第百二話 ごっつんこ
いい匂い。
なんだこれは?
何の匂いだろう。お腹が空いてくる系の、美味しい匂い。
あぁ、分かった!
お出汁の香り。
昆布出汁かな?
かつおだしかな?
それとも煮干し?
それだけじゃないなぁ。複数の旨味が凝縮したような、とっておきの老舗の味って感じ。そこにお砂糖と、お醤油と……みりんも少し。
つい最近、本当に最近、こんな香りを嗅いだ気がする。ふんわり包みこまれるような、優しくて懐かしい、幾重にも時間を積み重ねた場所を感じさせる、そんな香り。
そうそう、イカタコ亭だ。つい最近っていうか、直近のお昼ご飯で食べたばかりじゃないか。通りで嗅覚の記憶が新鮮なわけだ。
……あ、ソースの香りもする。お好み焼き? たこ焼きかな。秋月くんが食べてたお好み焼きも、美味しそうだったなぁ。次イカタコ亭に行ったら、絶対お好み焼きにしようと思ったんだ。
たこ焼きのテイクアウトもしてみたい……そうだ! 天体観測に出かける前に、イカタコ亭でたこ焼きを買っていかないか提案してみよう。八幡ちゃんもジョージくんも、速攻「いいね」って言ってくれそう。
天体観測。夜のドライブ。楽しみだなぁ……思い切り楽しむためにも、試験……がんばろうっと。
…………ん…………?
試験…………?
……試験、試験、試験…………試験。
あああ! そうだよ! 試験! 今日試験じゃん!
「試験ッ‼」
ガバっと起き上がって初めて、私は身体を横たえていたのかと気づいた。そして同時に、ガツン! と額に強い衝撃が走る。視界に星が散って、間髪入れずに鈍痛が襲ってきた。
「いったあっ!」
「いってえ‼」
私の声と同時に、悶え叫ぶ声が聞こえた。眼の前には、額を抑えて唸っている誰かがいた…………え、誰?
勢いよく上体を起こしたものだから、眼の前にいたその人と額同士を強打したのだ。そして私と痛み分けして、こちらを涙目で見ているのは――――
「モヒカン!」
なんとまあ。ライムグリーンとショッキングピンクに前後半分ずつ色分けされた、派手派手のモヒカン頭の男だった。秋月くんじゃないモヒカンを、初めて見たかもしれない。
「良いモヒカンですね」
ジンジンする額を撫でながら、思わず褒めていた。
「……その様子なら、大丈夫そうですね……うん。意識レベル問題なし、と。念の為聞くけど、たった今私とごっつんこしたおでこ以外に、不快なところはありますか?」
彼のほうも額をなでなでしながら、私に質問してくる。
不快なところ? いや、特にないかなぁ。首を振ると、「そうですか」とモヒカン男は表情を緩めた。
「寒くないですか?」
「いや、全然」
「手足は問題なく動きます?」
「はい」
男の指示通りに手を握ったり閉じたり、膝の曲げ伸ばしをしている間に、私は周囲を見渡した。寝起きの感覚はなかったし、おでこはめちゃくちゃ痛かった。だけど、まだ夢を見ているのだろうかと疑った。
――だってここは、一体どこ?
全然知らない場所である。壁も床も天井も、境目がわからないほど真っ白な空間。私が上体を起こしているのは、これまた真っ白なベッドの上だった。




