次回予告3 後編
「誘引説のトリック」まではSFジャンクボックスシリーズとして発表したものです。すでにお読みの方は飛ばしてお読みください。
次回予告
作者はクモに指を咬まれたことがない。
次回「ジョロウグモとナガコガネグモ」何よこれ! イモムシじゃないの。
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ジョロウグモとナガコガネグモ
作者は『クモをつつくような話』という観察日記も書いているのだが、ジョロウグモについて検索していて昆虫図鑑サイトの「ジョロウグモ」のページにたどり着いたことがある。ところが、そこには「オンブバッタ等を撮影しながら、草むらを歩くと足元からオンブバッタが次々にジャンプし、その先に本種のクモの巣があり、引っ掛かるとすぐに糸でぐるぐる巻きにしてしまった」という解説があったのだった。
草むらにいるのも、まず捕帯を巻きつけて獲物の動きを封じてしまうという狩りの手順もナガコガネグモのそれである。このサイトの管理人はジョロウグモとナガコガネグモを区別できない素人なのだなと思ったのだが、念のために「ナガコガネグモ」のページを開いてみると「オンブバッタが引っ掛かるとあっという間に糸でグルグル巻きにしてしまった」というキャプション付きの画像があった。つまり、これは無知ゆえのミスではなく、意識的な手抜きだったのだ。
いいネタを提供してもらったのだし、「ナガコガネグモ」のページに掲載されていた首の長いとっくり形の卵囊は珍しかったのだが(作者が観察したのは、ほぼ球形なのが2個と野菜のナスくらいに首が伸びたものが1個だけ)、こんなデタラメなサイトはこれ以上使うわけにはいかない。できることなら存在することも忘れてしまいたい。
こんなたちの悪いサイトの存在が許されているのは何故なんだろうか? 考えられる可能性をいくつか書きだしてみよう。
(1)無料で利用できる。
「ただなんだから正しくない情報を掲載してもいい」という考え方なんだろう。「信じる方が悪い」という表現をしてもいい。
(2)儲かる。
こういうサイトにはほとんどの場合、各ページに広告が付いている。おそらく閲覧回数に応じて管理人に報酬が払われるシステムになっているんだろう。ということは、たいした知識もない素人が昆虫のサイトにクモのページをおまけに付けて、広告の数を増やせば儲けも増えるというわけだ。要は水増し。あるいは錬金術かな。まあ、「クモに興味を持っている人間は多くはないだろう」という意識もあるんだろうが。
(3)1人で開設できる。
紙の本だと編集者や記者によってチェックされる可能性もなくはないのだが、パソコンが1台あれば開設できるサイトではノーチェックで掲載できてしまう。
(4)無責任。
このサイトの管理人名はローマ字表記になっている。炎上したらサイトを閉鎖して逃げてしまえばいいという考えでいるんだろう。すべてをなかったことにして、別のサイトを立ち上げれば、またボロ儲けができる。紙の本のように著者や出版社の名前が半永久的に残るわけではないから、都合が悪くなったら削除してしまえば「そういうサイトが存在した」という証拠まで消してしまえるわけだ。
こういう無料で閲覧できるあやしいサイトなどと比べれば紙の本は信用できる。ただではないから、まともな出版社なら責任を持って発行しているはずだし、広告もほとんど入っていないから無駄な水増しページも少ないし、編集や校正、印刷の段階で人間が目を通すことになるし、編者や執筆者の名前が掲載されるから迂闊なことを書くわけにはいかない。とは言っても、それは無料サイトに比べれば、だが。そして、紙の本は印刷された時点で時が止まっているようなものなので、ウェブサイトのように常に最新情報に更新していくということができない。この点ではウェブサイトの方にアドバンテージがあることは認めざるを得ないだろう。いい例が手元にある『クモの生物学』(2000年初版)という紙の本である。
20年以上も前の本なのでジョロウグモがアシナガグモ科に入れられていたりするのだが(現在はジョロウグモ科)、定価は税別で5200円だし、広告は最後の1ページのみ、編者1人とそれぞれの専門分野の知識を持つ9人の執筆者が報酬をもらって書いているのだろうから、それに見合うだけの責任を持って仕事をしていると判断していいと思う。実際、あからさまな手抜きは見当たらなかった。
ただ、思い込みや不注意によるミスというものはどうしても発生するもので、第五章には「ヒメグモ科のクモは、粘球糸を投げかけて餌を攻撃する」「ヒメグモ科は捕帯を使用しないが、それは、葡萄状腺が少なく、帯状の糸の束をつくれないためであろう」という説明があったりする。
作者が観察したヒメグモ科のオオヒメグモはどう見ても捕帯を巻きつけていたし、ハンゲツオスナキグモは住居から飛び出して獲物に牙を打ち込むという狩りをしていた。さらに他のクモの網に寄生するイソウロウグモの仲間もいるし、3~4本の粘性のない条網を張り、その糸を伝って来るクモを捕らえるというオナガグモもヒメグモ科だ。ヒメグモ科のクモはいろいろな環境に進出して、それぞれの種に合った生き方をしているのである。まあ、この章の執筆者はクモの糸の専門家らしいから、実際のクモの狩りを見たことがないのだろうし、めいっぱい好意的に解釈すれば「の一部」という3文字を書き忘れてしまって、さらに編者もそれを見落としたというだけのことなのかもしれない。
また、第六章には「クモの糸の光学特性」として「雌のジョロウグモの糸は、春から夏にかけては白色であるが秋になると黄変する」という記述もある。これも夏場のクモの糸は「透明」だし、10月になっても糸を黄色くしないジョロウグモは珍しくない。作者が実験した範囲では、糸を黄色くするか、透明のままにしておくかは獲物の量が十分かどうかで決めているようだ。
ただし、第一〇章「配偶戦略」に書かれている、クモの雌は貯精囊を持っていて、雄から受け取った精子を蓄えておくことができるのだという情報は役に立った。オニグモやナガコガネグモが1回目の産卵はともかく、2回目以降は交接した様子もないのに産卵していたのは精子を蓄えておけるからだったのだなあ。
それから「ジョロウグモ毒JsTXのように、昆虫のなかでも鱗翅目の幼虫にはほとんど効かないものもあり……」というのも個人的に重要な情報だった。去年、「姐さん」と名付けたジョロウグモに2匹目のイモムシをあげた時に捨てられてしまったのは、姐さんの毒では仕留められないからだったのだな。イモムシは羽のないチョウやガではないということである。ああっと、作者がジョロウグモに指を咬まれたことがないのはイモムシだと思われていただけなのかもしれないなあ。
次回予告
成体のティラノサウルスに襲われたら。
次回「ティラノサウルスの歩行」世界記録ペースで1500メートル逃げろ。
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ティラノサウルスの歩行
「ティラノサウルスは人間よりも足がおそい」という帯が巻かれている本を見つけた。実際に「ティラノサウルス」のページを開いてみると「最近の研究によると、ティラノサウルスは人間よりも足が遅かったと考えられています。時速27キロメートル以上で走ると、足の骨が粉々にくだけ散るとまでいわれているのです」と書かれていた。なるほど。しかし、その先にある「人間が走った時の最高速度は時速37キロメートル前後。世界王者でなくても、ちょっと足の速い高校生ならティラノサウルスから逃げきれます」は問題だ。これは有名なゼノンのパラドックス「アキレスは亀に追いつけない」という論理だろう。
この「ティラノサウルスは人間より足がおそい」の元ネタは『ナショナルジオグラフィック』の公式サイトの2017年7月21日のニュースページに掲載された「ティラノサウルスから走って逃げることは可能」という記事のようだ。そこにはイギリスのマンチェスター大学の古生物学者ウィリアム・セラーズ氏らの研究チームが「ティラノサウルスの約7トンという体重と骨の力学的性質を合わせた新しいモデルを開発した。このモデルで新たに考慮された要素のひとつは、骨にかかる応力である。骨は走っている時にある程度までの負荷には耐えられるが、それを超えると砕けてしまう」と書かれている。さらにこのページには「世界最速の人間の時速は約37キロなので……」という記述もある。ビンゴ! この「世界最速の」という言葉を削除しているところが悪質だ。
そもそもティラノサウルスの移動速度は推測するしかないのが現状である(2つ以上の連続した足跡の化石があれば歩幅がわかり、そこから速度が計算できるらしいが、まだ発見されていないようだ)。その上、ティラノサウルスは走るのには不向きな巨体でありながら、足の速い恐竜の特徴であるアークトメタターサル(人間でいうと足の甲辺りにある脚にかかる負荷を均等に配分する効果があるとされる構造)を持っていたのらしい。さらに、大腿骨と尾の付け根を結ぶ筋肉も持っていたので、これを使えば大きな推進力が得られたはずなのだ。だからややこしいことになる。
ウィキペディアによると、ティラノサウルスについては、下は時速15キロから上は70キロまで実に様々な走行速度が提示されてきたのだそうだ。
(1)時速15キロから20キロ説
1982年に提唱された説で哺乳類における速度・歩幅・体格の関係から求められたらしい。
(2)時速36キロ説
1955年提唱。成体のティラノサウルスが時速72キロで転倒すると命に関わる大けがをするだろうという研究結果からの推測とか、ティラノサウルスの腰から下の筋骨格モデルを作成して、仮想空間で走行シミュレーションと衝撃耐久シミュレーションを行った結果を根拠に、時速36キロ程度で走ることができただろうとしたのらしい。なんだ。60年以上も前にほとんど同じ結果が出ているじゃないか。
(3)走行は困難説
1999年提唱。ドナルド・ヘンダーソンはアロサウルスとティラノサウルスの3D骨格モデルによるコンピュータシミュレーションを行った結果、ティラノサウルスの歩幅はそれほど広くなく、時速18キロが限界という結果を得たと発表した。
(4)時速40キロから50キロ説
ティラノサウルスは鳥類と同様の気嚢を備えていたとされているから、それによって体重が3トンから4トンになれば時速40キロから50キロが妥当だということらしい。
(5)時速30キロ前後説
2007年提唱。ビル・セラーズはティラノサウルスの筋骨格のコンピュータモデルを作成して走行のシミュレーションを行い、体重6トンのティラノサウルスは時速28キロで走行できるという結果を得たのだそうだ。この仮説では筋肉の弾性要素や収縮速度、速筋や遅筋などがモデルとして考慮されているので、それらのパラメータを変化させると最低で時速20キロ、最高で時速50キロになるらしい。「さらに時速30キロという値は、獲物とされるエドモントサウルスを追跡するにも十分だった」とも書かれている。
(6)長距離歩行適性説(時速15キロから34キロ)
2020年提唱。「四肢骨の長さの比率を分析した結果、ティラノサウルスの後肢は高速走行に向いた形態からエネルギー効率を重視した長距離歩行に適した形態へ進化する傾向があり、あまり速くはなかったという説がある」のだそうだ。
