第19話「灯火」
『おまえは、また、あの後悔を繰り返すのか?』
サーバー室に封筒が届けられたあの日、なっちゃんが流した涙を見たときに、聞こえてきたこの問いかけの答えを追いかけここまで来た。
良き先輩社員だと思っていたゴンさんが、今、牙をむいて仲間を傷つけている。
そこには彼なりの正義があるのかもしれない。
全ては救えない。彼が経験した現実の中でそれはリアルだったのかもしれない。
でも。⋯⋯⋯でも。本当にそうなのか?
僕の中でずっと埋もれていた自分自身への問いが蘇った。
『この力は何の為にある?』
僕はゴンさんに、
こんな大人に屈するのだろうか?
あれから、何かに追い立てられるように鍛えてきた。
この力は、いったい何のためのものなんだ?
子供の姿をした自分が、僕を見上げて問うていた。
『大人になったおまえは ⋯⋯
家族に、今の自分を見せられるのか?
こんな大人に屈したと、
今日、家に帰って家族の前で言えるのか?』
そう、あれから、鍛えに鍛えた。
この肉体と知恵は、この力はいったい何のためにある?
家で待つ家族の笑顔が浮かんだ。
子供たちと囲む温かな食卓に、生家の食卓が重なった。
「ああ⋯⋯⋯ そうだ、
この力は護る闘いのためにある」
僕は⋯⋯ 俺は
俺はいま、あの後悔の答えを得た。
心の中の純粋な処で、
碧い勇気の灯火が灯った。
勝利を確信して立ち去ろうとするゴンさんの背中に向きなおり、小さく息を吐いて静かに告げる。
「残念です。ゴンさん」
俺は、胸ポケットから小さな「メモ用紙」を取り出した。
段取りにない振る舞いに、
涼介と正雄がキョトンとした顔をする。
『まだ言うか』と怪訝な顔で睨んでいるゴンさんを見据えて、そのメモを読み上げた。
「13時38分、通用門。
⋯⋯⋯。13時40分04秒、設計事務所入口、PC起動。起動画面の表示が遅い。隣に移動。」
『おまえは、いったい何を言っているんだ?』
眉をひそめて詰め寄るゴンさんに構わず続ける。
「13時42分12秒、庶務の長瀬美津子、PC起動。
13時44分37秒、最初に起動した渡辺瞳美のPCへ。
メールソフト起動。メールの中身はパスワードで見れない。他の席へ移動。」
ゴンさんの表情が一瞬ハッとしたものに変わり、声を荒げて掴みかかってきた。
『しのぶ、おまえ何言ってんだ!やめろ!
おい!てめえ!それをよこせ!やめろ!』
「メモ用紙」を奪い取ろうとする手を振り払い、住宅街に響き渡る声で続けた。
「13時48分43秒、天童夏海のPCを起動。メールソフトを立ち上げ、パスワードがかかっていないことを確認。メールの中身を物色。
13時50分33秒、長瀬美津子のメールソフトを開き中身を見たが、メールはすべて削除されていた。
13時51分23秒、天童夏海のメールをフロッピーディスクにコピー開始。1枚目のディスクをコピーしている間、自分の座席に移動。
13時53分44秒、自分のPCを起動、仕事のメールをチェック、その後⋯⋯⋯」
「メモ用紙」に書かれていたのは、5月2日の犯人の足跡と、犯行の正確な時間だった。
それまで勝ち誇っていたゴンさんの顔はみるみる青ざめ、膝をガクガクと震わせながら小さくなっていった。その様を横目に最後の言葉を言い放った。
「じゃあ、仕方ない。
あんたが犯人じゃないというなら、この証拠は警察に渡してストーカー事件として捜査してもらうしかない。
そうなれば、俺たちが保管している証拠品の指紋採取など警察にしかできない捜査もされて、犯人はすぐにわかるだろう。
残念だが、俺たちの出来ることはここまでだ。
「探偵ゴッコ」はもう終しまいだ。
疑って悪かったな。
じゃ、俺達はこれから警察に行くんで⋯⋯」
そう言ってその場を後にしようとすると、それまで震えていた彼は急に啖呵を切り始めた。
「しのぶ、おまえ、よく言ったな。
そんなことしたら、どうなるかわかってるんだろうな?」
「⋯⋯さあ、どうなるんですか。
教えて下さい先輩」
「生意気なクソガキだなぁ!!
