第1話 終末の序曲
人を蔑むほど醜いものはない。
人の尊厳を踏みにじるほど憎むべきものはない。
……そして、そんな国家がまもなく滅びの刻を迎えようとしていた。
一九四五年四月一六日 午前三時。ドイツ国境、オーデル河。
静まり返っていた河の向こう岸から突然、一発の吊光弾が上がった。
それは力なくのろのろと夜空に打ちあがった。マグネシウムを糧に闇夜を僅かに照らし、地上へ引かれる様に落下してゆく。
だが、彼の役目は本来の、地上を照らす為ではなかった。それは合図だった。
次の瞬間、それまで無人と思われた荒野から無数の流星が飛び立った。耳をつんざく音を立て東から西へ……オーデル川を越えて。
ロシア軍のロケット弾「カチューシャ」。その飛翔音はアイルランドの伝説「死を告げる悪魔の狂女」ヴァンシーの絶叫のようだった。
しかしそれすら序曲だった。万を超える巨砲が一斉に火を噴いたのだ。人類史上類を見ない凄まじさだった。てっきりヨーロッパ大陸を爆破にかかるのかとさえ思えた。続いて、それまでじっとうずくまり息をひそめていた総勢一五〇万の兵士達が立ち上がり、前進を始める。
遥かな高みから見れば、それはまるで人で織りなした津波のようだった。
「撃て! もっと撃て!」
「ファシスト共へ思い知らせろ! 我等の血と涙を!」
砲火の轟音に鼓膜の破れた前線のロシア兵達は、耳から血を流しながら声の限りに叫んだ。泣きながらこぶしを振り上げる者もいる。この四年の間、彼等はあまりに多くのものを奪われてきたのだ。今こそその報いを受けさせる時だ! 憎悪に猛り狂う彼等の頭上をかすめて無数の砲弾が飛んで行く。
矢継ぎ早に装填され、発射される砲弾には「ヒトラーに苦痛と死を」「同志たちの怒りをこめて」「殺された我が子の為に」など様々なスローガンやメッセージが書き込まれていた……
「殺せ! ドイツの名のつくすべてのものを、この世界から消してしまえ!」
「独ソ戦」と呼ばれるナチスドイツとロシアの戦争が始まった一九四一年から四年が経過していた。その間にどれほどの悲劇が生まれ、どれほどの血が流れ、そしてどれほどのおびただしい人命が奪われていったか……もはや叙述の域を超えたものであろう。
だが、復讐に燃えるロシア軍はここに至って、ついに侵略国の首都を、指呼の間に捉えていた。
無数の砲弾が彼方の地表へこれでもかとばかりに叩きこまれ、オレンジ色の火柱を突き立てる。
反撃はない。
ドイツ側の土地は不気味なほど静まり返っていた。砲火の洗礼をただ甘んじて受け入れている。
と、執拗に続いた猛砲撃がしばらくしてピタリと止んだ。続いて目も眩むほどの赤い光が幾つも西の地を照らし出しす。ベルリン攻略の為にとロシア軍指揮官ジューコフ元帥が用意した秘密兵器、巨大な投光器群である。
破壊されたドイツ陣地が血のような赤色で照らされる。
「突撃!」
戦塵で薄汚れたマントをなびかせ、将校たちがピストルを握った右手を振り上げる。
兵士達は吶喊の声を挙げドイツ軍最後の要衝、ゼーロウ高地へと躍りこんでいった。
ここを越えれば……そこには彼らがもっとも憎悪する男が潜む首都、ベルリンがある。
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ドイツ兵、ハインツは震えながら地獄のような光景を見つめていた。大地へ槌を打ち付けたような地響きがさっきからずっと止まらない。壕のあちこちで補強の間に合わなかった箇所があちこち崩れていた。
血の色のような真っ赤な光が砲火の閃く夜空を染めあげている。そしてその下を津波のようなものがこちらへ迫ってくる。数えきれないほど無数の戦車や砲車、兵士達だった。
「撃つな! まだ撃つな!」
ゼーロウ高地に拠った陣地では指揮官たちが発砲しそうな兵士達をしきりに抑えていた。真っ赤な光に照らされた彼等の額には脂汗がギラギラと光っている。
「イワン共め、あの砲撃でこちらをせん滅したと思っていやがる」
声を震わせ、一人の下士官が強がった。
「我々がそれを予期して第二線に下がっていたとも知らずに、ふふふ……」
実は、ドイツ側の守備隊はロシア軍の砲撃が開始される時間を察知して直前に後退していたのである。彼等は無傷で待ち構えていた。
だが、ハインツはロシア軍を撃退出来るとは到底思えなかった。
敵はあまりに多く、味方はあまりに少ない。弾薬も心細かった。
一人の将校が今にも浮足立ちそうな兵士達を「戦車が応援に来る、それまで持ちこたえれば勝てる!」と、しきりに励ましていた。本当だろうか。援軍は来るのだろうか……
「間もなく第一八装甲擲弾兵師団とノルトラント師団が駆け付ける! そうすれば敵をオーデル川の向こうへ追い返せるぞ!」
応える兵士は誰もいない。今は目の前の敵からどう持ちこたえるのか……それしか考えられないのだ。皆、銃火器を構えたまま、凍り付いたような眼で迫り来る津波を見つめている。
やがて、投光器の真っ赤な光を背に黒々とした敵兵士のシルエットが浮かび上がった時、指揮官たちの手が一斉に振り下ろされた。
「撃て!」
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「クレブス中将、貴官は戦況が判っているのか?」
「どういうことです? ハインリツィ元帥」
シェーネ・ヴァルテに設けられた司令部で、一人の将軍が電話に怒鳴りつけている。
ゴッドハルト・ハインリツィ。
