触れてはならぬ竜の逆鱗に触れし者 中編
ふむ、セバスの報告を受け、何の連絡もなく皇族の馬車が公国へと無断に侵入していると聞いて、嫌な予感がしたために我が子らを迎えにきたが、この状況からして予感は当たってしまったという事か。
「もう一度聞く。ユトシス皇太子殿下、この状況は一体どういうことか?メイドの衣服が切り裂かれていること、我が息子があのように理性を無くしている獣に堕ちていること。そして何よりも、殿下の握っている宝剣の切っ先に我が娘レイラの衣服の切れ端が残っているこ・・・、むっ!」
と、ユトシス皇太子に聞きただそうとした時、全身をめぐる死の直感がグスタフ公爵の体を動かし、ユトシス皇太子の所まで瞬時に移動すると同時に首根っこを掴んだまま目にも止まらぬ速さでその場から跳躍して距離を取る。
刹那、先ほどまでユトシス皇太子がいた場所に無数の黒い球体が出現したかと思えば1秒も立たずして消え、黒い球体が触れていた部分、地面なども円形状に抉れていた。
危機を脱したかと思ったが未だに全身に巡る死の直感が収まらず、自分たちの動きを捉えさせぬために全力で回避行動を取る。
決まって回避行動を取った直後にユトシス皇太子がいた所に先ほどの球体が現れては消えていた。
一度、あの黒い球体が先回りして出現し、咄嗟に剣を振るおうとしたが自分自身にまで死の直感が及ぼしたため、黒い球体は全力で回避に徹底することにした。
故に、グスタフ公爵にとっては何の問題もない超人離れした回避行動を取る事にはなったが、ユトシス皇太子にとってはまるで線路が複雑になっているトロッコに無理やり乗せられ、複雑な道を高速で走らされているかのような気分だった。
「ぐ、ぐるぢい・・・!」
「我慢しろ、クソガキが。」
「く、クソガ・・・!?」
狙いは全てこのユトシス皇太子で我への敵意は全くない。
というよりも、この黒い球体は我を裂けて出現している様にも見える。
理性を失っているとはいえ、誰が誰なのか認識できるほどの冷静さはあると見える。
「今このクズを殺せば、我が娘レイラがより危険な目に合うことになる。だからこの人間の屑を殺そうとするのは止めて耐えろ」
「く、くずぅ・・・・?しかも2回もこの俺をクズだぐえぇっ・・・!?」
グスタフ公爵は地面に着地しながら大人しくするために首根っこを掴んでいたユトシス皇太子を強めに地面へ叩き付ける。
”レイラ”という言葉を聞いて、ぴたりと黒い球体が出現しなくなった。
あの死体の惨状からして、あの黒い球体と重なった部位がそのまま球体と共に消えるのだろう。
何の能力かはわからないが、抉られた地面、不自然な形をした剣や丸く切り取られた鎧を見れば、あの黒い球体は重なった部分を問答無用に消し去る力・・・。
防御も無意味だろう。
「何があったのか、先ほどの状況を見れば大体察しは付く。我が娘にこのゴミが何かしでかしたのであろう。だが、先も申したが今は耐えろ、ヨスミ。」
「よ、ヨスミ・・・だと・・・?あの穢れぐええっ?!」
突然掴んでいた首根っこが苦しくなり、服で首が強く締められる。
「命が惜しくば黙っていろ、ゴミカスが・・・。」
「ひっ・・・?!」
低い声と共に威圧され、これ以上何も言えなくなったユトシス皇太子だったが、ふと気が付けば先ほど吹き飛ばされていたはずのヨスミがそこに立っていた。
「あなた・・・、っ!?」
とレイラが急いでヨスミへと駆け寄ろうとしたが、足が突然動かなくなる。
何かされたのではないかと思ったが、それは違う。
今のヨスミから漂うこの雰囲気をレイラは知っている。
つい先刻味わったばかりだからだ。
だが、それとは明らかに違う。
あの時には感じられなかった、相手を殺す本物の殺気が込められているからだ。
あの時は、【瘴気に飲まれた竜樹根】の境遇を憂い、嘆き、そうした者への狂気にも近い怒りと憎しみ、そして殺意という様々な負の感情が混ざり合っていた。
だが今回は違う。
あれは、ただ純粋なる殺意だけが込められていた。
それも何倍にも、何十倍にも、何千倍にも込められていた・・・。
あの量は、簡単に人の理性というものを消し飛ばすには十分なほどまでに・・・。
今、目の前に居るヨスミは、ただ相手を殺すためだけに存在する化け物へと変わっていた。
そんな感情しか流れてこない相手を前に、レイラは足が止まってしまったのだ。
あの殺意がこっちに向けられれば、ひとたまりもない。
簡単に人の精神を壊してしまいかねないほどの、人を壊す瞳を宿していた。
「ここからお逃げください、レイラお嬢様・・・っ!!」
「は、ハル、ネ・・?!」
突如、レイラを庇う様にハルネが前に出てくる。
だがその体は恐怖に怯えているかのように震えていた。
「私はヨスミ様と同じ目に似た者を知っています。彼らは凶悪な殺人者で、殺された者が殺人者に取り込まれ、己の持つ憎悪を持って殺人者の精神を蝕み、理性を、心を破壊してしまいます。そうして殺人者の瞳には殺された者の持つ感情のみだけが映し出されると・・・。ですがあれは・・・あの瞳の奥に感じられる底の見えない憎悪は私も知りません・・・っ」
