第2話 死闘
世界は拒絶する。己の掲げた倨傲な理想を……
だが、決して男はそれを受け入れようとはしない。
己が滅ぼされようとしていることも。次第に崩壊してゆく己の帝国の真実も。
クレプスは視線を合わせることが出来ず、俯いた。
「ハインリツィ元帥はその……オーデル河沿いの死守は不可能だと……」
「不可能だと?」
男の両手が震え、こめかみに青筋が浮かぶ。
目を逸らしたクレプスは「彼は後退を願い出ております。現在こそ互角に戦っておりますが、もう長くは持ちこたえられないと」と、続けた。
「敵との戦力比は一対一〇に開いております。補給も充分でなく……」
「嘘を言うな、クレプス!」
突然の怒号に、彼は説明を続けることが出来なかった。
「は?」
「将軍どもはいつもそうだ! 余はいつも充分な兵力を与え続けてきたはずだ! なのに」
焔立つように両手を上げ、男は咆哮する。
「彼等はいつも退却ばかりを要求する! 何故だ、何故なのだ!」
「それは……」
「貴公には答えられまい。だが、余は知っている」
男は「無能だ!」と怒号した。クレプスは自分が総参謀長であることも忘れ、呆気に取られている。
それを、自分が図星を突いたからだと思った男は人間離れした声音でさらに捲し立てる。
「奴等は余の才能を恐れたのだ! 余を蔑むことで自分たちの無能をひたすらに隠そうとしたのだ!」
「……」
「貧苦に喘ぐドイツを蘇らせたのだ誰だ? 第一次世界大戦で奪われたオーストリアやダンツィヒを取り戻したのは? ポーランドを破り、フランスを一ヶ月で降伏に追い込んだのは?」
男はもはや返答など求めていなかった。
己がこうと決めつけた真実を叩きつけ、虚しく激情を迸らせているだけでしかなかった。
「余だ! アドルフ・ヒトラーただ一人が全てを行い得たのだ!」
「……」
「なのに将軍たちは……奴らが何をした! モスクワを前に敗北して以来、言い訳と退却の請願ばかり……挙句の果てがこの有様だ! オーデルから下がり、大ベルリンを敵に明け渡したら今度は何を言い訳するつもりだ!」
クレプス中将は口を噤んでいた。何を口にしてももう無意味だと悟ったのだ。
「マンシュタインもグーデリアンも余に逆らった! ロンメルは暗殺さえ企んだ! 今度はハインリツィだ!」
自分の発した言葉に男は更に激昂した。
「撤退は許さん! 余はベルリンを絶対に離れぬ。絶対にだ!」
クレプスは韜晦した表情でうなずいた。
「おおせの通りです。ハインリツィに何と命令されますか?」
「ドイツを守るためにただ戦えと伝えよ。祖国の為に生命を捨てることを誓えと」
「……」
「ハインリツィだけではない、全ドイツ軍の将兵に伝えよ。ただちに伝えよ。確固たる意志の力こそ優良たる我がゲルマン民族の礎であることを想起せよと!」
それが奇跡を起こすとでも言うのか。
クレプスは右手を挙げ機械的に応えた。
「ハイルヒトラー!」
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中央ヨーロッパを流れるオーデル川を下流へと辿れば、それは港湾都市シュテッティンを経て、最後はバルト海へ注ぐ。
泥濘の海と化したオーデル河畔の彼方から、いま双眼鏡で東岸を丹念に眺める男がいた。
首元には騎士鉄十字章を付けている。ドイツ軍人にしては小柄だが、その全身からは不屈の闘志がにじみ出ていた。
「……」
彼の双眼鏡に映る対岸のロシア軍は、歩兵部隊を続々と集結させていた。後方には巨大な野戦砲をずらりと並べている。もはや隠そうともしていない。
「閣下、ロシア軍は……」
「まだだ」
双眼鏡から目を離した男は、背後に控えた参謀の問いに短く応えた。
「だが、もうすぐ来る」
「……」
南では既にオーデルを渡河したジューコフ将軍率いる第一白ロシア方面軍が、ゼーロウ高地で激戦を繰り広げている。
更に南ではジューコフを出し抜いてベルリンを目指そうとしているコーネフ将軍の第二白ロシア方面軍が、敗残のドイツ中央軍集団を蹴散らし進撃していた。
この北の戦域でもいずれ敵が進撃を始めるだろう。
