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幸せですか?

作者: 木下真三郎

新年早々、クソみたいなテーマで失礼します。

 前回の部で書き損ねた気付きについて書いていこうかと思います。


 幸せとは何でしょうか?


 突然の抽象的な質問ですが、こういう問いかけ、疑問というのは、世界の人の数だけあるのではないでしょうか。少なくとも、文明と科学が生まれたその時から存在し続けた問いかけであることは間違いなさそうです。


 というのも、「神とは」、「生きる意味」、「死んだらどうなる」などといった、その他の哲学の根源的な問題と密接に通ずるところが「幸福」と言う二文字に含まれているからです。


……と、ここまで偉そうに書いてきた僕は、この道に関して素人です。あくまで個人の見解だということを前提に読んでもらえると助かります。


 いきなりですが、少し踏み込んだ内容を例に挙げましょうか。不快に思った人がいたらすみません。


 生まれつき盲ろうで、目も見えなければ耳も聞こえない。身体も弱いという境遇の人と、生まれつき強靭な肉体を持ち合わせた人。


 それぞれの人が、同じような境遇ばかりの人の集団で生まれたとしましょう。私達にとって少数派(マイノリティ)である彼らの特徴は、彼らにとっては「普通」でしかなくなります。僻んだり、僻まれたり、憐憫をかけたり、かけられたり、といったことは起こり得ません。


 当然ですが、現実はそうではありません。そうした特徴を持つ人は確かに“少数派”です。ですがもっと言えば、そこまで分かりやすい違いでなくても、人間一人一人は遺伝子的に多様(・・)で、またそれぞれを取り巻く環境も、取り返しがつかないほどに、救いがない程に多様(・・)なのです。


 そして、その中に置かれた、社会的存在たる“ヒト”は必然的に自他を比べることになります。その結果、何を生むでしょうか。


 比べる、と言っても、その人個人の他者と比べる「要素」は無数にあります。頭の良さ、スポーツの出来、顔、身長、性格、財産、経験……、爪の固さ、誕生日、首の長さ、サーモンの好き嫌い。


 だから人間は、少なくとも日本、僕の生きてきた社会では、それらの無数の要素を“ひとつ”にまとめて、総合的に比べてしまうのです。誰に教わったのでもなく、いつから始まったのでもなく。


 「合理性」。或いは、「可能性」、「利便性」、「生産性」といったもの。


 要するに、現在或いは将来、どれだけ多くのことができる(・・・)か、どれだけたくさんの人に、どれだけ良く評価される(・・・・・)か。


 先の例を全くの忖度抜きに考慮してしまえば、前者は淘汰され、後者はヨイショヨイショされることは想像に容易いでしょう。もっとも、多様性が表面上「尊重」される今の社会では、この限りではないかもしれませんが。


 つまり何が言いたいかというと、今の人の「幸せ」は、「他者」に依存しているのではないか、という疑問です。


 本来、それぞれの個人に同じだけ「幸せ」になる権利、能力は与えられている、というかヒトという動物一匹の視点ではそうなる筈なのに、「ありのままの自分」を、「合理性」という杓子定規で計ろうとするから、歪んで見える。自分は恵まれていないと、或いは恵まれていると錯覚する。人の親が、自分の子に「頭の良さ」「スポーツの出来」等々を求めるのも、そういうことが根源にあるのだと思います。


 現に、その「合理性」に基づいた「利潤」に与れる社会の仕組みだからこそ、余計に「合理性」重視の気風が浸透してしまう現実があります。結果、「頭が良い」「足が速い」「小顔」「高身長」「優しい」「金持ち」「社会経験がある」……、(後ろの4つは、『合理性』とは一般に関連が薄い)、というのが一般的に「良い」とされてしまいがちになってしまう。広く、“自然界”の視点で見れば、どれも“多様性”の一つで、善悪長短を決められないというのに。


 それらの評価(・・)――その人を「合理性」の視点から見た結果――は、確かに「幸福度」を左右し得ます。でも、評価≠幸福度であるということは、先に挙げたシビアな例から分かると思います。





******


 本題に戻ります。「幸福」についてです。


 生まれたばかりの状態を基準ゼロとして、生きていく中で人間の“幸福”の量は変動します。原始人も平安人も現代人も同じように“幸福”を感じたでしょうし、“不幸”も勿論感じたでしょう。


