第28話「返却棚の事件簿」
第28話「返却棚の事件簿」
中年男「ぐっ、ぐぬぬぅ、おおおォォォォ!! あっ、やばぃ――」
美女 「え? ええぇ?!」
中年男「あ⋯⋯⋯や、やっぱり無理だ! ギ、ギブ!ギブ!! ぎぶぅー!」
美女「ええ!? もうギブアップ?! もうちょっと頑張ってくれないと元がとれないですけど!!」
中年男「ぐっ⋯⋯。もう、ムリ」
美女「もおーー!!! (はぁ〜)」
コロナ禍に通販で再流行した筋トレマシンの上で、中年男は大げさに白目を剥いて気絶のフリをした。
隣で見ていたスーツ姿の美女は腕組みをして、大きく溜め息をついた。
昼下がりのオフィス。いや、オフィスと言うより事務所と呼ぶのがふさわしい、駅前商店街の片隅にある小さな事務所。
ここは山田が代表を務める|リテラシーコンサルタンツ㈱《リテコン㈱》の応接室だ。
令和X年、この国は永く続いたデフレと円安で疲弊していた。とりわけ先進諸国に先駆けて迎えた超高齢社会は深刻だった。肥大した高齢人口を支えるには、AIやロボットなどの最新鋭のテクノロジーを活用した超高効率社会の実現が必要だったが、額に汗して働く「労働」を美徳とする国民性が導入を邪魔した。
特に50代、最後のバブル世代は自動車と家電で世界を席巻した技術立国時代の栄華にすがり変化を拒んだ。
結果、「シルバー民主主義」に代表される保守的なシニア層が政財界の利権を握り続けた事で、価値観の代謝不全に陥ったこの国は出口の見えない迷路に迷い込んだ。
いわゆる「老害」が、この国の時間を止めてしまった。
「personal is political」〜「個人的なことは政治的なこと」
人が集まる企業や組織は、社会問題の坩堝だ。
コンサルタントは、組織の健康状態を診断し、それを蝕む病理の処方薬として無くてはならない存在となっていた。
近年のクランケの主流はベテラン世代が起こすハラスメントやコンプライアンス問題が中心だ。中には管理職が病巣となって職場環境が悪化、人材リソースの荒廃の末に取引先との信用問題や業績不振に陥るケースも少くない。
今、少子高齢化が進むこの国では、若く優秀な人材の確保は企業活動の生命線だ。人材の成長と活躍の場を担う健全な職場環境の保全は、企業の浮き沈みを分ける重要な経営要素となっている。
リテコン㈱はこうした組織の病巣を最新のデジタル技術と潜入捜査を駆使して見つけ出す手法で業界に名が通っていた。
冒頭のやりとりは、社長の山田信と秘書の冴木光のお決まりのやりとりだ。
山田の風体は浅黒い肌に顎ひげ。髪は銀髪に近い白髪、切れ長の瞳はコンサルタントとして経験した修羅場の数だけ鋭さを増した。一見ガテン系の職人を思わせる粗雑さと頓着ない身なりは、おおよそ頭脳を駆使して難題を解決するコンサルタントには見えない。
一方、光はスラリとしたモデル並の風貌に、日英独中印5か国語を操り会計から訴訟対応までこなす特Aクラスのアナリストだ。
「彼女」は日独ハーフとして産まれ、幼少期を日本で過ごし、10歳を待たずに親の転勤で米国に渡った。
その後ハーバードを飛び級で卒業。グローバル企業でキャリアを積んだ後、前職で山田と再会した。
彼女のニックネームは「アリス」
フルネーム「冴木・エリアス・光」のミドルネームをニックネームにした同級生の「彼女」だ。
白銀に黒の斑模様のロングヘアをまとめた髪型は、今では異才を放つ彼女のトレードマークになっている。
有能な彼女がなぜこんな場末のコンサルで秘書紛いな仕事に興じているかは、前職での出逢いに関係ある様だが、本当のところは二人しか知らない。
「お、さ、さえき! おい!あきら!!
こ、珈琲にしよう! 珈琲ブレイク!
飲んだら頑張るからさ? な?」
「もー。そうやっていつも逃げるんだからーー。しょうがないなぁ。
やまだくん、いや、山田社長。
実はさっき、美味しいお茶請けを買ってきたんだよね♪
いま淹れるから、ちょっと待っててね♪♪」
「おお!さすが!天才秘書!あきらさま!」
口八丁手八丁、山田はため息をついて、筋トレマシンに大の字になって寝転ろぶと天井をぼんやりと眺めた。
部屋の奥から光が淹れた珈琲の芳香が部屋を満たした。
「そう言えば、坂上のU社から案件来てるんだけど、どうする?