そして作者の手元にある北村雄一先生の『大人の恐竜図鑑』の「ティラノサウルスは走れない」というページには「最高速度は推定で時速10~13キロぐらいと見積もられている」と書かれている。
さて、ここで成体のティラノサウルスの最高速度は時速15キロと仮定してみよう(もちろん歩行だ)。根拠は四足歩行で体重が最大7.5トンに達するアフリカゾウの最高速度が時速40キロということなので、二足歩行ならその半分以下になるだろうという安易な考えと、時速20キロではあまりにも人間に不利になってしまうからだ。〔おいおい〕
時速15キロのティラノサウルスは時速37キロの人間には追いつけない……なーんて思ったら大間違い! 人間が100メートルを10秒で走り抜けたとすると、その10秒でティラノサウルスは41.7メートルしか歩けない。しかし、100メートルを全力で走りきった人間はそれ以上走れないだろう。ティラノサウルスはその14秒後にへたり込んでいる人間を食べればいいのである。ということは、時速15キロで歩くティラノサウルスから逃げ切るためには、もっとペースを落として、ティラノサウルスが諦めるまで逃げ続けることが必要になる。陸上の女子1500メートルの世界記録が3分50秒台だから、この平均時速23キロくらいのペースで1500メートル逃げ続ければ500メートル以上の差をつけられる。これならティラノサウルスも諦めるか、あるいは体温上昇で歩けなくなることも期待できるだろう。
ただし、これはあくまでも成体のティラノサウルスの場合だ。ティラノサウルスが急激な成長を始める10歳から11歳くらいの年齢における推定体重は500キロ程度(ウマと同じくらい)とされているから、これより若いティラノサウルスなら当然走れただろう。ヒトより速かった可能性も高い。もしかすると「成体のティラノサウルス以外はティラノサウルスと認めない」ということなのかもしれないが、「こんなのはティラノサウルスじゃねぇー!」と叫んだところで逃げきれるわけでもあるまい。合掌。
次回予告
RNA起源説には順序よく起こる多数の奇跡が必要だ。
次回「RNA起源説の逆襲」タンパク質起源説に奇跡はいらない。
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RNA起源説の逆襲
作者は、無機物からRNAが生じる過程を無視して「自己複製ができるRNAが生じれば……」というところから出発するRNA起源説など宗教のようなものだと思っている。そんなタンパク質起源説派にとって喜ばしいニュースが飛び込んできた。生命誕生以前の海底の熱水噴出孔付近の環境を模した実験でアミノ酸などが生成することが確かめられたのだそうだ。
『日経サイエンス』2022年1月号に掲載された高井研先生の「極限微生物が変えた進化観 深海に探る生命の起源」によると、「現存する生命の共通祖先も深海熱水で生まれたとの見方が強まっている。深海熱水は生命誕生から共通祖先登場までの舞台だったのかもしれない」「近年、深海熱水域における地球電気の発見に伴う「深海熱水電気化学原始代謝」モデルが提唱されてその再現実験が行われ、深海熱水域における多様な有機物の非生物的生成と原始代謝の成立を強く裏付ける結果が得られた」のだそうだ。
研究者の「見方が強まっている」を信じるのは危険なのだが、「深海底で生命の原材料ができる仕組み」という囲み記事によると、約40億年前の地球に存在したであろう金属イオンに富む初期海水の中に熱水噴出孔から水素や硫化水素を含む熱水が噴出すると、これらが噴出孔の内側で酸化されることで電流が生じ、これが反応を進めるためのエネルギー源になるということらしい。
そして、海水中に放出された熱水中の硫化水素は海水に含まれていた鉄やニッケルなどの金属イオンと反応して硫化金属となって沈殿し、「この沈殿物が噴出孔と海水との境界面で電気還元され、硫化金属とメタルとの複合体(PERM)となる。これが触媒かつ還元剤となり、生命に不可欠な有機物材料を作り出す化学反応を促進したと考えられる」のだそうだ。さらに「東京工業大学の北台紀夫(現JAMSTEC)らはこの熱水発電場を模した室内実験で、その反応を再現することに成功した。硫化鉄のPERMはグリシン、アラニン、グルタミン酸といったアミノ酸を生成し、硫化ニッケルのPERMは生物の代謝に必須のチオエステルを生成した」と書かれている。なお、この囲み記事の中の図にはいきなり硝酸イオンが出てきて、それが還元されてできたアンモニウムイオンがアミノ基になるとされているようなのだが、この硝酸イオンがどこからやって来たのかについての説明は見当たらなかった。
また、現状ではアミノ酸などから触媒作用を持つタンパク質が生じる過程がまだわかっていないらしいが、そんなものはアミノ酸をでたらめに繋いでいけば、いつかは生まれるだろう。百億年に1度の奇跡だって起こる時は起こるのだ。
この実験は有名なユーリー・ミラーの実験の改良型と考えていいだろうと思う。改良されたのは第一に化学反応の場を仮想的な大気中から海水中に移したこと。第二にその海水中に金属イオンを存在させたことだ。
このことについて説明しておくと、約46億年前に月が誕生した直後の時期の地球には水の海はなかったのである。地表面の温度が下がって、長期間雨が降り続く事によってやっと海が生まれる。この時、雨に洗われ続けた陸地から大量の金属イオンが溶け出したため、初期の海水は金属イオンに富むものだっただろうとされているのだ。なお、これらの金属イオンはプレートテクトニクスによってマントルの中に取り込まれていくことになるので、現在の海水中の金属イオンは少なくなっているということらしい。
第三に雷を模した放電の代わりに熱水噴出孔付近に生じる電流を使ったことだ。この点は特にRNA起源説に対してのアドバンテージになると作者は思う。
繰り返しになるが、RNA起源説では「地球の生命は自己複製ができるRNAから始まった」としている。しかし、この仮説ではRNAの単体である四種のヌクレオチドが無機物から生物によらずに生成する過程というものをほとんど完全に無視しているのが問題だ。ヌクレオチドは核酸塩基、リン酸、リボースからできている。タンパク質ならばアミノ酸を順に結合させていけば一応はできあがるのに対して、RNAはきわめて大きなハンディキャップを背負っているのだ。
さてさて、欠点ばかりを指摘するのもフェアではないので、前に紹介した『別冊日経サイエンス168 生命の起源 その核心に迫る』の記事もおさらいしておこう。このムックによれば、シアン化物、アセチレン、ホルムアルデヒドの誘導体など、以前に使われていたのと同じ材料をリン酸と混ぜ合わせると、2-アミノオキサゾールという揮発性の分子が生じ、それが蒸発と凝結の繰り返しによって濃縮され、さらに太陽からの紫外線によって不適切な構造の分子が破壊されたりして、最終的にチミン(C)とウラシル(U)のヌクレオチドができたということらしい。
不純物だけを破壊する紫外線という辺りに疑問を感じるし、蒸発してから凝結したのでは広範囲に分散してしまうんじゃないかいと言いたくなるような記事だったのだが、予想通り、残り二種のヌクレオチドを生成する過程がわかったという話がいつまでも出て来ない。目の付け所はよかったのだろうが、残念ながらヌクレオチドは4種類が揃わないと意味がないのだな。
そして、海底熱水噴出孔付近でアミノ酸が生成するというのは連続的な反応であることも重要だ。RNA起源説では地上の水たまりで乾湿サイクルの繰り返しによってRNAが生じるとしているのだが、これはスープの入った鍋を陽の当たる所に置くようなもので、かなりの時間がかかることが予想される。それに対して海底熱水噴出孔付近でのアミノ酸生成は工場で大量生産するようなものになるだろう。適当な触媒とエネルギー源さえあれば、この大量のアミノ酸から大量のタンパク質が生じる。その上、この海底のタンパク質工場は陸上の鍋よりも多く存在していたことが予想されるのだ。こうして無数のデタラメなアミノ酸配列のタンパク質が次々に造られていったとすると、その中には自分と同じタンパク質を複製するもの、RNAやDNAを造るもの、リン脂質を造るものなどが存在していた可能性がある。これだけの部品が揃えば盲目の時計職人でもいつかは生物を組み立ててしまうだろう。
しかし、だ。ヌクレオチドのような複雑な有機分子が大量に生じるような奇跡はまったく起こらないという保証はない。それらが正しく結合してRNAが生じることもあり得ないとは言えないし、そうして生じたRNAの中に自己複製の能力を持つものが存在する可能性もゼロではない。そういうRNAのすぐ近くに大量のヌクレオチドと適当なエネルギー源が存在していて、RNAが分解する前に自己複製が起こるというような奇跡もまったくあり得ないとは言えない。これらの奇跡が40億年前の地球で連続的に、しかも順序よく何度も起こる確率は限りなくゼロに近いだろうが、決してゼロにはならないのだ。
次回予告
ナガコガネグモは隠れ帯ダイエット。
次回「クモたちのダイエット」オニグモは絶食。
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クモたちのダイエット
作者は2019年からクモ観察をしているのだが、書籍やウェブサイトに書かれているのとは違うことを観察してしまうことがよくある。例えば隠れ帯だ。
隠れ帯、または白帯(はくたい)はコガネグモ科、アシナガグモ科、ウズグモ科のクモが網に付ける白い糸の装飾だそうだ。いろいろなクモで独自に進化してきたというのなら、よほど効果的なものなのだろう。特にコガネグモ科のクモの隠れ帯については、太いジグザグの隠れ帯が紫外線を反射して昆虫を誘引しているとする説(誘引説)を本やウェブサイトなどでよく見かける。しかし、困ったことに、この仮説では作者がナガコガネグモやコガネグモにイナゴなどの獲物をあげた時の観察結果を説明できない。むしろ、隠れ帯はクモが満腹の時、つまり網にかかる獲物を減らしたい時に付けているように見えるのだ。さあ、困ったぞ。
と思っていたら、誘引説に関するもう少し詳しい情報を手に入れてしまった。『糸島の星空』というサイトの「コガネグモの隠れ帯」というページに、アメリカのクレイグとバーナードが1990年に発表した論文が紹介されていたのだ。このページには「コガネグモの一種で白帯が紫外線を反射していること、網自体は紫外線をほとんど反射しないこと、白帯があるほど網に昆虫がよくかかること(誘引説)を証明しました。実験に用いた昆虫はショウジョウバエで、ハエの捕獲率は網だけの場合に比べて白帯があれば1.5倍、白帯とクモがあれば1.7倍にも上がりました」と書かれていたのである。
嫌な感じがしたのでウィキペディアの「ショウジョウバエ」のページを開いてみると「多くの種は体長三ミリ前後と小さく、自然界では熟した果物類や樹液およびそこに生育する天然の酵母を食料とする」などと書かれていた。体長三ミリで熟した果物類だ! 確かに紫外線を反射する花びらを持つ植物たちがいて、蜜や花粉を食料とする蝶や蜂などの昆虫は紫外線の反射光を目印に花に向かって飛んでいくらしいのだが、そこにはショウジョウバエの食料はない。そもそも体長三ミリのショウジョウバエに体長0.5ミリで成虫は口器を持たないユスリカの仲間から最大四〇ミリで他の昆虫を襲うスズメバチまで代表させるのは大ざっぱ過ぎるのではないか?
