」

「希望を持たず、絶望もせず」


 師団長と参謀が口にしたのは、後退しながら粘り強く戦うドイツ兵の合言葉。

 絶望的な戦力差を映した地図を前に、彼等はしばらくの間、無言のまま立ち尽くした……



**  **  **  **  **  **



「キャタピラの音が近づいてくるよ! いっぱい来るみたいだ!」

「あっ、あの森の奥で何か動いてる!」

「ハンス、顔を出すな!」


 ぜーロウ高地より南に下がった、とある森の傍。


 まだあどけない顔をした少年兵達が道路沿いに掘られた塹壕の中で息を潜めている。

 一九四四年七月に国家総動員令で、既にドイツは国中の一六歳から六〇歳までの男子を戦場へと送り出していた。兵士にはまだ幼い、あるいは老いた彼等は、東西から締め付けられる万力の中でことごとく擦り潰されてしまった。

 そして事ここに至って、十五歳の少年までをも招集しベルリン西南へ配置していたのである。

 闘将ハインリツィ率いるヴァイクセル軍集団はまだ死にもの狂いで戦っていたが、その南に布陣していた中央軍集団は戦闘初日に崩壊している。その穴埋めに……

 彼等は訓練もろくに受けていない。パンツァーファウストや銃を渡され、慌ただしく使い方を教えられ、ここで塹壕を掘らされた。勲章を幾つも付けた大管区指導者は「何があってもここを守れ、ロシア軍を一兵たりとも通すな」と命じると、次の任務が待っているからと車でいずこかへ去ってしまった。


「大人の兵士達がいずれここに到着して交代する。そうすれば諸君は学校へ戻って解散するんだ。それまで頑張れよ!」

「はい!」


 交代の部隊が来る予定はない……少年らは自分達が捨て石にされたことに気が付くはずもなかった。

 彼等は、手にしたパンツァーファウストを手に「総統の為に!」「僕らの手でベルリンを守るんだ!」と口々に気勢をあげた。

 だが……時間が経つにつれ、彼等の顔には次第に不安と恐怖がよぎり始めた。

 そして、かすかに遠方から轟いていた砲声は次第に彼等の方へと近づいてきた。聞いたことのない異国語のさざめきと、そして戦車のキャタピラ音、トラックや砲車のエンジン音と共に。

 そして、ついに……道路脇の森の中から、見慣れない軍服を着た異国の兵士達が物珍しそうな顔で次々と現れたのだった。


「イワン(ロシア人)だぁ!」


 緊張に耐えきれなかった少年の叫び声が戦いの引き金となった。

 少年たちは手にした銃を次々撃ったが、訓練も未熟な射撃では遥か遠方の敵に当たるはずもない。それは単に敵へ自分達の存在と位置を教えただけだった。

 慌ててロシア兵は森の奥へと姿を消し、少年達は歓声を上げた。敵が怯えて逃げ去ったと思ったのだ。

 だが、勝利は短命だった。歓声をかき消すように耳をつんざく絶叫じみた音が空にこだまする。

 ぎょっとなって空を振り仰いだ少年達の目に、真っ赤に火を噴く何かがこちらへ向かって次々飛んでくるのが見えた。

 それがロシア軍のロケット弾「カチューシャ」だと知らぬ少年達は、恐怖に駆られて塹壕の中へと飛び込んだ。


「伏せろ!」

「みんな隠れるんだ!」


 掛け合う声は、たちまち重なる爆発音や地響きに掻き消える。彼等は声の限りに絶叫したが次々と吹き飛ばされ、叩きつけられ、あるいは引きちぎられて死んでいった。

 ロケット弾の轟音が消えた後に残されたのは、クレーターのように凸凹に掘り返された地面と動かなくなった少年達の無惨な死体だった。手足がちぎれ血を噴いているものや、埋まった身体の一部が地面に露出したもの……運よく生き残った僅かな少年達はショックのあまりへたり込み、放心状態になっていた。

 そこへ、再び戦車のキャタピラや軍靴の音が迫って来た。


「ウォルフ……ピーター……どこ……どこにいるの?」


 心細さに友人を探して彷徨する一人の少年が、無慈悲な機関銃の斉射にどさりと倒れる。


「攻撃だ……攻撃しろ!」


 年長者らしい少年が叫び、生き残った少年達は泥だらけの銃を手に、はかない抵抗を試みた。ろくに狙いも付けられずに放たれた僅かな銃火と、射程距離も遠いのに発射されたパンツァーファウストは、しかしロシア軍の歩みを僅かに鈍らせただけだった。