山田くん、昔あそこに務めてたんだよね?」
光はそう言うと、山田のカップに珈琲を注いだ。
「⋯⋯⋯⋯」
黙って珈琲を飲もうとする山田に構わず続ける。
「まあ、この仕事じゃ、知り合いが多いと逆にやり難いってこともあるし。
昔の仲間がクランケ(患者)だったりしたら、ね。」
「俺は別に⋯⋯⋯、まあ、そうだな」
生返事をしながら珈琲を啜る。
それにしても、光の煎れた珈琲は相変わらず美味い。
彼女に苦手な事などあるのだろうかと、会話中に明後日のことを考えられるのも、彼女の秘書としての能力のひとつだ。
「あー、山田社長。
やっぱり、久しぶりに古巣に行ってみたらどうです?」
光はそう言うと、凛とした眼差しでお茶菓子をカップソーサーの上に置いた。
山田は視線をチラッと移した後、また明後日の方向を見て生返事をした。
光がこの顔をして「社長」と呼ぶ時はろくなことが無い。
当然!光は山田のそんな所作は無視だ。
「U社って、立派な体育館あるよね?
一度入って見たかったんだよねぇ。
あそこ、実業団スポーツの上位常連でしょ?
今年から始まったSVリーグの選手もいるでしょ?!
バレーボール、いまこっちでも熱いもんねぇ?!
私、あっちで選手だったのよ!
連れてって下さいよー。
や・ま・だ社長〜、聞いてる?」
矢継ぎ早に捲したてる光を放ったらかし、山田はU社で働いていた時のことを思い出していた。
「⋯⋯⋯。そうか。
そんな事もあったっけな」
筋トレマシンと珈琲の香りが、長く忘れていた「あの事件」を山田に思いださせた。
それは山田がこの会社を立ち上げるキッカケとなった事件だ。
久々にトレーニングマシンに寝転んで天井を眺めながら、20年以上経過した今も、「オレンジの封筒」の謎を抱えたままだったことを思い出した時だった。
不意に事務所入口のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー。はー、お腹すいたー!
あきらさーん。ただいま帰りました!!
おっ!珍しく社長がいる。
またサボってますな?
あっ、珈琲!あきらさん、私にも下さい!」
昼下がりの応接室がさらに賑やかになった。
夏海が潜伏調査中のクライアント企業から戻ってきた。
あの事件の「なっちゃん」こと、天童夏海は、いまこのオフィスで調査員として働いている。
あの事件の後、U社は様々な不祥事が噴出し、それに比例するように業績も落ち込んでいった。当時聞こえてきた噂では、あの事件と同様の問題がいろんな部署で発覚し、中には取引先と共謀を疑われるケースもあったという。
巨大グループの一角を担っていたU社にとって信用は他に代えがたい経営資産だった。
会社組織の深部まで蝕んだ病巣は深刻で、立て直そうとする瞳美の父親や大山田部長たちの努力も虚しく、失われた信用を取り戻す事はできなかった。
U社はグループの癌細胞として解体され、病巣を切除する様に管理職がリストラされた。残った社員たちは散り散りとなりグループ企業に吸収されて会社の暖簾は降ろされた。
そして、長い再生期間を経て、また駅前の繁華街を見下ろすあの丘にU社は再建された。残った者、離散し成功した者、失敗した者。いろんな話は入ってきた。仲間の葬儀に集った回数は途中から覚えていない。
ただそこには人生の悲喜交々があったことは間違いなかった。
企業再生を生業とするこの業界にあっても、あの謎の組織がその後どうなったのかは不自然なほど聞こえてこない。
夏海もその騒動の中、一足早く退社し、光とこの仕事を立ち上げていた俺のもとに転がり込んできたのだ。
「あ!そう言えば、社長に郵便ですって。
さっき入口でいつものイケメン配達員さんが渡してくれました。
はい、あきらさん、これ。」
夏海は肩から斜め掛けした大きめの白いバックから封筒の束を取り出した。
光は手早く淹れた珈琲とお茶請けのカステラを夏海に渡すと、かわりにそれを受け取った。
「なっちゃん、ありがと。
んー、請求書に、請求書に、請求書っと。
たまには私宛のファンレターでも来ないかしら、と。
あれ?なっちゃん、なにこの封筒?」
「あー、さっき入口で宅配の人が渡してくれたんですけど、社長宛みたいですよー。」
受け取った封筒をヒラヒラなびかせながら光が振り返ると、山田の表情を見て声をあげた。
「しゃ、社長?どうしました?
大丈夫?口から珈琲が溢れてるわよ!」
「あ、ああ。
あきら、それは、ひょっとしてオレンジ色の封筒か?」
「⋯⋯⋯。他に何色に見えるのかしら?」
そう言うと光は山田に封筒を手渡した。
封筒の裏側に差出人の名前はない。
光の入れた珈琲が、あの事件の給湯室に薫っていた珈琲と重なった。
永い刻を経て、山田の記憶の図書館の、返却棚に置かれたままの事件簿が開こうとしていた。