なぜショウジョウバエが誘引されたように見えたのかはショウジョウバエの身になって考えてみればわかる。ハエの仲間は優れた飛行能力を持っているのだが、いつまでも飛び続けられるものではないだろう。羽を休められる場所を探しながら飛んでいるショウジョウバエの前に紫外線を反射するものが現れたら、そこにとまってしまいたくなることもあるはずだ。だいたい紫外線を反射しない赤、黄色、緑の塗料を塗った隠れ帯での実験をした様子もないし。そして「1.5倍」とか「1.7倍」とかの数字が出てくるというのも、「誘引しているに違いない」という考えが先にあって、その仮説に都合のいい結果を出し、なおかつ論文を書きやすいような数字を得るための実験をしたということのような感じがする。
クレイグとバーナードが実験に使ったギンコガネグモの体長はわかっていないのだが、作者が使ったのは体長が20ミリから25ミリのナガコガネグモ数匹とコガネグモ1匹の雌成体で、獲物はイナゴ(雌の体長は40ミリ、雄は30ミリ)のような大物をあげている。これらのクモが獲物に巻きつける捕帯は幅広なので、バッタの類の強力な後脚を封じるためのものだろうと考えたのだ。ショウジョウバエの10倍以上の体長で、しかも非常時以外は歩くタイプの獲物では違う結果が出るのも当たり前だったかもしれない。ちなみにイナゴの身になって考えてみると、前方に現れた隠れ帯は障害物でしかないだろう。おそらくはそれを避けようとするはずだ。しかし、隠れ帯を避けても、そこにはまだ網があるわけで、慌てていると網にかかってしまうこともあるのだろう。これだと隠れ帯の長さや本数で網にかかる獲物の量をある程度コントロールできることになる。ナガコガネグモなどは隠れ帯を使って自分の消化能力を超える量の獲物がかからない様にしようと考えているのではないかと思う。さすがはクモ4億年の知恵であると言えよう。
さてさて、ここから先はほとんど思いつきの踏み外しになるのだが、秋になると黄色くなるとされているジョロウグモの網もダイエット説で説明できそうな気がする。
作者の自宅の近くの住宅街には庭付きの廃屋があって、そこには毎年多数のジョロウグモが現れるのだが、この子たちの網は秋になっても無色のままなのである。かと思うと、足を滑らせたアリがコンスタントに落ちてくるような場所に網を張っている子は8月のうちに網を黄色くしてしまった。さらに体長十数ミリのやや小柄なジョロウグモはイナゴをあげた2日後に網に開いていた穴を黄色い糸で補修し、その後しばらくしてから、また無色の糸に戻していた。さあ、これらの観察例をダイエット説で結びつけてみよう。
まず、なぜ網の糸を黄色くするとダイエットできるのかについて説明しよう。これは簡単、黄色い網なら昆虫にも見えるからである。多くの昆虫の色覚は紫外線から黄色辺りまでらしいので、網が黄色くなれば、それを避けて飛ぶ昆虫が多くなるはずだ。これもゼロにしない範囲で獲物を減らしましょうというということなんだろう。
そこで住宅街の中の廃屋だが、こういう環境では獲物が少ないのだろうと思う。したがってダイエットが必要になるほど多くの獲物を食べられないのだろう。2番目の子は獲物が多すぎるから少し減らしたかったのだろうし、3番目の子は一時的に食べ過ぎになったものの、その後は獲物が少なかったので、また無色の網に戻したのだろう。
そして、この際だから恥をさらしてしまうと、作者は昨日までこの黄色い色素は胚の発生に関わる色素で、十分な量の獲物を食べると色素が余るために、余分な色素が糸の原料タンクに流れ込むのだろうと思っていた。たまたま今日はサイクリングしたから新たな可能性に気が付いたのらしい。
さて、最後はオニグだ。近所に網を張っていたので「キンちゃん」と名付けた子は体長10ミリほどになった8月初めから9月初めくらいまで網を張らなかった。完全な絶食である。ジョロウグモも脱皮の前には網を不規則網状にして絶食することがあるのだが、せいぜい1週間である。それに対してキンちゃんは夕方にねぐらから顔を出すくらいで外へ出ようとすらしなかった(この顔を出す行動は夜露で水分補給でもしていたんじゃないかと思う)。その後、9月になって気が付いた時には平屋の屋根くらいの高さに小さめの網を10日くらい張って、また休みに入ったらしかった。
なぜこんな事をしたのかを推理してみると、キンちゃんは再び獲物が増える来年の夏にオトナになるために、あえて成長を一時停止したんじゃないかと思う。
ただし、作者はしょせん脊椎動物だ。節足動物が考えていることを正しく理解できているという自信はないよ。
次回予告
長生きの秘訣は何ですか?
次回「三葉虫の生き様」海底を這い、泥をすすることです。
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三葉虫の生き様
椎名誠先生のエッセイ集『われは歌えどもやぶれかぶれ』を読み終えた。その中にカンブリア紀に送られた時間流刑者が毎日三葉虫を釣りにいっているという話があって「あの面妖な生物はいかにもキチン質ばかりで囓るのも大変そうだ。大漁でも楽しくないだろうなあ」と書かれていた。
カニの甲羅は主にキチン質(窒素を含む直鎖型の多糖高分子)でできているらしいから、それと混同しておられたのだと思うが、三葉虫の背甲はキチン質ではなく、炭酸カルシウムでできていたのだ。つまり、二枚貝や巻き貝の殻と同じ無機物だったのである。実は作者も、つい最近まで三葉虫の背甲はキチン質だと思い込んでいたので非難するつもりはないがね。
炭酸カルシウムの背甲のメリットは透明な結晶(方解石)ならそのまま眼のレンズにすることができるということくらいだと思う。とは言っても、アノマロカリスを初めとして三葉虫と同時代に眼を獲得した動物は多いのだから大きなアドバンテージになるようなものではなかったはずだ。
逆にデメリットとしては、第一に硬すぎてもろかったという可能性がある。甲虫の鞘翅を指で押してみると少しへこむのだが、力を抜けば元に戻る。これはキチン質の、硬さとしなやかさを調節できるという特性によるものだと思う。しかし、カタツムリの殻を指で押してもへこんだりしない。もっと力を加えると砕けてしまうだろう。
第二に重い。硬いものを割れないようにするためには基本的に厚くするしかない。キチン質ならともかく、炭酸カルシウムの厚い背甲では重かったはずだ。
第三に再利用しにくい。二枚貝の殻は扇形に、巻き貝の殻はらせん状に継ぎ足すように成長させていくことができる。しかし、三葉虫の背甲は貝殻のように単純な形をしていない(頭部の殻は最大5つのパーツに分解する必要があったのだそうだ)。
第四に、他の節足動物のように古い殻の下に次の殻を柔らかいままで用意しておくことができない。したがって、背甲を脱ぎ捨ててから体を大きくして、それから新たな背甲を形成するという手順が必要になる。昆虫などは背中が割れ始めてから数時間で動き回れるようになるわけだが、三葉虫の脱皮が完了するまでには数日かかったという説もある。その間は柔らかい無防備な姿をさらしてしまうことになるわけだ。何日もかかる着替えの最中にアノマロカリスに見つかってしまって「へっへっへー。ねえちゃーん、うまそうな体してんじゃんかー」と食べられてしまうことも多かっただろう。〔こらこら〕
どうも炭酸カルシウムの背甲というのは貝やオウムガイのようにゆっくり動く動物向きの外骨格のような気がする。それでも古生代の3億年を生き抜いたのだから、三葉虫はそれなりに成功した生物ではあったのだろう。
そこで不思議なのは、三葉虫はなぜ炭酸カルシウムの背甲を選んだのかということだ。作者が調べた範囲では動きまわる節足動物で炭酸カルシウムの外骨格を獲得したのは三葉虫だけのようだ。いったい何が彼女をそうさせたのだろうか?
