第二十三話 八幡ちゃん
「お姉ちゃん、最近部屋で誰と喋ってるの?」
「んんっ⁉ ゲホッ! ゴホッ!」
洗面所で歯を磨いているところだった。妹の実衣からの不意打ちの質問に、私は思い切りむせた。口いっぱいに泡立った歯磨き粉を洗面台にぶちまける。
「もー。きったないなぁ。大丈夫?」
呆れながらも、背中を擦ってくれる。最近少しだけ反抗期がおさまってきた気がする、可愛い妹だ。姉の贔屓目ではない。ぱっとしない私とは全然顔が似てないのだ。実衣は両親を始めご先祖さまのパーツの良いところを、絶妙にセンスよく組み合わせた容姿をしている。
「なななな何のことかな。喋ってるって……?」
ドキドキしながら質問を返す。この胸の高鳴りは、美少女の寝起きパジャマ姿を前にしているからではない。
「ここのところ、よく部屋から喋り声聞こえるからさ。何だか楽しそうだし、よく笑ってるし。誰かと通話してるの? え、まさか彼氏できたとか?」
「えっと……」
「まさかね! まさかおねーちゃんがね! あはは‼ ごめんごめん、からかっただけ。友達と喋ってるだけでしょ?」
言い訳を口にする前に、実衣はあっさり彼氏説を撤回してゲラゲラと笑った。前言撤回。やっぱり彼女の反抗期は終わっていない。この子の姉に対する反抗は、少し歪んでいるのだ。姉のポンコツっぷりをからかって笑うのだ。小学生のころは、お姉ちゃんっ子の可愛い妹だったのに……
「お姉ちゃん、口の周り歯磨き粉まみれだよ。早く顔洗って洗面台代わってよね。私今日朝練なんだ」
「ああ、うん」
私が慌てて顔をすすぎ始めたところだった。廊下から愛犬の餅太郎が忙しなく吠え始めた。
「まただ。餅太郎どうしたんだろう? 最近よく吠えるよね」
「ん、うん……うん、そうだねえ。どうしたんだろうねえ。ははは」
実衣の何気ない疑問と、餅太郎の警戒気味の吠え声を背に、私はそそくさと洗面所を後にした。
◇◇◇
自室に戻った私は、ドアを閉めて念のため鍵もかけた。
ふう、と息を吐く。ドアのすぐ向こうから、諦めて遠ざかっていく餅太郎の足音が聞こえた。
「あ、悠里ちゃんおかえりなさい。教科書類とノート、鞄に入れておきましたよ」
「えっ。準備してくれてたの? ありがとう!」
かけられた言葉に、つい普通の大きさの声で応えてしまい、慌てて口を覆った。
「どうしました?」
私のそんな様子に首をかしげるのは、くるくる頭の愛らしい幼児――エイリアンの八幡ちゃんだ。
実は彼、数日前から私の部屋で暮らしている。彼が寝床にしていたという八幡神社の本殿が、あまりにもボロボロで古びていたのと、もうすぐ寒い季節がやってくるからだ。たとえこれまで何年もの間問題なく暮らしていたのだと聞かされても、幼気な子供の姿の八幡ちゃんを、一人あそこに置いておく気にならなかった。
「さっき妹に、最近部屋でよく喋ってるねって突っ込まれて……」
ひそひそ声で顔を近づけながら、先程の歯磨き粉ぶちまけ事件……もとい、肝が冷えた体験を説明する。
「なるほど。念のためボクの音声と姿は、この家の中では悠里ちゃん以外には察知できないようにしているんですけどね。ごめんなさい」
「いいのいいの‼ 謝らないでよ。私が声量気にすればいいだけのことなんだから!」
しょんぼりする八幡ちゃんに、慌てて首を振った。そして言ったそばから大きくなった声に、「しまった」と再び口を覆う。
ドアのすぐ外で、再び餅太郎が吠え始めた。
「やはり動物は鋭いですねえ。今は彼にもボクのことは見えていないはずなのですが。匂いや気配で分かってしまうんだろうな」
八幡ちゃんは興味深そうにそんなことを言う。
「餅太郎は臆病なんだよね。子犬の頃の散歩なんてね、ちょっとしたことで吠えまくって大変だったんだよ。慣れれば大人しくなると思うんだけど」
「構いませんよ。すぐに仲良くなれると思います。動物と心を通わせることは、パカパカ星人の特技の一つなんです。今に餅太郎くんも、ボクの姿が見えても平気になりますから」
「へえ。そうなんだ。あ! そろそろ家出たほうがいいね。八幡ちゃん、行こっか」
時計を確認する。まだ授業までは時間があったが、駅で時間球を収集するつもりだ。朝の通勤通学時間帯は、急いでいる人が多い。書き入れ時なのだ。