「じゃああの人は恨みを買うほどの殺人を犯してきたとでも言いますの・・・!?」
「わ、わかりません・・・。ですが、ヨスミ様は記憶がないと仰っておりました。もしかしたらその時に何かあったのかもしれません。それに、あれは・・・一体どれほどの人を殺め続ければあんな化けも・・・」
「やめてっ・・・!!」
そこでハルネが自ら口に出そうとしていた言葉が何なのかを悟り、奥歯を噛みしめる。
「あの人の過去に何があったのかなんてわたくしも知らないわ・・・。でも、これだけはわかる。あの人は好きでああなったのではないということを!」
「・・・ッ」
初めて出会ったあの日、あのルビーのような赤い瞳と目が合ったあの時、あの瞳の奥に眠る深淵には気づいていた。
でもその中にたった一つの想いが、願いが込められていると分かった。
かつてこの人が愛した一人の存在が、あの人を人としてあるための最期の楔としてそこにいると知っていた。
姿も見えないし、名前だって知らないその人からは悲しみと後悔・・・そして、責任の感情が感じられた。
そしてわたくしはあんな人をこんなにも愛せる彼女に対して初めて人生で嫉妬した。
かつて魔王の瞳は血のような真紅色だったという。
故に、赤い瞳は魔王の目と蔑まれ、世界から嫌われていた。
ヴァレンタイン公国では無数の国と交流を持っているためか、そういった偏見は少ない。
でも人間至上主義な感情を持つ皇国では、差別の対象だ。
ユトシス皇太子がヨスミに対してああいった態度を取った理由の一つでもある。
でも、わたくしにはそんなの関係ない。
先ほどあの場所で誓ったはずでしょう? レイラ・フォン・ヴァレンタイン。
あなたは守ると誓った相手があのような存在になったからといって、恐怖で足がすくむほどの軽い感情しか持っていない薄情者だったのかしら?
決めたはず、あの人と隣に立って共に歩んでいくと。
―――この人を、お願いね・・・。
あの時、確かに聞こえた澄んだ声がレイラの複雑に絡まった感情を紐解き、背中を押されたような気がした。
「ああ、もう!これじゃあわたくしの負けではありませんの!」
「れ、レイラお嬢様・・・?」
「まさか背中まで押されるとは思いませんでしたわ。ですが見ていなさい、名も知らぬわたくしの恋敵様!わたくしがあの人の心の中で一番の存在となり、楔となってあの人を人として心から支えていきますわ!あの人の心に巣食う深淵なんてへでもない事を、天より指を咥えて眺めてなさいな!」
誰かにそう叫び、もちろん返事なんて帰ってこない。
だが、風がレイラの頬を吹き抜け、葉がこすれた音が何故かレイラにとって耳に残る音として聞こえた。
それで十分だった。
レイラはヨスミに被せられたであろう長羽織を着ると、ヨスミの方を向き直る。
「レイラちゃんだけだと力不足よ。私も協力するわ。」
気が付くとレイラの横にフィリオラが立っていた。
「本来ならばわたくしだけで十分ですわ。でも、あの人の背に見える幻影を確実に断ち切るためにはその方がいいですわね。何か手立てはありますの?」
「いい?ヨスミの力は転移、ありとあらゆるものを転移させる力よ。以前なら、意識して部位だけを狙って転移させるなんて馬鹿げたことをしてたけど、今はどうやらその空間のみを転移させることしかできないみたいね。」
「空間・・・、あの黒い球体ってことかしら?」
「ええ、あれが今のヨスミが出来る精いっぱいの攻撃よ。多分、あの人を支配している感情はそれぐらいしかできないわけね。転移させる対象が<対象>じゃなくて<空間>であるならば、回避のしようがあるわ。今は自分に攻撃の感情が向けられていないから私たちに攻撃することはないでしょうけど、ヨスミを気絶させようと動けば少なからず、あの殺意はこっちにも向くでしょうね。」
「それがどうだと言いますの。あの人の全てを受け入れてこそ、わたくしは”良き妻”になれるのですわ。あの程度のことで怯んでいる暇なんてありませんの!」
そう言い放つレイラの瞳には一切の曇りはなかった。
「うふふ、その通りよ。だからこれだけは言っておくわ。あの人のために、攻撃は絶対に当たってはダメよ。」
「そんなの分かり切っておりますわ!」
「ならば、私もお手伝い致します。」
とハルネも武器を構えてレイラの横に立つ。
「ならば、ハルネ。我と共に息子の気を引き、レイラと竜母様であやつを気絶させよ。」
「わかりました。」
「お願いします、お父様・・・!それに、ハルネも!」
「・・・お任せください。!」
「レイラよ、彼奴を気絶させた後、あの深淵の中から彼奴を救いあげるのはお前しかおらぬ。気絶させた後が大事だ。」
「・・・はいですわっ!」
「この作戦は、[ユトシス皇太子を生存]させ、また[我らに一切の怪我もない]まま、[ヨスミを気絶させる]こと、その後[レイラがヨスミの精神を浄化すること]が勝利するための絶対条件であると心得よ!ゆくぞっ!」
グスタフの掛け声と共に、レイラたちは一斉に動き始めた。