今のところ、考えられる理由は2つある。第一にその重さを活かして海底から浮き上がってしまうのを防いでいた可能性。金子隆一先生の『ぞわぞわした生きものたち』には「一般的に三葉虫は、基本的に海底生活者と考えられている」という記述がある。彼らの口にはハイポストーマという板が前方から覆い被さっていて、実質的に後ろ向きに開口していた。その後方にある脚の付け根部分には凹凸があって、歯のようにかみ合う構造になっているものもいたらしい。これらのことから考えると、三葉虫は海底の泥を脚でかき回して舞い上がった有機物混じりの泥や、その中に潜んでいたゴカイのような柔らかい獲物を細かく噛み切って吸い込むのが基本的な食べ方だったのだろう。こういう捕食行動をするのなら、海底から浮き上がってしまわない程度の比重になっていた方が有利だったはずだ。
第二にアノマロカリス対策。アノマロカリスの歯の化石には硬い物を噛んだような傷が見られないらしい。だいたい、あの円形になった二重構造の歯は柔らかくて細長い獲物を確実に消化管に送り込むためのものだろう。脱皮直後ならともかく、炭酸カルシウムの背甲を完成させた三葉虫を噛み砕けるような歯ではあるまい。
しかし、古生代デボン紀には顎を持った魚たちが現れる(それ以前の魚の口はヤツメウナギのような穴状)。アノマロカリスには食べられなかった三葉虫も顎と歯を持つ魚なら噛み砕くか、あるいは丸呑みにすることができただろう。『ぞわぞわした生きものたち』によると、デボン紀に生きていた三葉虫のハルペス目、プロエトゥス目、ファコプス目、懲りねえクソカス目……。〔コリネクソカス目だ!〕
これら5つの目のうち、デボン紀末の大量絶滅によって衰退しながらもペルム紀末まで生き残ったのはプロエトゥス目だけだった。他の三葉虫たちが絶滅したのは重い背甲のために素早く逃げることができなかったからなんじゃないだろうか……と思ったのだが、カンブリア紀の次のオルドビス紀には高速遊泳型とされる三葉虫もいたのらしい。
土屋健先生の『古生物たちのふしぎな世界』ではハイポディクラノトゥスという全長3センチほどで、尾部まで届く二股のフォークのようなハイポストーマを持つ小型三葉虫が紹介されている。「流線型に整えられた形は、まるで現代の戦闘機のようだ。流線型であるということは、すなわち、水の抵抗を減らすことができたということを意味している。水の抵抗を減らすことができたということは、すなわち、この三葉虫が高速で遊泳していた可能性を示すものだ」「ハイポディクラノトゥスの複眼は帯状になっており、前方から側方、そして後方までの視界を広くカバーする。これもまた、高速遊泳に役立ったことだろう」などと書かれている。さらに、椎野勇太先生の『三葉虫』というサイトによると、この三葉虫が前進すると腹面のフォークの間で発生した逆流する渦とフォークの外側を流れる一対の渦という2種類の渦が形成されるのらしい。そして前者の逆流する渦に乗った餌が行き着く先には口があったわけだ。外側の渦は歩脚の根元から生えている櫛の歯状の呼吸器官に新鮮な海水を供給していただろう。しかし、この遊泳速度が3倍の三葉虫……。〔3倍だったというデータはない!〕
もとい、高速遊泳型三葉虫もついには祇園精舎の鐘の音を聞くことになるのだった。結局のところ、ハイポストーマに覆われた下向きの口には海底を這い歩きながら泥を吸い込むという生き方がベストだったのだろう。そして、ハイポストーマを持っていたが故に頭部前方に口を移動させることができなかったというのが三葉虫の限界だったのだろうな。合掌。
次回予告
暗黒星雲はイオンジェットエンジンの夢を見るか。
次回「考えるガス」追悼。フレッドホイル先生。
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考えるガス
フレッド・ホイル先生の『暗黒星雲』を読んだという話を憶えておられるだろうか。いいSFだと思うし、文庫版が出版されたら保管しておきたいとも思うのだが、ハードカバーしかない。作者が本に求めるものはそこに書いてある情報であって、本そのものが欲しいわけではない。ハードカバーなど「あんなの飾りです」と言い切ってしまえる程度のものでしかないのだ。
まあ、1957年の作品だけにコンピュータの入出力が穿孔テープだったりするので、若い読者には買ってもらえないと判断されているのだろう。現代的なコンピュータの設定にすれば今でも通用するSFだと思うのだが。残念だ。
そして個人的には宇宙空間に浮かぶガス、つまり真空中に漂っているバラバラの分子群がなぜ凝集も拡散もせずに存在できるのかとか、推進力を得る方法とか、どうして考えることができるのかなどの問題が未解決だった。おそらく、ホイル先生が必要としたのは宇宙船に乗ったヒューマノイドタイプの宇宙人のようなわかりやすい形の知性体ではないものだったのだろう。「ジョー」と名付けられることになる暗黒星雲がただの小道具だったのなら細部まで作り込まれていないのも理解できる。作者はこういうヒューマノイド型ではない知性体が好きなので、あえて重箱の隅をつついてしまうのだがね。
まずは宇宙空間にガスが安定して存在する方法を考えてみよう。まあ、これはそう難しくない。ガスを構成しているすべての分子をプラスあるいはマイナスに帯電させてしまえばいいのだ。この場合、分子群は引力によって凝集しようとするわけだが、分子同士が接近していくと電気的な反発力が強くなる。引力と反発力があれば分子間の距離はある一定の範囲内で安定するはずだ……と思う。〔弱気だな〕
帯電した分子群は推進にも使える。小惑星探査機「はやぶさ」や「はやぶさ2」に搭載されていたイオンジェットエンジンのように帯電した分子を加速して放出すれば推力が得られるのだ。これは彼女、または彼氏を誘ってボート遊びをしていて、ついうっかりオールを流してしまった場合に彼女、あるいは彼氏をボートの後方に放り投げることによって推進力が得られるのと同じである。〔こういうことをしてはいけません。助けを呼びましょう〕
まあ、現実的な解決法は手をオールの代わりにして一緒に水をかくことかもしれない。その時には「初めての共同作業だね」などと言ってみるのもいいだろう。〔よい子は本気にしないでね。火に油を注ぐことになるから〕
というわけで、暗黒星雲の分子群の一部を一定の方向に放出すれば、その逆方向へ加速することができる。ただし、水面に体ひとつで浮かんでいるような暗黒星雲が一部の分子群を放出するのは、人間ならば片方の脚をもぎ取って投げ捨てるようなものだろう。恒星の周回軌道に乗る時にはもう1本の脚を逆方向に投げて行き足を止めるわけだ。そうして失った分子群は恒星が放出し続けている荷電粒子などを捕獲すれば再生できるのだろうな。痛みは……感じないのだろう。多分。
ああっと、一部の分子群だけを加速するメカニズムというのも謎だな。分子を2列に並べて、その分子群の電荷を精密にコントロールすればリニアモーターの原理で加速できるような気もするのだが、宇宙空間に分子をきちんと並べてリニアモーターを形成する方法など想像もできない。それとも、少しくらい位置がずれても効率が低下する程度で使えないわけではないということなんだろうか? まあ、何か思いついたらまたネタにさせてもらうことにしよう。
さてさて、ここまでは簡単なのだが、『暗黒星雲』で「ジョー」と名付けられることになる太陽系内に進入してきたガスは知性を持っていたのだ! どうしたらいいんだ、こんなの……。
ええと、まずは地球の生物の脳について考えてみよう。脳は多数の神経細胞がネットワークを形成していて、それらの細胞間を神経電流が行ったり来たりすることで思考や記憶などの活動を行っている。では、真空中に漂っているバラバラの分子群はどうやってネットワークを形成すればいいのだろうか。これについては光や磁場なども使えそうなのだが、ここでは思い切って量子もつれを使うことにしよう。
粒子Aと粒子Bが量子もつれの状態になった場合に、粒子Aのスピン(粒子が持つ仮想的な固有角運動量)を観測すると、その瞬間に粒子Bのスピンも決定するのらしい。この現象は距離に関係なく起こるので、これを応用すれば光速を超える速度で信号を送ることができるんじゃないかという話もある(アインシュタイン先生はこの量子論的に予想される現象を嫌って、なんとかしてこれを否定しようとしたらしいのだが、その後、光子の量子もつれ現象が撮影されてしまうのだった)。
というわけで、粒子Aと粒子Bが量子もつれの状態になり、さらにC、D、E……というように次々にもつれていけば、暗黒星雲を構成するすべての粒子がもつれ合った状態になれるんじゃないかと思う。
さらに量子の世界は常に揺らいでいて不確定であるらしいから、非常に多くの粒子がもつれ合った状態になると、どこかの粒子がわずかな時間、スピンの方向を逆にしてしまうことも起こりうるんじゃないだろうか? そして、その乱れの情報は瞬時に暗黒星雲全体に伝わることになる。これが連続的に起こるのが暗黒星雲の「思考」なのかもしれない。これは大規模な量子コンピュータということになるんじゃないだろうか。それなら、あっという間に地球人と会話できるようになったのも当然だろう。もちろん、この辺りについてはあまり詳しくはないので、専門家にクレームを付けられたら振り出しに戻る覚悟はあるがね。
そして、ジョーから放出された分子群もまた量子もつれの状態を維持しているはずだから、いつかはこの宇宙全体にジョーの子どもたちが散在しているという状態に……いやいや、心が繋がっているのなら1個体のジョーそのものが分散していることになるわけだ。なんとまあ、宇宙サイズの知性体だ。しかも、宇宙の膨張によって見かけ上の光速を超えてしまうために、地球からは観測できない宇宙の彼方の事象の地平面のその先まで旅したジョーの一部が見ている、というか、感知していることも瞬時に知ることができるわけだ。つまり観測可能な宇宙よりも巨大な知性体が生まれるか、あるいはすでに生まれている可能性があるのだ。うーん……古典的作品だが、とんでもないスケールの小説だったのだなあ。
ああっと、ジョーはどんな環境で生まれたのかとか、ジョー以外のガス状知性体もいるのかという問題も未解決だ。余計なことなど考えずに小説を楽しめれば楽なんだろうけどなあ。〔考えるな。感じるんだ!〕
次回予告
何の役に立つんだ?
次回「ハルキゲニアの眼」いらないんじゃないのか?
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ハルキゲニアの眼
S氏の『〇〇的進化論』を読み終えた。サブタイトルは「1%の奇跡がヒトを作った」。要は地球の生物の進化史をテーマとする本である。この人は相変わらずよくわからない日本語で「これは本当に正しいのか?」と疑問を感じてしまうようなことを平気で書いてくれるので面白い。
例えば第一章の「膜」には「もっとも単純な生物である細菌と、ウイルスの間はほとんど連続的だ。ただリボソームの有無が、つまりタンパク質を自分で合成できるかどうかが、生物と無生物の境界になっているのである」と書かれている。ということは、試験管の中でリボソーム(あらゆる生物の細胞内に存在してmRNAの情報を基にtRNAが運んできたアミノ酸を順に連結させる機能を持つ構造)とウイルスを混ぜ合わせると生命活動を始めるんだろうか?