だが、まだ不気味なほど静かだった。
「行こう」
手を振って引き上げの合図すると、マントイフェルはひらりと装甲車に飛び乗った。背後に控えた幕僚が乗り込むと、装甲偵察車は足早にそこを離れる。敵にも既に見られている。ぐずぐずしていれば砲弾が飛んでくるだろう。
数日前の爆撃で割れた路面に身体を揺すられながら、マントイフェルは気難し気に考え込んだ。
同乗している将校たちは縋るような目で彼を見つめている。
ハッソ・フォン・マントイフェル。
昨年末の西部戦線でアルデンヌの森から反攻に転じたドイツ機甲軍を導き、一時はミューズ河まで米英軍を押し返した男。
だが、彼我の差が絶望的なほど開いたこの東部戦線では彼ほどの名将でさえ、もはや手の施しようがなかった。空などロシア機が我が物顔で飛び回っている。司令部も廃墟と化した都市の中に隠れるように設けられていた。
作戦室へ入ると副官が待ち構えていたように「ハインリツィ元帥からです」と、電話を差し出した。
「マントイフェル。そちらの敵に動く様子はないか?」
「先程、自分の目で確かめました。おそらく明日でしょう」
肩を並べて戦ったことはなかったが、ハインリツィとマントイフェルは互いをよく知っていた。ハインリツィは幾度もロシア軍へ痛撃を与えたマントイフェルの戦いぶりに信頼を寄せており、マントイフェルは敵へ出血を強いながら粘り強く後退戦の指揮を執り続けたハインリツィの統率力に敬服していた。
「そうか……敵が来ても君には戦車も砲もない。すまないな」
ハインリツィは唐突に詫びた。詫び方も彼らしく無骨だった。
先月、ヒトラーがハインリツィのヴァイクセル軍集団から反撃用の機甲師団を取り上げた為、彼は代わりにマントイフェルの部隊から引き抜いて充てるしかなかったのだ。マントイフェルの率いる第3装甲軍は、今や装甲とは名ばかりの部隊にしか過ぎなかった。
ハインリツィは作戦会議の席上「マントイフェルの戦区が無事でいられるのはオーデルが氾濫している間だけだ」と報告し増援を要請したが、ヒトラーは何も言わなかった。
……そしてオーデル川の増水と氾濫は今や、治まってしまった。
「ベルリンを背後に控えたブッセの第9軍の方に今は1台の戦車だって必要でしょう。そちらの戦況はどうなっていますか?」
「ゼーロウ高地で激戦が続いているがベルリンは相変わらず勝利ばかりを声高に求めている。そのくせ援軍の要請には空手形しかくれない」
「出すべき兵も戦車も砲も、もう何もないのでしょう」
二人はしばらくの間、黙り込んだ。
ドイツ各地の工場は毎日のように繰り返される爆撃でことごとく廃墟と化した。最後まで細々と兵器を生産し続けたルール工業地帯も三月に米軍の手に落ちてしまった……
「とにかく出来る限りのことはやります。私の第3装甲軍は時間を稼ぐことしか出来ませんが、シュヴェットとシュテッティンに拠って戦えば、数日間は北からベルリンを包囲しようとするロシア軍の動きを抑えられるはずです」
「マントイフェル、英雄になるなよ(※死ぬなという意味)」
「ベルリン全面で戦っている第9軍のブッセ将軍にもそうお伝え下さい。閣下もご武運を……」
電話を切ったマントイフェルは、ため息をついた。
この絶望の中でどんな最善の戦いが出来るだろうか。戦う先に果たして希望はあるのだろうか。
司令部の窓から遥か南へ視線を向けた。
そこでは、力尽きたドイツ軍の主力が今なお死力を振り絞って戦っている……
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泥濘の向こうは小高い丘がそびえていた。この最後の要衝を踏破出来ればもう遮るものはない。そしてベルリンまで七〇キロもないのだ。憎むべき悪魔、ヒトラーの息の根を止める喉元まで刃を突きつけているのに。
だが、どうしてもこの高地を抜くことが出来ない。
「進め! ゼーロウを越えろ!」
ベルリン攻略の主力を担うロシア軍指揮官、ジューコフは焦りに焦り切っていた。泥沼に足を取られてもがきながら進む戦車が次々と被弾して燃え、その周囲では兵士達がバタバタと倒れる。その屍を冷酷に踏みしだいて進む戦車もまた撃破された。
