第5話「リテラシー向上委員会」
本気で悩んでいると、必要な人間は現れるものだ。
珍しくこんな時間まで残ってデスクに向かい、独りでブツブツ言っている僕を見つけた正雄と涼介が声をかけてきた。
二人とも同年代の仕事仲間だ。
正雄は毎日一緒にトレーニングする筋肉仲間だったが、そのぶ厚い胸板と成人男性の太腿ほどある二の腕は、140キロのベンチプレスを持ち上げる社内屈指の怪力男だ。
彼とは家族ぐるみでキャンプに行く関係でもあった。子どもたちが寝静まって開く、焚き火を囲む酒宴で聞いた彼の経歴は前職は陸上自衛官。エキゾチックな甘いマスクに似合わない、筋肉の鎧はそこで鍛えあげたものだった。
彼から聞いて驚いたのは、半ば都市伝説だと思っていた富士樹海のサバイバル訓練は実在していて、彼は40キロの装備と機関銃を抱えてその訓練を乗り切った、本物の戦士だと言うことだ。
顔だけ見れば優男の彼が、なぜそんな険しい道を選んだのか聞くと、優しく笑いながら「子供と女性を守るため」と淀みなく答える筋金入りの正義漢だ。
涼介は爽やかなサークルの先輩といった風貌で、社内屈指の情報通だった。きめ細やかな気配りが得意で、誰にでも気軽に話しかけるコミュニケーションの達人だ。国内外のどこの工場、どのオフィスに行っても必ず彼に声をかけてくる社員がいた。特に知らない女性社員はいないのではないかと言うくらい、構内を歩けば必ず話しかけられる社内一の優男といったところだ。
正直、無愛想で通っている僕には苦手な陽キャキャラだった。
二人に共通するのは、「デリカシーがない」と先輩社員からイジられる僕には、到底真似できないコミュニケーション能力の持ち主だった。
二人が声をかけてきた時、僕は挙げ連ねたやる事の山に埋まりながら、自分に足りないスキルをどうするか途方に暮れていた。
物証のフロッピーディスクの分析だけなら、わずかな痕跡があれば見つけ出す自信はあった。
しかし、証拠はディスク4枚と封筒だけ。
さすがにこの手がかりだけで、犯人にたどり着けるとは思えなかった。本当ならディスクの分析と並行して、封筒の出所の追跡や犯人の動機を探り出す為になっちゃん周辺の人間関係を調べたかったが、到底一人では不可能だ。
どうしたものかと思案しているところに、ニヤニヤと興味本意で声をかけてきたこの二人の顔を見て僕は閃いた。
「こいつらなら―――」
もし、正雄の野人的な行動力で、状況証拠をかき集めたら?
涼介の情報網で、人間関係を調べ上げ犯人の動機を探れたら?
この二人が協力してくれたら、この絶望的な状況を打開できるのでは…。
ただ、現時点でこの二人も犯人の可能性がある。
犯人ではなかったとしても協力を拒まれたら?
もし犯人に情報が漏れたら警戒され、状況はさらに悪くなるかもしれない。
時間にして0.5秒。瞬きしている間だが、正雄のパンチなら2発は食らってしまう細い時間の中で僕の脳はフル回転した。
そして出した答えは、
どうせ一人で悩んでいても埒があかない、だ。
仮にこの二人のどちらかが犯人であれば、何かアクションを起こすだろう。それもまた手がかりになる。「ここ」に居るより前に進んで、次の問題にぶつかる方がマシだ。
僕は意を決して二人に、事の次第を打ち明けることにした。
「あのさ、今、ひま?」
僕はニヤニヤして覗き込んでいる二人に声をかけた。
「え? ⋯⋯⋯マジ?」
二人は顔を見合わせた後、ニヤけた顔を一変、神妙な面持ちで僕に言った。
「うん。マジ。大マジ。」
僕が答えると二人はもう一度顔を見合わせた後、少し離れたところにあるOAチェアを持ってきた。そして椅子の上に心持ち正座して、僕が話し始めるのを待った。
合理性を重んじ少数精鋭を規範とするこの職場で、互いに多忙であることをわかっていながら
「今、ひま?」と聞く意味は何か。
それは仕事の中で「やばい何か」に遭遇した時の合図、SOSを伝える隠語だった。
まして普段から無駄につるむのを嫌う僕が、
助けを求める意味を二人はよく理解していた。
僕は、メモを見ながらここまでの経緯を二人に詳しく説明し、最後に「なっちゃんの願い」を伝えた。
二人は一言も発することなく話を最後まで聞くと、僕が協力を依頼する前に全てわかったというように頷いた。
僕は涼介と正雄の顔を交互に二度見した。
二人は、僕の想像をはるかに超えた熱量で燃え上がっていた。
さっきまでのイタズラっぽい笑みは消え、瞳には獲物を狙う獣の輝きを宿していた。
一部始終を話し終えた僕は二人の変貌に、「神様は乗り越えられない試練は与えないって、こう言うこと??」
と、どうでも良いことを考えていた。
そのくらい、さっきまで独りで佇んでいた絶望的な「場処」に、希望につながる道筋が見えていた。
僕は二人に協力の意思を確認したあと、三人の役割分担と今後のプランを提案した。
正雄は、社内メール便が届いた経路を遡って状況証拠を集める。
涼介は、なっちゃんを中心とした人間関係を調べ上げ、動機のある人物をリストアップする。
僕は引き続き、フロッピーディスクを分析して物証を集めだ。
そして各々が集めた情報は、始業前の7時30分と、昼休み12時、終業時間の17時の三回、集まって共有すること。
現時点では僕たち三人を含めた、この本社にいる約2000人の社員と、出入り業者数千人が当面のターゲットであることを確認した。
社内メール便が届く全国各地の工場や事業所は第二候補とし、天間先輩が向かった海外工場の可能性も捨てられないが、現時点では優先度を落として捜査することを決めた。
それでも現時点で数千人が容疑者だ。全国から犯人を捜しだす「ワ〇さん」とは比べ物にならないが、それでも僕らには気が遠くなる数だった。
その他、何処から情報が漏れるとも限らないので、今日のことは三人の秘密とした。
もし漏れていたら、僕らの誰かが犯人か、その共犯者の可能性を疑うことになる。
そのことは僕の胸にしまい、二人には伝えなかった。
そして最後に、僕らのこの活動に「リテラシー向上委員会」と命名する事を提案した。
これから様々な諜報活動をする事になるだろう。その事を周りからカモフラージュする仮初の組織として、ITやコンプライアンスのリテラシー向上が職場課題とされていることに便乗してそう名付けた。
それだけ決めて初日のミーティングを解散した。
気づくと、設計事務所は僕たち三人だけになっていた。昼間の喧騒が嘘のような静寂な空間が、今日の出来事が、このドラマのような事態が現実である事を僕達に突きつけていた。
時計は午前0時を回っていた。
事務所を戸締まりして、駐車場で二人と別れ岐路に着く。暗い車中で運転していると目まぐるしかった一日が頭の中で自動再生される。
今日一日、独りで封筒の出所を聞いて回ったが、人の記憶が曖昧になる早さに驚かされた。
皆、興味がないことは気にもとめない。
繰り返される日常は、手がかりを記憶の狭間に消し去ってしまう。
今日は水曜日。金曜までに解決できなければ、週末の楽しい記憶は確実に手がかりを上書いてしまうだろう。
「あと2日か」
時間との闘いが始まった。