さらに「細胞は温かい家である」として「家の中の環境は、家の外とは違って快適に調整されている。そして家族は食事をしたりしゃべったりしている。そのためには外から食物や燃料を買ってきたり、ゴミを捨てたりしなくてはならない。つまり家には物質やエネルギーの流れがあるのだ。これを生物学では代謝という」「壁にかかっている設計図は遺伝子、つまりDNAだ。これをもとに新しい家を作る。細胞は自分で家を作って増えていくわけだ」とも書かれていて、ここまではおおむね正しい。しかし、その先の「ウイルスはただの掘っ立て小屋」はどうかと思うぞ。ただの掘っ立て小屋であっても、誰も住んでいなくても家は家、せいぜい死んだ細胞なのではあるまいか。
さらにその先では掘っ立て小屋が倒壊してしまう。「バラバラに壊れた残骸の中から、設計図だけがヒラヒラと風にとばされていく。そして近くにあった美しい家のほうに飛んでいき、たまたま子供が窓をあけたときに、掘っ立て小屋の設計図はその美しい家の中に入っていった」だと……。
S氏の専門は分子古生物学らしいからウイルスについては詳しくないのだろうが、DNAウイルスにしろRNAウイルスにしろ、ウイルスの遺伝子はカプシドと呼ばれるタンパク質の殻に包まれていると思う。地球の環境はむき出しの遺伝子が無事でいられるほど優しくはないだろう。
作者ならば、細胞をおじいさんとおばあさんが住む家に、ウイルスは大きな桃に例えるだろうな。ある日、2人が住む家の前に大きな桃がごろんごろんと転がってくるのだ。おじいさんとおばあさんが桃を家の中に持ち込むと、その中から現れた桃太郎がおじいさんとおばあさんを初めとして家の中にあった食べ物をすべて食い尽くして桃太郎自身を大量にコピーし、平行して量産した大きな桃に入り込むと、家を破壊してそれぞれの方向に転がっていくのでした。めでたしめでたし。〔何もめでたくない! だいたい子どもたちに聞かせていい話ではないぞ〕
もちろん、これは今流行しているコロナウイルスのように、カプシドがさらにエンベロープに覆われ、それに細胞膜に取り付くためのスパイクタンパク質が生えているウイルスでしか成り立たない話だろう。エンベロープを持たない多面体形状のウイルスや注射器のような形のバクテリオファージT2などの場合は別のストーリーがいるかもしれない。
話を戻そう。第三章「骨」には「実は生物はフニャフニャだとうまく動けない」と書かれている。ということは、アメーバはうまく動けない生物なんだろうか? さらに「なぜ金属で歯を作らないのか」としてカサガイの磁鉄鉱でできた歯舌が紹介されていて、「しかし、体内で使われる金属はみんな小さいものである。カサガイの歯舌に並んでいる歯は1ミリメートルもない。こういった微細な構造を除けば、生物は金属を使わない」と言い切っているのだが、深海の熱水噴出孔付近に生息しているウロコタマフネガイ(スケーリーフット)はその足に幅数ミリの磁鉄鉱製のウロコを持っている。この本は2016年発行でウロコタマフネガイが発見されたのは2001年だ。当然知っていなければならないはずだが、完全に無視である。……いやいや、むしろ無知なのかもしれない。S氏の専門は分子古生物学だそうだから、DNAやら化石やらには詳しくても生きている生物についての知識はほとんど持っていないのだろう。それなのに「~だ」「~である」調で語ってしまうという乱暴さがこの人の魅力である。〔褒め言葉になってないぞ〕
それでも第四章「眼」だけは役に立った。「カンブリア爆発と捕食者の出現」というページにはアノマロカリスとハルキゲニアのイラストが掲載されていたのだ。
アノマロカリスは遊泳しながら獲物を狩るタイプの動物だったようだから獲物を見つけるための眼が必要だろう。しかし、背面に2列の棘、腹面には先端に爪が付いている脚を持つミミズのような体型のハルキゲニアはゆっくり歩いて逃げないものを食べるタイプにしか見えない。背面の棘もおそらくアノマロカリス対策だろう。
眼を持っているヒトも真っ暗闇の中では手探りしながらゆっくり歩くだろう。では速く動く必要がないハルキゲニアの眼はいったい何の役に立っていたのか? 三葉虫もだ。彼らは炭酸カルシウムの透明な結晶(方解石)でできた複眼を持っていたらしいのだが、同じ炭酸カルシウムの硬い背甲が完成したらアノマロカリスの缶詰のパイナップル形の歯では囓れなかっただろうし、海底の有機物を含む泥を脚でかき回して口で吸い込むという食べ方なら眼はいらないだろう。触角もあるのだし。また、脱皮してから背甲が固まるまでは無防備だっただろうが、その間は複眼のレンズも未完成なのだからやっぱり役に立たない。アノマロカリスの前部付属肢が届かない岩の割れ目のような場所で脱皮するにしても触角で探れば見つけられるだろう。少なくともカンブリア紀においては三葉虫の眼もオーバースペックで無駄な感覚器官だったような気がする。
ではなぜ、多くの動物がカンブリア紀に眼を獲得してしまったのだろうか? ここからは例によって踏み外しになるわけだが、カンブリア紀においては「眼」や「外骨格」を獲得することが流行していたのではあるまいか? 例えば、ある動物が眼なり外骨格なりを獲得したとする。その動物が死ぬと、その遺伝子が海水中に流れ出しただろう。カンブリア紀の動物たちは、それを素早く丸呑みにして眼や外骨格の遺伝子を獲得するシステムを持っていたのではないかと作者は思う。
現代の動物たちは有機物をバラバラに分解してから吸収する。タンパク質なら各種アミノ酸に、DNAならリボヌクレオチドにというようにだ。しかし、カンブリア紀にはもっとおおらかに、DNAをまるごと吸収したりすることも行われていたのではあるまいか? そうして獲得した遺伝子はそれぞれの動物たちが各自でアレンジして使ってみるということがカンブリア紀では普通に行われていて、その結果がハルキゲニアや三葉虫の眼だったのではないかと作者は思うのだ。
次回予告
カンブリア紀の暴君とシルル紀の覇王が激突する。
次回「アノマロカリス対ウミサソリ」オルドビス紀の大決戦。
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アノマロカリス対ウミサソリ
古生代の海シリーズその3である。
『絶滅動物図鑑』というサイトの「アノマロカリス」のページを開いてみたら、その最後に「……食物連鎖の頂点に位置する動物として世界中の海で繁栄していたと考えられています。しかし、これほど繁栄していたアノマロカリスが絶滅してしまった原因については未だに謎のままとなっています」と書かれていたのだった。「ええっ?」である。アノマロカリスの仲間(ラディオドンタ類)のような不細工な試作品が繁栄できたのは他にライバルがいなかったからに決まっているではないか。カンブリア紀の次のオルドビス紀にはより洗練された補食型節足動物であるウミサソリが現れている。そのことがラディオドンタ類衰退の大きな要因だと作者は思う。
ただし、衰退したとは言っても絶滅するのはまだ先だ。オルドビス紀にはエーギロカシスという全長二メートルに達する濾過食性のラディオドンタ類がいた。プランクトンのような小型の獲物をまとめて補食するという生態だと大型化しやすいし、その巨体を見た捕食者も襲う気になれなかっただろう。次のシルル紀の地層からは化石が見つかっていないらしいが、その次のデボン紀には、まだ生きているのに死んだハンネスという……。〔「シンダーハンネス」だ!〕
シンダーハンネスというラディオドンタ類が生きていた。シンダーハンネスの全長は約10センチ。アノマロカリス・カナデンシスの全長は最大で1メートルらしいから10分の1だ。小型動物は1個体が必要とする食べ物が少なくて済むから個体数を多くして生き残るという手を使いやすい。ライオンやゾウを絶滅させるのは簡単だが、ネズミを1匹残らず駆除するのは難しいのだ。
さて、ここでカンブリア紀の暴君であるアノマロカリスの仲間(ラディオドンタ類)と次のオルドビス紀に大躍進したウミサソリ類を比較してみよう。
(1)遊泳速度
ウィキペディアの「アノマロカリス」のページには「流線型の体型と筋肉に繋いだ大きな鰭を有することから、アノマロカリスは活動的な遊泳動物として広く認められる」「アノマロカリスとアンプレクトベルア科はフルディア科の種類に比べて胴部の鰭が発達しており、これは流体力学解析で高速遊泳に適したと示される」などと書かれている。そう、「比べて」なのだ。アノマロカリスと同じようにひれを波打たせて泳ぐコウイカは前進も後退もできるが、最高速度では尾びれを備えた魚にはかなわない。棘付きの巨大な前部付属肢もキノコ形の複眼も、胴部背面とひれにあったとされる呼吸用の櫛状構造も大きな抵抗源になっただろう。アノマロカリスはライト兄弟のフライヤーのような「最初期の遊泳型捕食者」でしかなかったのだ。
それに対してオルドビス紀に現れたウミサソリは多数の脚による抵抗はともかく、複眼も呼器官である書鰓(しょさい)も埋め込み型だ。また、遊泳性のウミサソリが持っていたオール状の脚はペンギンの翼に相当するだろう。実際に泳がせて比べるわけにもいかないのだが、アノマロカリスよりはウミサソリの方がより高速向きの体型だと思う。
(2)防御力
アノマロカリスは胴やひれの表面で呼吸していたらしい。となると、この部分はウミサソリのように硬い外骨格にしてしまうわけにはいかなかったはずだ。実際、アノマロカリスの化石は前部付属肢と歯以外は痕跡程度のものしか見つかっていない。
三葉虫、アノマロカリス、ウミサソリなどの節足動物の共通祖先は脚が生えたミミズのような動物だったらしい。ゆっくり動くのであれば、えらのような専用の呼吸器官は必要ない。消化管を含めて体の表面でのガス交換で間に合うだろう。三葉虫はより積極的に活動するために歩脚の付け根に櫛状の鰓脚を追加して呼吸能力を確保したまま炭酸カルシウムの背甲を獲得した。それに対してラディオドンタ類は皮膚呼吸のままで遊泳型に進化したのだろう。これは昆虫が脱皮直後の柔らかい体のまま泳ぎ回っているようなものだ。カンブリア紀においてアノマロカリスが最強でいられたのは、その柔らかい体を食いちぎることができる捕食者がいなかったというだけのことではあるまいか。
(3)視力
アノマロカリスの複眼にはマッシュルームのような形だったようだ。これはアメリカザリガニなどと同じで巨大な前部付属肢のために前下方の視界が制限されるから、水の抵抗が大きくなるのを承知の上で可動式にせざるを得なかったのではないかと思う。イラストを見る限りでは濾過食性のエーギロカシスと小型のシンダーハンネスの複眼はドーム型でマッシュルームの柄にあたる部分はなかったようだ。
(4)攻撃力
アノマロカリスの歯は缶詰のパイナップルのような形になっていた。これでは獲物の肉を食いちぎることはできまい。あの歯はミミズのような細長い体型の獲物を確実に消化管に送り込むためのものだろう。それに対して、ウミサソリの前体の下面にあった口は脚で囲まれていて、それぞれの脚の基部は一部の三葉虫と同じように噛み合わせることができる構造になっていたようだ。つまり歯をむき出しにした脊椎動物の口を縦にしたような口である。これなら獲物の肉を噛み切ったり噛み潰したりできる。あまり大きくないラディオドンタ類なら上から脚で抱え込んだままで、その肉を細かく噛みちぎりながら呑み込むこともできたのではないかと思う。