炎にまつらわれてよろばい出た戦車兵は銃火を浴びて動かなくなった。それが何十度、何百度と重なり、ついには戦場がおびただしい鋼鉄と人の「屍」で渋滞してしまったのだ。
「ベルリンを取るんだ。何としても!」
四月一九日……初めの予定ではとっくにベルリンへ入城している日付である。
ジューコフは再攻撃を命じた。南では彼のライバル、コーネフ将軍が快進撃を続け、南から先にベルリンを攻略出来る位置まで進んでいる。これ以上、後れを取る訳にはいかなかった。
「ヴェリヤ(前進)!」
ジューコフが選抜した精鋭の戦車旅団が、ここに来てついにゼーロウへ突入した。
特別列車で最前線に到着したばかりのスターリンⅢ型重戦車である。長大な一二〇ミリ砲は、まるで電信柱を横倒しにしたようだった。丸みのある砲塔と斜めに切り立てた車体は相当な装甲の厚みをしのばせる。これこそジューコフの切り札だった。
更に、彼等が突入する前にジューコフは地形を変形させるほどの猛砲撃で高地を叩きに叩いていた。大地を幾度も掘り返し、生きている者はもはや誰もいないとさえ思われた。仮にいても、もう戦う気力すら残っていまい……
泥に足を取られながら彼等は進み、ドイツ陣地の五百メートル前まで達した。砲の有効射程距離をとっくに過ぎていたが応射はない。丘をくりぬく意気込みで砲手は彼方に見える砂袋の連なりに照準をつけた。
各戦車から車長が射撃を命じかけた……その瞬間だった。
「フォイエル!(撃て!)」
思いも寄らぬ光景がひろがった。「丘」が再び一斉に火を噴いたと思えた。しぶとく生き残ったドイツ砲が至近距離まで引き寄せて狙い撃ったのだ。
何十という砲声の中で、砲煙が彼我の間にわだかまった。ロシア戦車群は噴き上げる爆炎の林に包まれた。砲身を水平にした八八ミリ高射砲が、死に物狂いといった様子で矢継ぎ早に砲弾を放ち、ロシアの重装甲へ穴を穿つ。
「アゴーイ!(撃て!)」
それでもロシア戦車はひるまなかった。ドイツ陣地の二百メートルまでにじり寄り、報復の一二〇ミリ砲を放った。装甲のない八八ミリ高射砲はひとたまりもなく次々と消し飛び、真っ赤な火炎がまくれ上がった。
しかし、これと差し違えに今度は塹壕線からからすさまじい斉射が起きた。ドイツ歩兵の対戦車兵器パンツァファウストである。近距離まで歯を喰いしばって耐えた兵士達が放ったロケット弾が次々とスターリン重戦車を屠っていった。
「おのれ、ファシスト共!」
「みな殺しにしろ!」
戦車に随伴していたロシア歩兵が鬼の形相で次々と塹壕へ飛び込んだ。たちまち近代戦とは思えなぬ原始的な肉弾戦がそこかしこで繰り広げられる。
怯えて逃げ出すドイツ兵の背中に銃剣が突き立てられ、振り下ろされたシャベルにロシア兵の頭が叩き割られた。狭い塹壕の間で放電するように独ソの兵士が、互いに朱に染まる。砲声や爆音の切れ切れにドイツ語やロシア語の悲鳴や怒号が響いた。
空にはロシアの襲撃機シュトルムビクがハゲワシのように飛んでいる。
だが戦場は敵味方が入り乱れており、立ち込める煙の酷さもあって戦闘に介入することが出来なかった。手をこまねいて上空をただウロウロと遊弋している。
新型重戦車を押し立てたロシア軍の攻勢は、ドイツ軍の死に物狂いの抵抗でこうして頓挫したかに見えた。
だが、瀕死の態でなおも前線にしがみつくドイツ将兵の目に、新たな戦車と歩兵群が津波のように押し寄せてくるのが見えた。
「……」
戦場に立ち尽くす彼等の顔に一様に絶望と、そして諦めの表情が浮かんだ。数に十倍する敵を相手に死に物狂いで戦い続けたが、とうとう援軍は来なかった。
もう、これ以上持ちこたえられない。
それでも兵士はよろよろと銃を持ち直した。砲兵は最後の弾を対戦車砲へ押し込む。軍人として最後の責務を果たそうと……
負傷で顔を血まみれにした将校が疲れ切った手を振り下ろし叫ぶ。
「ひるむな、撃て!」
炎の中で叱咤した指揮官が一閃、砲火やキャタピラの踏破の中で消滅した……