 技術の発展と共に現代人の方が“幸せ”になったか、と聞かれると少し疑問が残ります。“現代人の苦労”を、原始人や平安人は感じたことがないでしょうが、当時の飢饉の苦しみを私達現代人が感じることはないでしょう。どれが“幸せ”か、というのは一概に言えないような気がするのです。


 僕が思うに、「幸福」というのは本来相対的で平等なものです。生まれ落ちて、死にゆくまでに感じる(・・・)「幸福」の総量というのが存在すれば、それは誰しも変わらないと考えています。そもそもが「主観」ですし。


 比較的裕福かつ恵まれた人は、右肩上がりに“幸福”の総量(・・)は増えていくかもしれません。


 しかし、感じる(・・・)“幸福”の()が右肩上がりとは限りません。右肩上がりの株だって所々で山があり、谷があるでしょう。それと同じで、どんな恵まれた日常にも、「今日寝坊した」「忘れ物した」「転んだ」など、小さな不幸があるわけです。それでも、全体的には右肩上がりなので、本人は「心が満たされている」と思う回数が多く、「幸せである」と感じるでしょう。


 「幸福」の総量(・・)、即ち「幸福」のグラフがどれだけ上に行ったか、ということにはあまり意味がありません。本人により関係するのは、そのグラフの一部を切り取った時の、グラフの傾き(・・)です。


 丁度、GDPに似ているかもしれません。GDPの額そのものには、「経済成長」の観点からはあまり意味はなく、意味を持つのはGDPの「傾き」、即ち成長率です。成長率がプラスになる、即ち「幸福」の総量が増える(・・・)と「幸せ」、減れば(・・・)、例え「幸福」の総量が莫大なプラスだとしても「不幸せ」でしょう。


 そして、「死」です。これは、「全てを失う」事を意味します。生きている中で得た財、名声、力、そして、如何に大切にしてきたかに関わらず、如何に全生全帰の肉体であろうと、それらは全て意味を為さなくなります。ここでは死後の話は考えません。あくまで、「現世での」話です。逆もまた然りです。


 先の幸せな人を挙げれば、今まで順調に右肩上がりで上がってきた「幸福の絶対値」のグラフは、「死」を以てゼロに大暴落することになります。


 さぞ、辛く苦しいものになるでしょう。今まで得てきた幸せ、これからも得るであろう幸せを手放すのですから。


 逆に、ずっと苦しみを受け続けてきた人はどうでしょうか。生まれた時から虐待を受け、行く先々で不幸に巻き込まれる。


 当然、前述の逆が起こります。不幸な日々の中の小さな幸せを見つけながら逞しく生きていくでしょう。でも、グラフに起こしてみると()肩上がりです。数値的にはマイナスになっているでしょう。


 今「死」について触れましたが、無論の事これは証明できません。が、まだ否定もできないのが実情です。屁理屈に聞こえたらすみません。が、題意はそこにはありません。


 この部で書いた「幸福」には、ある一つの仮定があります。それは、「独り」で生きた場合ということ。しかしヒトが人間(ひと)である以上、そんなことはあり得ません。


 必ずしも、この通りに「誰しも幸せと不幸の差し引きは等しい」とはならないのでは?と感じる時があるでしょう。それがこの理論の“ノイズ”とすると、きっとそれは「他人」の存在です。「人間」としての自分と、「他人」の関係がノイズとなって感じる「幸福」に干渉しているのだと思います。


 例を挙げましょう。先に挙げた原始人と平安人、彼らは彼らと同じ境遇の人たちの集合体の中で生きていました。食べるものも着ているものも違いますが、「愛」も「飢え」も体験しているでしょう。平安の貴族なんかは、「気苦労」の苦しみも知っていたかもしれません。


 彼らは、彼ら自身が「普通」だと思って生活しています。せいぜい、平安の貴族は平安の生活基準を「普通」として、自分たちの生活が「高貴」と思っている程度でしょう。


 しかし、平安貴族は知らず、原始人の生活水準は、私達現代人からしたら惨めもいいところでしょう。原始人も、現代社会の中で彼らの水準で生活をしていたら、本来のように「幸福」を感じることは難しいのではないでしょうか。


 このように、人は自分と他者を比べて勝手に「幸せ」になったり「不幸」になったりします。実情に関わらず、です。


 他人との付き合い方、他人の目との付き合い方。これが、自分の「幸福観」を左右する大きな要素だと思っています。


 そして、もう一つ注意点が。決して、これが正しいと自分が確信しているわけではないことにも触れておきます。


幸せですか?義務ですよ?


を思い出しました。初めて聴いた時は衝撃でしたね。

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