また、アノマロカリスの場合は前方から接近してくる獲物を後方に向かって動く前部付属肢で抱え込むように捕らえることになる。これはヒトがキャッチボールをする時に、通り過ぎたボールを手で追いかけて捕まえるようなものだろう。獲物を確実に捕らえることができる時間はウミサソリの方が長かったはずだ。ああっと、停止寸前まで速度を落とせば、いくらかは時間を稼げたかもしれないなあ。
というようなわけで、カンブリア紀に生まれたラディオドンタ類が衰退してしまったのは、より優れた能力を持つウミサソリがオルドビス紀に登場したからだろうと作者は思う。ウミサソリに補食されないためには大型化するのも有効だ。だからこそエーギロカシスは濾過食に移行してまで大型化するしかなかったのだろう。さらに踏み外すなら、エーギロカシスのひれがX字形に並んでいたのもウミサソリに抱え込まれないようにするためだったのかもしれない。
しかし、大型化という対策が通用したのもオルドビス紀までで、次のシルル紀には顎を持つ魚まで現れた。こうなると小型化して個体数を増やしても生き残ることは難しくなる。1億年に及ぶラディオドンタ類の物語はデボン紀のシンダーハンネスを最後に幕を下ろすことになるのだ。合掌。
次回予告
強くなりたい。
次回「サソリ誕生」武器が欲しい。
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サソリ誕生
作者は長い間、海中で生きていたウミサソリが陸生に移行したのがサソリだと思い込んでいたのだが、どうもそうではなかったのらしい。ウミサソリもサソリも節足動物で鋏角類なのだが、クモガタ類のサソリはクモと近縁で、ウミサソリ(広翼類)とは共通祖先から分かれたという程度の関係なのだそうだ。
金子隆一先生の『ぞわぞわした生きものたち』によると、ウミサソリはオルドビス紀に登場し、シルル紀からデボン紀にかけて栄えた節足動物らしい。その後、石炭紀にはだいぶ衰退し、ペルム紀末に絶滅している。また「ウミサソリは基本的に水中動物である」「なかには陸上で活動できるものもあったが、その多くは生涯を水中(淡水を含む)で過ごし、大半の属では、最後の歩脚がひれ状に変形して水中を泳いだ」のだそうだ。一般に体は大きく、一番小さな種でも全長7センチ、巨大なものでは全長2.5メートルに達する例もあって、これは知られている限りでは史上最大の節足動物だそうだ。
ウミサソリは紙の本のように多数の襞が並んだ構造の書鰓(しょさい)と呼ばれる呼吸器官を持っていた(現代のサソリやクモは書肺という呼吸器官を持っているが基本的な構造は同じ)。これは体の後半部の脚が付いていない部分にあって、より原始的な鋏角類であるカブトガニではむき出しだが、ウミサソリでは腹部のくぼみに移動して付属肢でカバーされていたのらしい。おそらくその方が水の抵抗が少なかったのだろう。つまり、より高速で泳ぐ方向への進化だ。飛行機でも上下の翼の間に支柱や張り線がごちゃごちゃと付いている複葉機よりも、すっきりした単葉機の方がスピードを出しやすいのである。もちろん、高速が要求されないのならカブトガニのようなむき出しの書鰓の方が有利になるだろうが。
また、ウミサソリは1メートル前後の大型種が多かったのに対して、サソリは小型種が多かったとか、ウミサソリには第六付属肢がオールのような扁平な形になった遊泳性の種が多かったのに対して、サソリは現代に至るまで歩くタイプばかりだとかの違いがある。
そして最も大きな違いは、ウミサソリはペルム紀末の大量絶滅を乗り越えられなかったのに対してサソリは現代まで生き残っているということだが、この辺りは中生代末に小型の鳥になっていた恐竜だけが生き残ったのと似ている。食べ物の量が同じであれば、小型の動物は大型動物よりも個体数を多くできる。そうすると個体変異の幅も広くできるので、その分環境の変化に強いのだ。
ウィキペディアの「サソリ」のページも開いてみよう。形態の説明には「体は縦長く、幅狭い前体(頭胸部)と長い後体(腹部)によって構成されており、その間はくびれていない。後体は更に丈夫な中体(前腹部)と細長い終体(後腹部)として区別できる。鋏型の触肢・尻尾のように特殊化した終体・毒針として機能をする尾節が特徴である」と書かれている。そして、ごく一部のウミサソリだけが持っていた鋏は触肢ではなく、その次の第一付属肢が鋏形になったものなんだそうだ。鋏を持っていたプテリゴトゥスの仲間は大型種が多いので、そのイラストによって「ウミサソリは鋏を持っていた」というイメージが刷り込まれてしまったのだろうな。その鋏もサソリのそれに比べて華奢で、サソリほど強い力で挟むことはできなかったようだ。いわゆる「あんなの飾りです」というやつである。
そしてウミサソリは中体から後体にかけて緩やかに細くなっていく種が多いし、毒針付きの尾節を持っていたウミサソリは確認されていない。カブトガニのような尾剣になっているか、うちわのように幅広になっているかのどちらかだったのだ。
またウミサソリには大きな複眼を持った種が多かったようだ。イラストを見るとグラサンをかけたヤンキーという顔つきの奴らが揃っている。それに対してサソリは、初期の種には複眼を持つものもいたらしいが基本的に単眼だ。ということは、昔からウミサソリほどの視力を要求されない生き方をしていたのかもしれない。小型の種が多いことまで合わせて考えると、ウミサソリが活動している昼間は岩陰などに潜んでいて、暗くなってから獲物を探しに出ていたんじゃないだろうか。
獲物を求めて積極的に動きまわったりしないのなら、その分エネルギーを節約できる。サソリについては詳しくないのだが、近縁のクモには獲物が少ない時には代謝を低下させてまでエネルギー消費を抑えることができる者たちもいるらしい。サソリもそういう省エネ型の動物だったのなら、獲物が少なくなる方向への環境変化に対してはウミサソリよりも強かったかもしれない。
あまり問題にされないのだが、口の位置も違っていたようだ。前回も書いたようにウミサソリの口は脚の付け根で囲まれていたのらしい。遊泳性の種でもオール状になっている第六脚の前の数本の脚で獲物を抱え込んで、脚の付け根の噛み合わせ構造で噛み切ったり噛み潰したりしていたのだろう。なるほど、それなら鋏は「飾り」でも問題はないわけだ。
サソリの口についてはまだ確認できていないのだが、クモと同じように歩脚よりも前の位置だとすると、獲物を歩脚で抱え込んだまま食べるのには無理がある。だからこそサソリには大きな鋏形の触肢が必要になったのだろう。多数の歩脚で獲物をホールドする代わりに一対の強力な鋏で捕まえようというわけだ。だとすると、尾節の毒針もクモの毒牙と同じで獲物を素早く仕留めるためのものだったのかもしれない。毒針付きの尾節を持っていたウミサソリは確認されていないという話だが、現代のトンボのような補食のしかたなら毒針はいらないはずだ。おそらくこの辺りの差が古生代末に絶滅するかしないかに繋がったのだろう。
ウミサソリは上に乗って脚で抱え込まないと獲物を食べられない。しかも獲物が抵抗できなくなるまで力任せに捕まえておく必要があったはずだ。それに対してサソリは、強力な鋏で捕まえて毒針を打ち込めば仕留められる。これだとウミサソリよりもわずかだが遠い間合いで獲物を仕留められるから、その分安全でもあっただろう。人間に例えるなら、小さな女の子が毒を塗ったナイフを手に入れたようなものだな。これはウミサソリに対する大きなアドバンテージだったはずだ。
作者は思う。サソリの祖先は、海中をゆうゆうと泳ぐ大型ウミサソリたちのシルエットを岩陰から見上げていたオルドビス紀のちっぽけな歩行型ウミサソリだったのではないか、と。
「……強くなりたい。武器が欲しい。あいつらに負けない武器が……」
それから数千万年。血を吐くような鍛錬を続けた彼女は、獲物を確実につかむことができる大きな鋏状の触肢と、一撃で仕留めることができる尾節の毒針を獲得した。小型で速く泳ぐこともできないまま強力な捕食者であるサソリへと進化したのだ。〔ずいぶん長生きしたんだな〕
次回予告
SFの決戦兵器発動。
次回「世界をこんなふうに……」その名は「もしも」。
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世界をこんなふうに……
故日高敏隆先生の『世界をこんなふうに見てごらん』を読み終えた。なんというか……日高先生は今の作者と同じような心を持っていたんじゃないかという気がした。
カバーには「子供の頃、芋虫と話がしたかった著者。おまえどこにいくの、と話しかけた。芋虫は答えず、葉っぱを食べはじめる。言葉の代わりに見ていて気がつくことで、気持ちがわかると思った。昆虫、猫や犬など動物とおしゃべりするには、観察が一番だとわかった。これが、いきものを見つめる原点」と書かれていた。
さらに本文には「必死ではっている。はうのは筋肉を使っているからだ。そういう話では何もわからない」「少なくともいきものには、なぜその行動をするのか、目的があるはずだ。それを問わなければ何も始まらないではないか」といった言葉が並んでいる。作者がナガコガネグモのお尻をツンツンしてしまったのは3年前でしかないのだが、「おまえどこにいくの」「何を考えてるの」と問いかけたくなる気持ちはわかるような気がする。とは言っても、さすがに70歳近い作者では動物全般を視野に入れるほどの体力はない。せいぜいマイペースでクモ観察をするのが精一杯だ。それでも自宅からロードバイクで行ける範囲内で観察するだけでもわからないことが次々に現れるし、ちょっとしたきっかけで謎が解けることもある。作者は今ほど「知りたい」という気持ちになったことはない(少なくとも大人になってからは)。
さらに「イリュージョンなしに世界は見えない」の章には「赤ん坊を見れば、ほ乳類の子どもだなと思う。魚の子は魚の子だなと思う。ある意味ぼくは、人間特有といわれることには無感覚で、猫は猫、犬は犬、虫は虫と、すべて等しく考えているといえるだろう」と続く。ウェブの辞書を開いてみると、「イリュージョン」という言葉の意味は「幻影。幻想。錯覚、幻覚」だそうだ。そういうものがないと「世界は見えない」というのはよくわからないのだが、要するに、「人間は特別な存在だとは思いませんよ」というのが日高先生の考え方なんじゃないかと思う。作者はこういう考え方が好きなのだが、多くの人間、特にキリスト教が心に染みついている人間たちには理解しにくいかもしれない。故フレッド・ホイル先生ですら世界も生物も神様が火の7日間におつくりになった……。〔違うわ!〕
もとい、はじめに神は天と地をつくり、さらに光をつくられた。空をつくり、大地をつくり、地には植物を生えさせた。太陽と月と星、魚と鳥と家畜をつくり、6日目には神に似せて人間をつくられた、だ。これはつまり、「人間は特別な存在なんだよ」と言ってくれる神様をねつ造したということだろう。こういう便利な神様がいれば、世界を焼き尽くしても許してもらえそうで気が楽なのだろうな。
ちなみに地球の生命についても、地球で生まれたことにすると、ただの有機物が生命に変化するメカニズムまで考えなくてはならない。それに対して「生命は宇宙の彼方で神様がつくられたのだ」ということにしてしまえば、それ以上は何も考えなくていいわけだ。それは楽でいいのだろうが、何もかも神様のせいにしてしまえるのなら科学なんかいらないだろう。