半人前は目上の人間の言う事を聞いてりゃ良いんだよ!」
「仕事は半人前でも人格は一人分だ。
仕事と人格をごっちゃにすんな!バカ野郎!!」
「よく言ったな。その屁理屈がいつまで続くが見てやろうか」
そう言うと、ゴンさんは手に持っていた携帯をヒラヒラ見せると顎で俺達の背後を指した。
振り返るとそこには、住宅街に不自然な作業着姿の男達がゾロゾロと集まっていた。6人、8、10人はいるだろうか。指をパキパキ鳴らしながら取り囲んできた。
「はて、人格がどうとか言ってたが、
よく聞こえなかったなぁ。
もう一度言ってくれや」
「⋯⋯⋯ そう、ですか。これが答えって事なんですね?」
「減らず口が!!(バシッ)」
そう言うと、ゴンさんは近くにいた涼介の頬を殴った。
「っ、痛ってえな!!」
涼介は頬を抑えてゴンさんを睨みつけた。
「おー、半人前でも痛てえか?
だったらやり返してみろよ」
そう煽るゴンさんに向かって涼介はため息をついた。
「あーあ、これで正当防衛だな。
俺はもう知らねえからな」
「はあ?何言ってんだあ?!
頭おかしくなったんじゃねえか?
弱い奴はやられてもしょうがないんだよ、アホか」
ここぞとばかり煽るゴンさんに、俺はあえて感情のない言葉で返した。
「よくわかりました先輩――。
弱い奴が悪いんですよね――」
背中にジンジンくる熱量を感じながら、我慢の限界を迎えた男の鎖を解き放つ。
「正雄、そういう事だ。遠慮なく行くぞ!」
そう声をかけるやいなや、正雄は獣のような雄叫びを上げ、眼の前にいた男の顔を掴んで投げた。
ものの数分で勝敗は決していた。
ゴンさんの算段は多勢に無勢のはずだった。
普通ならそうだっただろう。
しかし正雄のそれは、喧嘩と呼ぶには圧倒的で、暴力と呼ぶには洗練されていた。
自衛隊で鍛え抜かれた殺生技は、街の愚連隊たちをほぼ一撃で戦意喪失させていた。戦闘のプロとして訓練された格闘マシンが解き放たれればどうなるか、常人に想像出来ないのは仕方ないことだった。
「嗚呼、俺は毎日こんなのと闘っているのか」
正雄に急所を撃ち抜かれ動けなくなっていく男達を見ながら、目の前で手足を振り回して殴りかかってくる男たちに溜め息をついた。
「正雄に比べたら、おまえら、遅せえよ」
結局、正雄が7人、俺が3人の男を退けた。
ひと仕事した感覚で辺りを見回すと、駐車場の入口から大きな人影が入ってくるのが見えた。
物凄い威圧感だった。
ひと目でわかった。こいつは強い。
「おまえら、やるなぁ。
体育館に来ている奴らだよな?
部の連中から話は聞いている。
こいつらだって、そんなに弱くはないぞ?」
大男は呆れたように笑いながら、俺たちを見下ろした。
「さて、どうしたもんかな。
こういう展開は初めてでな。
続きをやってもいいが、これ以上騒ぐと通報されちまう。
どうだ?ここらで互いに引くってのは。
こっちも好きでやってる訳じゃねえしな」
そう言うと正雄を二回り大きくした熊のような男は、腹を抱えて悶絶している男達を起こして回った。
彼の顔は知っていた。
あまたる実業団スポーツを席巻するこの会社にあって、最強と言われている野球部の主将、井ノ原だ。
実物を間近で見るのは初めてだったが、体力自慢の荒くれたちをまとめる彼の噂は同僚から聞いていた。物静かな語り口だが地中から響いてくるような重低音の声は、その強さを代弁しているようだった。
直感が無意識に身体を強張らせた。
彼がこの件にどう関わっているかはわからないが、やるとなったら相応の覚悟がいるだろう。
正雄と二人、井ノ原が男達を引き起こしているのをただ見守っていた。
最後の一人を立ち上がらせた井ノ原はこちらに振り向くと、「またな」と小さな声で言うと楽しそうに笑いながら駐車場を出て行った。
「ぶっ、ぶはああぁ――!!」
俺は緊張で止まっていた息を大きく吐いた。
正雄を振り返ると――!?
