法師と躓きの石
紀伊深山中、二百年前の出来事である。
一人の法師が帰郷途上の山中で石に躓いた。夕闇迫る中で足下の気配が疎になったせいであろうか。
掌をつく際に堪え踏みとどまり目を凝らせば、そこに二分銀が一枚置かれている。
「不思議なものだ。倒れかけて、其処に銀を見いだす。吉兆ならんか」
「その前に礼はないのか。法師よ」
法師の独言に応える者があり、景色に目を凝らすが人も獣もない。
「俺だ。俺の声だ。法師よ、こちらを見よ」
奇妙なことに先刻の石が話しかけてくる。
「はて、面妖な。狐狸の謀みか。妖の類いか。汝名乗るべし」
法師の問いに石は物物しく応える。
「俺は石だ。見てわからんか、法師殿。人でも獣でも妖でもない。億年前より石なり」
「問答を仕掛ける石、岩など見たこともない。大方魑魅魍魎の入魂たものであろう。退治てくれようか」
法師が帯を疾くたすき掛けし、脇差しを抜くが彼の石はせせら笑う。
「御坊よ。己の錆びた刀では刃こぼれを増やすだけだ。それより俺の言の葉を聞け」
法師は鎮まって思慮を為せば、尤もな言説と、刀を納め石と差し合う。
「石よ。何故我に話しかけたるか。其処元にせねばならぬ礼とは何事か」
「話しかけたのは俺が喋れるからに決まっておろう。お前は俺に躓いたことで二分銀を拾っただろうが。その返礼をせよや」
法師は太太しき石の前正面にて胡座を組む。
「だが石よ。躓いて手をつかばこの夕闇の山中、怪我をしたやもしれぬ。二分銀は我にとりてさしての価値はなし。旋風で二分銀が飛んできても風に感謝する者はおるまい。そもこの銀は其方の所有せしか怪しきものよ」
「おうや、何だ。何と論の多い奴だ。法師とは心で人を導く者ではないのか。このような物言ひのみでは衆生を救済できまい」
石はまくし立てる。
「心は言葉なり。救いも言葉なり。力なき言葉と同様、言葉なき力は救いとならぬ。石よ。お前は長い過去生で何を見てきたのだ」
「何ぞ。俺はこの山中で5億年生きている。世の中のことはお前の何万倍知っている。さあ、俺を敬え」
「生の価値は長さでなく濃度なり。人の世を知らず山中で生きるお主の生き様は語るに及ばず」
「何と傲慢な。人の世こそすべてというか。傲慢さを人の形にしたのが僧であり仏法だな」
石は石のまま、憤怒を含んだ声で喚く。
「語るに落ちたり、愚かなる石よ。人が人の世のみを思ひ、人のみに思いを寄するは自然なことだ。石は石の分際を知れ」
法師との問答に石は愈々いきり立つ。
「森羅万象ことごとく真理あり。人の世はその極一部、我に学べ。我を敬え!」
法師はせせら笑った。
「問答を迫る石、妖くも面白きと、時を割いたが過ちなり。其方は石である。それ以上でもそれ以下でもなく只の石。言の葉を出し得る石であろうと、人の世において石以上の価値はなし。いや害悪害毒。山中深く捨つるべし」
法師は立ち上がり石の前にと詰める。然ては山道より蹴り出さんと足を大きく踏み出す。
「待て!ま、待て!俺が何をした。谷に落ちらば、人と会うこともなし。喋らねば死ぬのだ。止めろ!止めてくれ!」
「是非も無し!」
法師は強かに石を蹴り飛ばした。
「人で無し!」
石は大きく弧を描いて谷底へ落ちていった。
法師はその場で九字を切り、翻ると蜻蛉を切った。天狗の里に帰郷する天狗の姿に戻る。
「お互い様だ」
天狗はそう言い捨て、二分銀を拾って帰郷を急いだ。
紀伊山中に漆黒が訪れる。
谷に落ちた石の声はもう聞こえなかった。
読んでいただきありがとうございます。
古語について検証するのだけは勘弁してください(笑)。