その先の「いろんな生き方があっていい」の章には「動物学では、現在の動物の形が必ずしも最善とは考えない」「そうならざるをえない原因があり、その形で何とか生きているのだと考える」と書かれている。決定。日高先生は非キリスト教徒だ。
少し戻るが「たとえば節足動物は、なぜ節足動物になってしまったか、ということから考える。たまたま祖先がそうだったから、彼らは体節を連ねる外骨格の動物になっていった」「すると体の構造上、頭の中を食道が通り抜けることになり、脳を発達させると食道にしわ寄せがいくようになった」「ではどうしたらいいか」「樹液や体液、血液といった液状のエサを摂ることにした。それが、その形で何とか生き延びる方法だった。節足動物といういきものは、そういう苦労をしている」と書かれているのだが、これは主に昆虫の話だなあ。クモの頭部は胸部の体節と融合して頭胸部になっているからその分脳を大きくできているのだ。なお、キリスト教の神様は節足動物をおつくりになっていない。おそらく、勝手に生まれてしまったんだろう。
話を戻すと、苦労してきたのは昆虫だけではない。首が長くなってしまって森の中にいられなくなったキリンは開けた草原に出てアカシアの葉を食べるしかなかったのだろうし、獲物を追いかけるのが不得意なパンダも逃げることがない笹を食べることにしたのだろう。ヒトにしても直立二足歩行になってしまったから、そのハンディキャップを克服するために石器や知性が必要になったのではないかと作者は思う。
また、節足動物の祖先は体節のあるミミズのような動物だったと言われているらしいのだが、そういう体型だと通常はその先端に口、後端に肛門がある。ところが、三葉虫やアノマロカリスは、人間で言うと胸の辺りに口があるのだ。三葉虫の眼は危険を早期に察知するためのものだっただろうし、海底の泥をすするという生き方なら胸に口があっても問題にならなかっただろうが、アノマロカリスのような捕食者の場合は眼の近くに口があった方が有利であるはずだ。実際、古生代末の大量絶滅を乗り越えられた節足動物は主に昆虫やサソリのように口の位置を再び頭部先端近くに戻したものたちだけだった。
さてさて、ここからは例によって思いつきなのだが、三葉虫やアノマロカリスなどは眼と眼からの信号を処理するための大きな脳を頭部に納めたために口がじゃまになってしまったんじゃないだろうか。言い方を変えれば、「食べる」ことよりも「見る」ことの方を優先したということだ。
サソリや昆虫などは眼の下方に口を置くことで「見る」と「食べる」を両立させることに成功したのだろう。それでもアノマロカリスの仲間は2億年、三葉虫は3億年の間生き続けたのだから大往生と言ってもいいと思う。
ただ、「それは遺伝か学習か」の章の「人間はもともと戦争するようにできているいきものなのか、戦争は避けられないのか。それとも、正しい考え方と正しい環境の中にあれば戦争は起きないのか」「戦争はなくしたいとみな本気で思っている。ないほうがいいと思っているのに起こるのはなぜか」というのはねえ……。もしかすると、この辺りが日高先生の限界なのかもしれない。
しかし、SFには「もしも」という決戦兵器があるのだ。さあ、考えてみよう。もしも1人を残して世界中の人間が死滅してしまったとしたら、その最後の1人は戦争ができるだろうか? これは絶対に不可能である。なにしろ戦うべき敵がいないのだから。つまり、戦争をなくしたいのなら、敵が存在しないという状況にしてしまえばいいのだ。……とは言っても、そこに宇宙人が攻めてきたりしたら、やっぱり戦争になってしまうんだろうかなあ……。
次回予告
ギンコガネグモの体長は12ミリ。ショウジョウバエは3ミリ。
次回「誘引説のトリック」謎はすべて解けた。
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誘引説のトリック
作者はつい最近、アメリカ版のウィキペディアでArgiope argentata(和名はギンコガネグモ)の雌成体の体長が12ミリという情報を見つけた。「エウレカ!」である。これでクレイグとバーナードが1990年に発表した「隠れ帯の誘引効果説」論文の基になった実験がどういうものだったのかがほぼ明らかになったと思う。予想通り、実験は不適切だったし、論文には幼稚なトリックを使っていたようだ。
さて、まずは『SPIDER DATA』というサイトの「「〇〇〇〇〇」の不思議」という記事を紹介しよう。
「ナガコガネグモの円網の中央には太い白帯が付けられています」この白帯(はくたい)というのは、網の中央にいるナガコガネグモの上下にI字形に付けられている幅広のジグザグ帯だ。
「ナガコガネグモだけではありません。コガネグモやゴミグモ、ウズグモの仲間の網にも白帯が見られます。このような白帯を「隠れ帯」と名づけたのは日本のクモ学の先駆者岸田久吉博士でした」として、いままでに発表されてきた仮説が並べてある。
(1)白帯がクモの体を天敵の眼から効果的に隠している。(隠蔽説)
(2)網を破られないように、鳥に対して威嚇している。(威嚇説)
(3)網を張り終えた後、網の不具合を調整している。(調整説)
(4)網を補強している。(補強説)これはファーブル先生の仮説だそうだ。
(5)同じクモが白帯の形を変えることによって、天敵に学習されるのを防いでいる。(困惑説)
(6)脱皮室や住居の名残りで、現在は単なる飾りになってしまっている。(痕跡説)
(7)水分を集める。(集水説)
(8)太陽光線を避ける。(日傘説)
なんとまあ、作者はナガコガネグモとコガネグモを1シーズン観察しただけで隠れ帯の機能を理解したというのに……。いやいや、作者のように野生のクモに積極的に手を出して、その反応を観察するというやり方の方が邪道なのかもしれない。クモ観察の正しい作法を先生様に教えていただいたわけでもないのだし。まあ、正しいやり方をしなかったからこそ正しい答にたどり着いたわけだが。なお、茨城県に生息しているクモは他の場所にいるクモとは違う性質を持っているという可能性も否定はできない。作者の観察結果と解説書などの記述が一致しないということは珍しくないのだ。
さてさて、その先でいよいよ、問題のインチキ論文が出てくる。
「白帯の意義については以上のように多くの考察がされてきましたが、実験による決定的な証拠を欠いていました。自然は観察しているだけではその正体を見せてくれない場合があります。白帯の研究でも実験が必要でしたが、1990年にユニークな研究が発表されました」「研究したのはアメリカのクレイグさんとバーナードさんで、コガネグモの一種Argiope argentataで白帯があるほど昆虫がよくかかること(誘引説)を証明しました。実験に用いた昆虫はショウジョウバエで、ハエの捕獲率は網だけの場合に比べて白帯があれば1.5倍、白帯とクモがあれば1.7倍にも上がりました。白帯は昼行性のクモの網にしか見られないことから、その意義が太陽光線に関係していることは予想されていましたが、昆虫がわざわざ寄ってくるとは! 昆虫の目には白帯やクモが花同様に見えるのでしょうか。あらためてクモの網の巧妙さに感心させられます」だと。
なるほど、そこらの無責任なウェブサイトや紙の本でよく見る「隠れ帯が花に見える」説の出所はこの人だったんだな。実に迷惑な話だ。発表された仮説は追試もせずに信じてしまえばいいということなら、日本のクモ学は科学ではない。宗教だぞ。
この論文の第一の問題点は、この実験で「誘引された」のは「ショウジョウバエ」であって「すべての昆虫」ではないことだ。ウィキペディアの「ショウジョウバエ」のページには「多くの種は体長3ミリ前後」「自然界では熟した果物類や樹液およびそこに生息する天然の酵母を食料とする」と書かれている。これでは誘引される理由にはならないだろう。さらに、この論文ではさりげなく「ショウジョウバエ」を「昆虫」に替えてしまっているのだ。これでは注意して読まないと「昆虫が誘引された」と思い込んでしまうだろう。これは初歩的な詐欺の手口である。
第二に、これは未確認なのだが、紫外線を反射しない隠れ帯での実験をした様子がない。あるいは、紫外線を反射しないものにも誘引されてしまったので、やらなかったことにしたのかもしれない。
日本のクモの研究者はなぜ、こんなすぐわかるような幼稚なトリックに引っかかってしまうんだろう? 論文の著者の良心を信じているのか? あるいは、アメリカにいるクモだからアジアやヨーロッパの研究者には追試ができなかったということなのかもしれない。さらにアメリカの研究者には偉い偉いクレイグ様の逆鱗に触れるとクモ研究の世界から追放されてしまうというような事情があるのかもしれないし、クモをダシにしてお金を稼いでいるプロの論文屋さんなら長いものには巻かれていた方が楽なのかもしれない。
作者は論文屋ではないので、あえて言ってしまうが、もしも作者が「ギンコガネグモとショウジョウバエを使って1.5倍と1.7倍というデータを取得しなさい」という課題を与えられたとしたら、作者はまず、縦横高さがそれぞれ200ミリの飼育箱を用意する。そして、その中に入れたギンコガネグモが隠れ帯付きの網を張ったら、ショウジョウバエを4万100匹入れる。これは飼育箱の内側の面積が24万平方ミリだから、ショウジョウバエ1匹がとまるのに必要な面積を6平方ミリとして、飼育箱の内面全体がショウジョウバエで覆い尽くされても、とまる場所がないショウジョウバエが出るだろうという計算だ。翅を休められる場所がないショウジョウバエはしかたなく隠れ帯にとまろうとして網にかかってしまうというわけである。後は結果をチェックしながら条件を微調整すれば、必要な数字を得ることができるだろう。
「1.5倍」にしろ「1.7倍」にしろ、数字は嘘をつかない。しかし、人間はその数字を作り出すこともできるのだ。
プロにとってはどうでもいいことなのだろうが、追試もしていない論文を褒めちぎってアマチュアに迷惑をかけるのはやめていただきたいものだと思う。
次回予告
彼らは何を考えているのか。
次回「それぞれの知性」チンパンジーとイルカとジョロウグモ。
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それぞれの知性
今回読んだのは松沢哲郎先生の『チンパンジーの心』と村山司先生の『イルカと心は通じるか』である。
『チンパンジーの心』の方は、ボッソウのチンパンジーが石器を使ってアブラヤシの種を割ること(台石を水平にするために第三の石をその下に置くことまでする)や利他行動を観察したという話からチンパンジーとヒトの新生児で運動能力の発達過程を比較したり、数や記号、さらに漢字やアルファベットまで教える話に繋がっていく。この本で特にいいのは松沢先生がチンパンジーを1人、2人と数えているところだな。また、ヒトとチンパンジーで観察される利他行動がニホンザルでは見られないことと、逆にニホンザルの新生児ができる寝返りがヒトとチンパンジーの新生児にはできないという辺りも非常に興味深い。
一方、『イルカと心は通じるか』では、イルカの脳は大きいとか、片脳ずつ眠るとか、「マネしなさい」がわかるとかの話から「近縁はカバだった」と続いていく。「分子生物学の発達によって生化学的な手法で鯨類と最も近縁な動物は偶蹄類のカバであることが明らかになったのだ」そうだ。今では鯨類は「鯨偶蹄目」とするのが一般的になってきているのらしい。まったくもう……油断していると科学に置いて行かれてしまいそうだ。
