春の炎
「宮下、飲みに行こうぜ」
また飲みの誘い。宮下はうんざりした。
嫌気がさすような乾燥した空気。いい加減桜の開花が発表されてもおかしくない気温になっても未だ桜の蕾は閉じたままだ。毎年春になると会社前の並木通りは桜が咲き、文字通り会社への花道になるのだが、残業を終えて帰ろうとする夜になるとどこか暗澹としている。
そして、週末ともなるとこうして会社の仲間に飲みに誘われる。
「すまん。オレはパスで」
宮下はいつもの決まり文句を言ってその場を去った。
いくら週末とはいえ気を緩めてはいけない。
早く帰って翌朝は勉強をしなくては。会社の年度末に昇進試験と面談がある。それに向けてのラストスパート。次の年度はもう目前まで迫っている。そして何よりお酒は身体に良くない。
もっと。もっとだ。宮下は思った。もっと自分を追い込んで、周りに負けないようにできる限りのことをして成功を収めよう。そう野心に燃えている。いわゆるストイックな生活を自分に課していた。毎回のように飲みの誘いを断り、食事に気をつけ、仕事終わりや休みの日はジムに通って汗を流す。そのほかの時間もダラダラ過ごすということがなく、今ならば会社の昇進試験の勉強、空いた時間は読書をしている。
何がこの宮下という男をそこまで追い立てるのか。それは常に男の脳裏にある過去の記憶の反動によるものだった。宮下は咳き込んだ。嫌な乾燥だ。喉も少し痛い。帰って早く寝なくては。宮下は足早に帰路に着いた。
翌朝、宮下は日課の朝のウォーキングと瞑想の後、軽い朝食を済ませてブラックコーヒーを飲みながらネットニュースに目を通していた。経済ニュースから、政治、天気の情報や事件まで。ここ最近の空気の乾燥で火事も増えているらしい。
宮下はソファーに腰掛けながら、先日遠方に嫁いでいる姉からの連絡を思い出していた。
「お母さんこの間うっかり料理焦がしちゃって、ボヤとまではいかなかったけど、最近火事も多いでしょ?お母さんももう歳だからさ、一度家の様子見てきてくれない」電話口からそう姉が喋っていたことを反芻していた。もうしばらく実家に帰っていない。父が他界して母が実家に1人にいるようになってから久しい。決して遠い距離ではない。会社のビルの高層階から実家のおおよその位置が見える。もっと言えば近いくらいなのだ。宮下も同じ市内に1人でアパートに暮らしているのだから。なぜ実家への足が遠のくのか。それは実家にいた頃厳しく育てられた反動だ。実家にいると何かと干渉されることに嫌気が刺した。過去の記憶が蘇ってきそうになると、宮下はそれを振り払うように頭を振って自分の部屋を見渡した。そこには自分のお金で稼いで買ったこだわり抜いた家具や、調理器具が並んでいた。
まさしく自分の城。誰とも違う厳しい道を選んで自立したからこそ得られた豊かさ。それが自負心となっている。年度末の仕事と昇進試験が落ち着いてから一度実家に帰ろう。それでも遅くはない。宮下はそう思った。
また月曜日が来た。会社のチームはとにかく働いた。もちろん宮下も例外ではない。取引先に向かう途中、近道をしようと河川沿いにある道を歩く。
「あいたたたた。兄ちゃんちょっと助けてくれないか」
手に釣竿を持った老人が地面に座り込んでいた。釣りをしている時にどうやら転んでしまい、足をどうにかしたようだ。
宮下は葛藤した。この忙しい時期の取引先に向かう途中。しかし、見て見ぬ振りはできない。困った人がいたら助けてあげなさい。それがいつか自分に返ってくるから。頭にその言葉がよぎった。どこで聞いた言葉であったか思い出せない。いつぞや読んだ本に書いてあったか。ほんの数秒躊躇ったのち宮下は決断した。
「いやー、助かったよ。兄ちゃんありがとう」
釣り人と宮下の2人は病院にいた。結局宮下は取引先に事情を話して、釣り人を病院まで連れ添った。軽い捻挫だったようだ。
「あとは家の者に連絡して迎えにきてもらうよ。いや、なんとお礼をしたらいいものか。名前はなんて言うんだね」
「名乗るほどの者じゃないので」
しかし釣り人はしつこく聞いてくるので根負けして答えた。
「宮下治です」
「そうか。宮下治くんか」覚えておくよ。
釣り人はそう言った。宮下はそれよりも大幅に遅れた予定を取り戻さねばとすぐその場を去って仕事に戻った。
その日の会社内の会議は紛糾した。しかし、宮下は持ち前の自負心を持ってチームを引っ張っていこうと皆に檄を飛ばす。もっと、もっと高みを目指して。そう思ってチームの同僚や後輩への指示にも気合いが入る。季節の乾燥とはまた違う、会社内には殺伐とした、喉が渇くような空気が蔓延していた。
ある仕事の途中宮下は上司から呼び出された。2人だけの会議室。上司は重たい口を開いた。
「宮下くん。君のことなんだが…」
そこからの記憶はあまりない。宮下は例の河川沿いを歩いていた。前回釣り人を助けたことで、到着するのが遅れた取引先へ向かう。謝りにいくのだ。後からわかったのだが、やはり取引先への訪問が遅れて向こうもかなり仕事が遅れた。そのことで苦言を会社に伝えていたのだ。その出来事に加えて、最近の宮下は1人上昇志向が強く。チームを引っ張っていこうとするが、その厳しさにチームの同僚や後輩がついていけないという相談を受けていると上司が伝えてくれた。
宮下は頭が真っ白だった。良かれと思っていたことが全て裏目に出た。
そして、宮下は先日の釣り人を思い出す。