不愛想な老教師を思わせる風貌のこの男は、ベルリン最後の盾を担うヴァイクセル軍集団の指揮官だった。防御戦闘では右に出る者のいない、卓越した戦術家である。
既に日は昇っていた。受話器を握る彼の側では壁に掛けられた地図に戦況を書き込む将校、前線からの報告を届ける参謀、部隊への命令を携えて部屋を走り出る副官らが慌ただしく行き交っている。
ロシア軍! 電話にも、各戦域からの電信にもこの一語がしきりに発せられた。気の遠くなる量の野戦重砲を援護に遮二無二押し出して来る赤星印の重戦車群が、いまやドイツを駆逐する主役である。対するドイツ側は全てにわたって欠乏と不備だらけだった。
敵を最後まで押しとどめる術はない。せめて最善を尽くして戦う以外には……
戦況を分析している参謀たちは青ざめた顔を見合わせ、ベルリンの最高司令部と激しくやり合う自分たちの上官を見つめていた。
「イワンの大攻勢が始まったんだ。兵力はこっちの一〇倍以上だ!」
怒鳴り声に混じってかすかな砲声や地響きも電話の相手に聞こえている筈だった。
だが、相手は頑なに命令を変えようとしない。
「総統は撤退を許可されません。何があっても無理です!」
「奴らがベルリンを占領してもか?」
毒舌家でもあるハインリツィが辛辣に皮肉ると、電話の相手は押し黙った。
ドイツは今まさに破滅の淵に立たされている。なのに、この期に及んでも国家元首の意に沿うことしか考えられないとは……ハインリツィには信じられなかった。
「そこを、なんとか閣下のお力で……」
「二週間前、総統閣下が私から予備の装甲師団をすべて取り上げなければ、ロシア軍もいま、あまりいい気持ちはしなかっただろうがな」
二週間前。ヒトラーは突然「ロシア軍の攻勢はベルリンではなく、チェコ方面に向けられるはずだ」と言い出し、ハインリツィが反撃の為に用意していた戦車隊を取り上げ、南へ異動させてしまったのだ。その席で何も言えなかった総参謀長は、今も口ごもるばかりだった。
「敵の砲撃は事前にかわした。オーデル河を意図的に氾濫させたせいで敵の進撃は泥に足を取られている。そのおかげで我が軍は遥かに優勢な敵と今のところは何とか渡り合っている。今のところはな。だが、いつまでも持ちこたえることは出来ない。増援が来ない以上、後退しなければ前線は崩壊するぞ」
「駄目です! 退却は絶対に総統がお許しになりません」
カッとなったハインリツィは受話器に向かって怒鳴りつけた。
「いつまで世迷言を言っている! なら、どうやってベルリンを守れというのだ!」
「……」
受話器の向こうは、応えに窮して黙り込んだ。一刻の猶予もならないというのにこの期に及んで……
もうこの男は当てにならない。
見切りをつけたハインリツィはため息をつくと「もういい。総参謀長閣下、俺は自分のやり方で戦闘を継続するぞ」と宣言した。
「それは軍令違反です! 銃殺ですぞ!」
「知ったことか! 我らがババリアのクソ伍長殿に伝えろ。俺は部下の生命を無駄にしたくないんだ!」
電話の向こうは慌てて「待って……」と引き留めようとしたがハインリツィは構わず電話を叩き切ると、青い顔を並べている参謀たちに向き直った。
「前線はどうなっている? 増援に出した装甲師団の現在位置は……」
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「……」
ベルリンにある総統大本営地下壕の一室で、クレプス総参謀長は叩き切られた受話器を黙って置いた。
窓がなく四方をコンクリートで囲まれた地下室は、いつもどこか息苦しさを感じさせた。
いや、世界中から圧迫され今まさに縊り殺されようとしているこの国の誰もが、同じ思いを抱いているに違いない。
「もう、どうにもならん……」
苦渋に満ちた声でクレプスが一人ごちた時、扉をノックする音がした。
振り向くと扉が開かれ、伝令を務める将校が踵を鳴らして右手を挙げた。
「閣下、総統がお呼びです」
「……すぐに行く」
力なく応えると、彼は部屋を出た。地下壕の長い廊下には距離を置いて警備兵が銃を床に付け、屹立している。
重い足取りで彼は歩き始めた。呼び出された理由は既に察しがついている……死刑台へ向かう囚人にも似た心地がした。
指定された部屋の扉を静かにノックすると内部から低い声で応えがあった。
「失礼いたします」
中は照明もついておらず、真っ暗だった。ただ、広大な部屋の中央に据えられた巨大なテーブルには西はスペインから東はウラル山脈にまで至る広大な世界地図が展べられ、テーブルからの発光に照らされていた。
そして……テーブルの向こう側に、ひとりの男が冷ややかな表情で佇んでいた。
氷のような眼差しが自分を射抜くのを感じ、彼の額に汗が浮かんだ。
「クレプス中将。東部戦線の状況を確認したい」
問われた総参謀長は、平静を装って戦況を説明しようとした。
絶望的な状況ではなく、今は一時的な劣勢に立たされているだけとでも云う様に。
だが、広大な地図上に記されたドイツの版図はもう僅かしか残されていなかった。
「本日早暁、ロシア軍が新たな攻勢を開始しました。現在、我が軍は全力で反撃しております」
「……」
「現在、ハインリツィ元帥が新たな戦線を構築すべく……」
それまでずっと沈黙していた男の表情が、そのとき初めて動いた。
「新たな戦線だと?」
「はい、総統閣下」
クレプスは説明を続けようとしたが、男は黙ってそれを遮った。
静かな問いが、氷のように彼を凍てつかせる。
「今までの戦線はどうした? 余はオーデルを死守せよと命じたはずだ」




