わが社にチンパンジーが派遣された
「え?」
「ん? そこの君。何かね」
奴を紹介した上司のいやに弾んだ声。それが沈むと静まり返ったオフィス内。おれがつい漏らした声を拾うのは容易かったらしく、上司にそう聞き返されてしまった。
「いえ、な、と」
なんでもないです……。そう言おうとしたおれを隣にいた同僚が肘でおれを小突いた。『こうなったら言ってやれ』の意味だ。
みんなの視線が集まる中、おれは仕方なしに上司に向かって言った。
「あ、あの、チンパンジーですか……?」
「そう、見たそのまま! 今話した通り本社から派遣された、今日からこの職場で働く我々の仲間、チンパンジーのチパくんだ! さあ、みんな拍手! ……と何かね」
「いや、あの、最新型のロボットが派遣されたのならまだわかるのですが、え? チンパンジーですか? は?」
「んんん? 不満そうだな。まあいい。説明してやろう。まあ、そうはいってもみんな察しているだろうが当然、彼はただのチンパンジーではない。遺伝子改良し、知能を飛躍的に高めることに成功した個体なのだ。まあ、詳しくは私も聞かされてないが、そういった研究をしている機関があるのだよ。政府もからんでいるな。これはいわば社会実験だな。上手く行けばあらゆる業種、分野で活躍するようになるわけだ」
「そ、そのテストに我が社が選ばれたのはわかるのですが……」
「なんだね? 文句でもあるのかね?」
「あ、い、いえ……」
それ以上は何もを言っても無駄だろうとおれは思った。……いや、勘ぐられ、本心をズバリ当てられることを恐れたのだ。チンパンジーに取って代わられるのではないか、ということを……。
「チ、チ、チ、チンパンジー!? はははははははっ! じゃ、じゃあお前、い、いずれチンパンジーに職場を追い出されるの!? 最新型のロボットならまだしも、ふふふ、ははははははっ!」
あの日からちょうど一月後の夜。おれは飲み屋で友人にこの件を話しことを即、後悔した。
友人は気が触れたように笑い続けるとそれらしく咳払いし言った。
「いやぁ、笑ったよ。ホント、心の底からさぁ。いつぶりかなぁ。ははははっ」
「嫌な心だな。金払って矯正した方がいいぞ。じゃないともう少しで手が出るところだった」
「ははは、冗談冗談。それで、もう一月経ったんだろ? どうなんだ? お前のところは財務経理の委託やってんだろ?」
「ああ……問題ないよ」
それどころか目を見張る仕事振りであった。奴らは業務用のコンピューターと脳をケーブルで接続し迅速かつ正確に仕事を切り回していた。
「ふうん。じゃあ、他の奴らと変わりないのか」
それ以上だ。と、認めたくなかったおれは口をつぐんだ。しかし上司は、本社は違う。
先週、新たに二体のチンパンジーが送り込まれた。席は空いていなかった。だから二名、能率が悪い社員が会社から去っていった。古株だろうが関係ない。それは仕方のないことだ。この社会は実力主義なのだから。
「ま、それが時代の流れなのかもなぁ。あーぁ、これも味が薄いなぁ……」
そう言い、友人は空になったグラスをチラつく電球の下に掲げた。二人で一本の瓶を割り勘の上におれよりも飲んでいるくせにと皮肉を言う気にもなれなかった。明日への活力。おれは自分のグラスを飲み干し、ため息を吐いた。
「……チンパンジーもため息ついてみせるのかな。どうなんだ? 苦い顔したりさ、それともずっとニコニコしてるのか?」
「いや、おれの知る限りじゃ、奴ら常に無表情だよ」
「じゃあ、そう作られたんだろうなぁ。何も余計なこと考えず仕事に、命令に忠実なんだろうなぁ」
「ああ……おれらもこんな感情ならいらなかったのにな」
おれたちは顔を見合わせ、小さく笑った。
その後もチンパンジーの活躍は衰えることなく凄まじいものであった。
最新のロボットを作るよりはコストが安いのだろう、奴らはどんどんこの社会に導入された。
それに伴い、街には奴らが移動しやすいよう至る所にポールが設けられ、奴らはジャングル、木から木へと移動するように俊敏に動いた。
社会は活気を取り戻したと言われている。だが、おれにはわかる。いずれ誰かがこう言い出すはずだ。彼らにもっと権利を。感情を。愛を。
その通りになり、そして増長した奴らチンパンジーは団結し、人権を求め自ら声を上げるだろう。そして、それは認められる。
みんな、わかっているはずだ。歴史は繰り返すのだから。
技術が進歩するも資源が枯渇し、停滞する国、世界。それでも取り憑かれたように先へ先へと進もうとするのは誰の囁きか。神の指示か、あるいは怨念か。
何のため、誰のため。もっともっとと手を伸ばし、そして先細りの未来へ向かうのは、さだめなのか。
「よう……来たな」
「あ、おう……そうか、お前もここにいたのか……」
「ああ、ずっとな。と、言ってもいつ来たか忘れたけどな」
「そうか……お前のところにもチンパンジーが来たんだな」
おれがそう訊ねると友人は頭を垂れ、黙った。
おれは少し離れた位置に腰を下ろし、空を見上げた。
――鳥、いや違う。
その時、顔に影がかかり、おれは咄嗟に顔を逸らした。
この路地に引かれた一本の光の道に一瞬だけまた影がかかる。頭上を軽快に通過する奴ら、チンパンジーのものだ。
奴らはこちらのことを気にも留めてないことはわかっている。そう、こちらのことなど。
おれは辺りを見回す。
蹲り、ただ死を待つ同胞。ロボットたちの姿を、かつて大昔におれがそこの大通りからこの路地を覗き、目にした人間の姿と重ね、おれもまた絶望したように頭を垂れた。
……ああ、人間は偉大な発明家だった。
おれはこの姿勢がどこか楽だと知り、そう思った。