ムラムラと憎しみに近い怒りのような感情が湧いてくる。もしここであの釣り人と出会わなかったらこうして取引先に謝りに行かずに済んだ。困った人がいたら助けなさい。いつか自分に返ってくるから。誰だそんなことを言ったのは、こんな形で返ってきたじゃないか。そこまで思いを巡らして宮下はハッとした。なんてことを考えてるんだ。宮下は強い罪悪感にかられてひどく落ち込んだ。
その日の帰り珍しく雨が降った。乾燥した空気がみるみる潤っていく。自分の城であるアパートに帰るのが惨めでどうしようか考えていたら、ちょうど実家の近くに来ており、姉からの連絡の件もあったので顔だけ出そうとふらっと寄った。
「おかえり。治」
家に入ると変わらない母の声。変わっていた事は台所のコンロが焦げ付いている。
家の雰囲気は相変わらずだ。自分が今住んでいるアパートに比べるとずいぶんと古い。
と同時に過去に厳しく両親に育てられた思い出が蘇る。学生の時は早く社会人なって家を出たいと思ったものだ。仕事をして、自分のことは自分でなんでもする。しっかりと自立することが大切で、誰にも干渉されることはないのだ。
母親としばらく話して、火事には気をつけるようにと伝えておいた。
喋り終わると喉が渇いた。自分の水筒を見ると空だった。
「お茶…」
宮下は思わずその言葉がこぼれ出た。散々な日の仕事帰りで疲れていて気が抜けたからだろうか。
その言葉を聞いた母親は「お茶ね」とだけ言って息子のためにお茶を淹れた。
ただそれだけの事なのに宮下は何故か泣きそうになった。よっぽど疲れているのか。いや、それだけではない。過去の記憶、人に干渉されることへの恐れに固執して忘れていたこと。自分1人でずっと何もかもやってきたと自負心を持ち思い上がっていたことに気づいたのだ。確かに実家の両親は厳しく干渉的であったが、それは裏を返せば愛情でもあった。自分が困った時に無償で手を差し伸べてくれる人がいる。完全な自立とは無理なのだ。必ず人は助け合っていかないと生きていけない。帰るところがあるから人はどこでも頑張れる。人にお茶を淹れてもらうのがこんなに当たり前じゃないなんて。母親の淹れたお茶を飲むと心まで潤ったようだった。
「治の昇進試験が終わったらご馳走を作るから食べにおいで」母親はそう言った。「ありがとう」宮下は久しぶりにありがとうと誰かに言った気がした。
宮下は自分なりに仕事のスタイルを変えた。仲間の気持ちを汲みながら、頼るところは頼って仕事を進めていく。会社は相変わらず忙しかったが前ほどピリピリとしていなかった。「ありがとう」「助かったよ」という言葉がちらほらと職場で飛び交う。宮下の微妙な変化を見ていた上司も満足げな表情であった。ニュースによると桜の蕾がほころび始めているらしい。
そしてとうとう昇進試験の日がやってきて筆記試験を終えた。手応えは充分だった。今まで頑張ってきた甲斐があったと言うものだ。その日の朝母親から仕事が終わったら実家で食事をしようと改めて連絡が来ていた。残すところ会社役員との面談だ。本社からも重役が来ているらしい。
上司から最近の宮下なら大丈夫だと背中を押してくれた。もうすぐ順番が回ってくる。
宮下はふと会社の窓から外を見た。消防車と救急車のサイレンの音がしたからだ。高いところからだとどこから火事の煙が出ているかがよくわかる。その方向を見たとき宮下は心臓が止まる思いがした。実家の方から煙が出ている。
「次の人どうぞ」
宮下の昇進面談の順番が回ってきたが、宮下はそこにいなかった。
タクシーを降りて宮下は走った。そこの角を曲がると実家だ。焦りがピークに達する。消防車と救急車が近くにある。角を曲がると人混みに紛れて母親が燃えている家を見て立っていた。燃えていたのは実家近くの近所の家だった。
「お母さん、大丈夫?」宮下が声をかける。
「私は大丈夫よ。それよりもご近所さんだから何か助けてあげないと」
宮下はその時思い出したのだ。困った時に人を助けなさい。それはいつか自分に返ってくるから。それは母親が昔から宮下に言ってきたことであった。
さらにそう遠くない所で消防車が走る音が聞こえた。
今日はよく火事が起きるな。宮下はそう思った。電話の着信が鳴る。
自分の住んでいるアパートが燃えているとの連絡だった。
新年度になって宮下は実家近くの古いアパートに引っ越した。自分の城であるアパートが燃える光景は今でも目に焼き付いている。その時宮下は泣いていた。悲しいからではなかった。なぜか安心感からであった。もう過去に囚われて孤独になることなく、今人と助け合うことが大切だと気づけたからだ。アパートはまるで今までの自分のエゴを燃やすかのようによく燃えた。火事の後母親はもちろん、会社の人も色々と宮下の世話をしてくれた。「宮下、飲みに行こう」「ああ、飲みに行こう」宮下は飲みの席に顔を出すようになった。
宮下はあの後会社に事情を説明すると、昇進面談を受けさせてもらえた。そして、無事昇進することができたのだ。
なんでも会社で1番偉い人物が特例で昇進面談を受けられるよう便宜を図ってくれたそうだ。理由は不明だが、その会社で1番偉い人物の正体も不明だ。後で聞いた唯一の情報がとにかく釣りが好きな人らしい。「まさかな」と宮下は思った。
昇進して初の出社。宮下は会社に向かう並木道を歩いていった。
桜の開花は満開。晴れた春空の桜の花道を歩いて行くのであった。
春は始まりの季節。人との繋がりを大切にすれば必ず今年も乗り切れる。そう思った。
〜終わり〜