 戦い慣れたロシア軍の下士官が戦車に向かって手を振り、少年達が寄り集まった一角を指し示す。戦車の砲塔がゆっくり動き、丸太のように太い砲身の筒先をピタリを向けた。

 凍り付いたようにそれを見ていた少年達は我に返り、悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、戦車砲が火を噴くのが早かった。

 砲火が一閃した後、抗う者はもういなかった。


「母さん……母さん……」


 うわごとの様につぶやいていた瀕死の少年はそのまま動かなくなった。その上を戦車が無情に踏み砕いてゆく。その後ろにロシア兵達が厳しい顔で続いた。

 ベルリンへの進軍は止まらない。

 子供らの死体に、彼等は一瞥もくれなかった……



**  **  **  **  **  **



 嵐が街々へと襲い掛かり、過ぎ去ってゆく。

 自然の嵐は、幾度となく歴史の中で人々を襲った。家屋を破壊し、田畑を荒らし、時として人命を奪うことさえあった。

 だが、その「嵐」は違った。

 あからさまな悪意に満ちていた。そして人々の生きる希望そのものを故意に奪っていった。


 戦車の背に鈴なりに連なった兵士達は、ベルリン郊外の小さな街にたどり着くと歓声を上げて駆け込んだ。次々と扉を蹴って開け、中で震えている人々から女性を引きずり出した。あるいは部屋の中を物色し、時計や高価そうな調度品を持ち去ろうとした。

 たまりかねた中年のドイツ人が「何をする、やめろ!」と掴みかかり、ロシア兵士と揉み合った。

 そこへ上官らしい一人のロシアの青年将校が立ちはだかった。


「軍隊なら規律があるだろう。我々は非武装の市民だぞ!」

「……」


 兵士達の狼藉を仲裁するのかと思いきや、ロシア将校はピストルを引き抜くと、怒鳴りつけていたドイツ人の男性へ無表情のままそれを向ける。


「ま、待て。わしは大学教授、コンラートだ。ロシア語で話している。わしの言っていることが分からんか? 我々は非武装の……」


 乾いた音と共に男性は崩折れた。路上に血だまりが広がってゆく。家族達は大声で泣き叫んだ。

 顔をしかめると今度は彼は一番大きな声で叫んでいた男性の妻へ発砲した。さらに悲鳴をあげた妻の母親らしい老母にも。

 残りの家族はもはや声を失い、震え出した。それを一瞥すると彼はピストルを収め、去っていった。


「いいぞ、持ち出せるものはどんどん持って行け」


 さらにトラックが到着すると、兵士達は奪ったものを詰め込んでいった。若い女性の髪を引きずりそのまま拉致しようとする者もいる。前線での慰みものにしようというのだ。悲鳴を上げて抵抗する者は容赦なく銃床で殴られ、それでも抵抗する者は射殺され、無造作に近くへ放り出された。


「お前たちは強盗なのか? どうしてこんな酷いことをするんだ……」


 殴打されて顔を腫らした初老の男が力なくつぶやく。無力感に打ちひしがれた声だった。

 聞き留めたロシア将校が近づくと男は怯えて後ずさりしたが、将校は男の前に立つと片言のドイツ語で静かに一枚の写真を差し出した。

 そこには学生姿の青年を囲んで、ひげを蓄えた老人と温和なそうな老婆、農夫らしい両親、愛くるしい顔の妹らしい幼女が写っていた。


「私の家族だ。ウクライナで小麦を育てている、平凡で善良な一家だった」

「……」

「お前たちドイツ人がみんな殺した。私から私の家族をすべて奪った。小麦も、家も、学校も、友達もだ。ここにいる兵士は皆そうだ。本来ならドイツに関わり合うことのないロシア人たちだった」

「……」


 男は言葉を失い、立ち尽くした。


「お前はどうしてこんな酷いことをするのかと問うた。報い……これが答えだ。お前たちは人として叶う限りの残虐を尽くした。我々を悪魔と言うのなら、お前達が我々を悪魔にした」


 将校は踵を返すと部下たちへ「さぁ、そろそろ行くぞ。ベルリンは近い!」と声を掛け、兵士達は勇んで陸続とトラックに飛び乗った。大都市ベルリンなら奪えるものが山のようにあるに違いない。

 一人のドイツ人がフラフラとトラックへ近寄った。


「家族はみんな死んだ。もう、オレも殺してくれ……」


 運転手は将校を見たが、彼は構うなというように手を振る。ロシア軍の隊列は再び進み始めた。

 絶望して見上げる男へトラックからすれ違いざま、青年将校は冷たく言い放った。


「お前は殺さない。家族を失った理由に一生苦しむがいい……」

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