井ノ原に、手を振っている?
「え?! ええ――?!
ま、正雄、知り合いなのか?!」
「あ――、まあ。悪い人ではない。すごく強い。
一回闘ってみたかったけど、残念」
「えーー。ええーーー。。」
俺は、大きくため息をついた。
「覚えてやがれ!!」という昭和の捨て台詞は聞けなかったのは残念だったが、現実はこんなものなのかもしれない。
気を取り直してゴンさんに振り返ると、彼の姿は消えていた。
また逃がしたか!?と慌てて辺りを見回すと、脇で見ていた涼介が地面を指差してニヤニヤしていた。
足元を見ると、ゴンさんは駐車場の砂利敷きに突っ伏すように崩れ込んでいた。
「もお、もういい!
わかった!わかったから!
申し訳ありませんでした。俺がやりました。
すみません!すみませんでした!!」
ゴンさんはその日、二度目の「自白」をすると、腰が抜けたようにしゃがみこんでいた。
あーあ、土下座はちょっと、と引き起こそうとした刹那、彼の体が一瞬フワリと宙に浮き上がったように見えた。
正雄がゴンさんの襟首をつかんで宙に投げ上げたのだ。
(グォ゙ォォ――!!)
今まで聞いたことがない重い風切り音をたてて、正雄のデカイ拳が今まさにゴンさんを吹き飛ばそうとする刹那、俺はかろうじて身体を滑り込ませて叫んだ。
「まて!まて!!待て!
正雄! まだ殺すなー!!」
とっさに口をついた黒ジョークのつもりだったが、「あのパンチ」を食らったら本当に死ぬかもしれないなと思い、少し可笑しくなった。
そしてまだ鼻息荒い正雄が羽交い締めするゴンさんに歩み寄り、俺は彼の肩をポンポンと叩いた後、犯人しか正解を知らない犯行を綴った「メモ用紙」を手渡した。
ゴンさんは、メモを一見するとその場にヘタリ込んで力なくうなだれた。
それを見ていた涼介が、ゴンさんの手から「メモ用紙」を引ったくると、怪訝な顔でこちらを見たあと、声をあげて笑った。
「メモ用紙」は白紙だった。
いや、さっきまで確かに読み取れた犯行記録はもうメモ用紙から消えていた。たぶんあれは俺にだけ見える、頭の中にある文字が白紙のメモ用紙に浮かび上がったものだったのだろう。極限状態で行ったデータ分析は、本当に犯人の足跡を俺の目に刻みつけていた。
こうして長く苦しい三日間は終焉を迎え、なっちゃんの涙になんとか応えられたことに安堵していた。
辺りはもう日が暮れようとしていた。住宅街の隙間から見える山肌に映る夕日が、やけに綺麗だった。
ひょっとしたらお袋は、幼い俺に護る者のために闘える男になれ、と言いたかったのかなと、久しぶりに見る、真っ赤な夕焼けを懐かしい気持ちで眺めていた。
あの時、アリスを救わなかった少年の自分にこう言ってやりたかった。
誰かが決めた「正しい」とか「正しくない」とか、そんな事はどうでもいい。
自分はどうしたいのか?
自分で見て、自分で考えて、自分を信じて闘え。
大丈夫。答えはいつだってお前の中にある。
お前を育ててくれた人たちは、ちゃんとおまえに教えてくれている。
だから自分を信じて闘え。
おまえの力はその為にあるのだ、と。
その時、心がフッと軽くなった気がした。
あの日の少年の自分が、笑っているような気がした。