こちらの本でもイルカにフィン(足ひれ)、マスク(水中メガネ)、金属のバケツ、長靴を表す記号をシロイルカのナックに教えている。しかし、フィンやマスクを見てそれを表す記号を選ぶことはできるのに、逆に記号を見てフィンやマスクを選ぶことができない……と思っていたら、10年後にはいつの間にかその「逆を選ぶ」ができるようになっていた、とも書かれている。こういう予想外のことが起こるのも生物研究の面白さだと作者は思う。
ただし、そういう研究ができるようになるまでは大変だったらしい。4年間失業していたんだそうだ。「ある日、家でこんなやり取りをしたことがある」として「お湯を沸かそうとガスコンロにかけたやかんの底から炎がはみ出している。それを見て「火を弱めないと、もったいないんじゃない?」と言う家内」。それに対して、「でも、火を弱めればそれだけ沸くまで時間がかかるからおんなじだよ」と言う私」「たわいのない会話だが、ガスコンロの火の強さも気にかける生活。失業とはそういう暮らしである」のだそうだ。ちなみに熱効率を考えれば、弱火の方が正解のような気がする。
話を戻そう。この2冊の本に共通しているのはチンパンジーやイルカに人間にも理解できる記号(言葉)を教えていることだ。宇宙船に乗ってやって来たヒューマノイドタイプの宇宙人相手なら、一時期流行したように、いきなり素数列を送信するというやり方も通じるかもしれないが、地球人が他の星系に進出するようになると、いつかは知性は備えているが素数は知らないような地球外生命体に出会ってしまうこともあり得るはずだ。これらの研究はそういう出会いがあった時に役立つだろうと思う。まあ、そういう出会いが10年後や20年後に起こるというものでもあるまいし、「素数を知らずんば知性体にあらず」と知らん顔をするという手もあるのだろうが。
さてさて、ここから先はノンフィクションである。
作者は近所で出会ったナガコガネグモのお尻をツンツンして網を揺らされて以来、趣味でクモの行動を観察しているのだが、ある日観察したのが1匹のオニグモの幼体が隣の網から侵入してきた(侵入させたのは作者だが)別のオニグモ幼体に対して強く網を弾く行動だった。これは通常、獲物に襲いかかる前に獲物の位置を測るための行動だとされている。しかし、このオニグモは襲いかかる様子を見せなかったし、侵入したオニグモもすぐにその網から出て行ったのだ。これではまるで「出て行きなさい」という警告である。また、侵入したオニグモもそれが警告であることを理解していなければ出て行かないだろう。つまりこれは網の振動を使った簡単な言語ということになる。〔単なる偶然という可能性は?〕
すべての出来事を偶然で説明できるのなら科学はいらない。だいたい、それでは面白くないし。
ウィキペディアの「クモ」のページを開いてみると、「糸で網を張るクモも網を張らないクモもおおむね巨大な脳を持っていて、網を張る張らないで目立った差はない」と書かれている。昆虫では頭部と胸部の体節が分れているのだが、クモでは一体の頭胸部になっている。その中に納まればいいのだから、昆虫よりは脳を大型化できるわけだ。それならめったに使うことのない言語用のスペースが用意されていても不思議はあるまい。
また、一般的な実験だとは言わないが、作者はクモの網にそっと触れてみるというのもよくやっていた。これに対してジョロウグモ、オニグモ、ゴミグモ、マルゴミグモは試験管ブラシのような触肢で触れてくることがある(個人的に「もしょもしょ行動」と呼んでいる)。特にゴミグモ婦人と名付けた個体は、作者が網に触れると必ず近寄ってきてもしょもしょしてくれるまでになった。クモは凄腕の捕食者であるのと同時に、より上位の捕食者からは狩られる立場でもある。生きていくのに必要な行動は「狩る」と「逃げる・隠れる」だろう。「危険はなさそうだからもしょもしょしてみる」というのは第三の行動である「遊び」と言えるのではあるまいか。
そして、コガネグモ科のような強力な捕帯を持っていないジョロウグモは、いきなり牙を打ち込んで、その毒で獲物を仕留める。これはかなり危険なので、体長10ミリクラスの幼体は自分の体長の半分以下の獲物しか補食しようとしない。ところが、ウィキペディアの「ジョロウグモ」のページには「大型のセミやスズメバチなども補食する」と書かれているのだ。「んなわけあるかい!」と思っていたところで見つけたのが飛べないほど衰弱したスズメバチだった。作者はこれ幸いとバンダナで包んで拾い上げ……。〔非常に危険です。よい子も悪い子も真似しちゃダメ〕
それを近くにいたジョロウグモの網に放り込んでみた。するとこの子はスズメバチの背面に取り付いて、右の羽の付け根に牙を打ち込んだのだった。スズメバチは右の前脚を何度も背中にまわすのだが、彼女には1ミリほど届かない。もちろん腹部後端の針も大顎も届きはしない。ここしかないというポイントである。ただし、ここまでなら「羽の付け根を狙うべし」という本能のプログラムで説明できる。
しかし、それから40分ほど後に作者が気付いた時、この子は牙を打ち込む位置を1ミリほどスズメバチの頭部側に移していた。そして、その右第一脚はスズメバチの右前脚を押さえ込んでいたのだ。スズメバチは完全に抵抗を封じられた形である。この体勢になったことまでも本能や偶然で説明してしまう勇気は作者にはない。
次回予告
血も凍る恐怖。
次回「死の抱擁」わたしは冷たい女。
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死の抱擁
『ニュートン』誌の2022年6月号に「ブラックホールのパラドックスが解けた」という記事が掲載されていた。ご丁寧に「ホーキング博士が指摘した矛盾が理論的に解決された」というサブタイトルまで付けてある。
イギリス、サセックス大学のカルメット博士らは、「仮想的な素粒子である重力子(重力を伝える素粒子)を導入し、この重力子のふるまいを詳細に検討した。その結果、ブラックホール内の情報がこの重力子を通してわずかに周囲の空間にもれでてくることを見いだした。これは、ブラックホール内の情報が完全には消失せず外の重力場に痕跡が残ることを示すという」ことらしい。要するに作者が仮想光子タキオンを想定したように、重力子を使ってパラドックスの「ごく一部」を解決したというわけだ。しかし……これは「完全な解決」ではあるまい。例えば、数行だけを残して後は黒く塗りつぶされていたとしても、この雑誌が存在する価値があるだろうか? だいたい「博士らは、今回の成果は、現代宇宙論を大きく前進させるだろうとのべている」と書いてあるところを見ると論文を書いた方も完全に解決できたとは考えていないのだろう。重力子が発見されたわけでもないのだし。
さて、本題に入ろう。今回読んだのは斎藤成也先生の『人類はできそこないである』である。この本のテーマは木村資生先生が1968年に提唱した中立進化論(中立説)の観点から人類の進化を再検討するということらしい。作者は「人類が直立二足歩行を始めなかったとしたら現在の地球環境はどういうものになっていただろうか」と考えてしまうような人間なので、いろいろと共感できる内容だった。分子古生物学者のS氏のように「~だ」「~である」と決めつけないで、主に「~だと思う」という語尾を使っているのも好印象だ。
ちなみに中立説については「1969年にはアメリカのジャック・レスター・キングとトーマス・ジュークスというふたりの研究者がさまざまな分子データ(タンパク質のアミノ酸配列データ)の解析結果を示し中立説を主張しました。現在ではひろく支持されています」「突然変異はなんの脈絡もなく起こるため、進化に有利なものもあれば不利なものもあります。大多数の変異は生物の進化に有利でも不利でもなく、中立なもの。それが偶然広まった結果進化が起こる、というのが中立説の主張です。要するに「たまたま運良く生き残って受け継がれた結果が進化である」というわけです」と説明されている。つまり人類の直立二足歩行も単なる偶然の結果という考えた方なんだろう。
また、この本の「はじめに」では「進化も退化もただの変化とはいうものの、欧米の研究者の大多数は「人間はもっとも優れた生物」であり、進化の過程でほかの生物よりも高度な能力を獲得してきたと考えています。私から見ると、一般の人よりむしろ人間の進化に興味を持って研究をしている人のほうが、そういった傾向を持っているように思います」として、その理由にキリスト教的な価値観を挙げている。聖書に「神は御自分にかたどって人を創造された」と書かれていることが、「神に祝福された人間がほかのあらゆる動物よりも優れている」という人間中心主義に繋がっていくという記述から、1992年にローマ教皇庁がやっと天動説を放棄して地動説を正式に認めたという事実までが語られる。ガリレオ・ガリレイに対する有罪判決が間違いであったことを認めるのに400年もかかったのだ。さらに「生物進化の研究と宗教は、切り離して考えるべきものだと私は思います」「人間はなんら特別な生物ではありません。むしろ「できそこない」ですらあるのです」というわけだ。確かに、困ったときは「主」を持ち出せばすべて解決できると考えているような人間は科学向きではないだろう。
とはいえ、個人的には「人間はもっとも優れた生物である」という考え方にもメリットはあるんじゃないかと思う。「俺らは神様に似てんだから」という意識があれば、人間以外の生物を皆殺しにしても罪悪感を覚えなくていい。それどころか、「あいつらは人間じゃねえ」と考えれば、平気で人間を殺すこともできるだろう。いわゆる免罪符というやつである。キリスト教は殺人や自然破壊を正当化するために生み出された宗教であるのかもしれないと作者は思う。ああっと、キリスト教が生み出されなかった世界をテーマにしたSも面白そうだな。あるいは、エジソンもダーウィンも宗教裁判で有罪を宣告されてしまう世界とか……。
ただし、『人類はできそこないである』にもこういう表現をしてもいいのかいなという記述はある。第一章の「真核生物が進化する上での大きな特徴は、酸素呼吸を通じて効率よくエネルギー生産を行うことができる「ミトコンドリア」と、酸素を作り出す光合成を行う「葉緑体」を獲得したことです」がそれだ。作者も人工光合成のニュースを読むまで間違った認識でいたのだが、光合成の本質は植物が光のエネルギーを使って水分子を分解することなのだ。その目的は二酸化炭素を還元して有機物を造るために必要な水素原子を得ること。つまり、植物にとって酸素分子は排泄物でしかないのである。排泄物だからこそ植物は体外にほいほいと酸素を放出しているわけだ。過激な表現を使えば、「動物は植物のウン〇で呼吸している」のである。まあ、斎藤先生の専門は遺伝子の面から見た人類の進化らしいから、光合成の本質を知らなくてもしょうがないだろう。
ここでもう一歩踏み外してみようか。無理があるのは承知の上だが、大気の主成分が窒素と水素とわずかな量の二酸化炭素で表面温度がマイナス数十度の地球型惑星があったとしたら、その星は液体アンモニアの海を持っている可能性がある(水は氷になってしまう)。そんな惑星で光合成を行う植物が生まれたとしたら、彼らは酸素分子ではなく、窒素分子を排泄するだろう。窒素は極めて安定した分子なので呼吸にはおそらく使えないはずだ。となると、この惑星で生まれた動物は酵母のように発酵によって糖からエネルギーを得る嫌気性呼吸を行うことになるはずだ(乳酸発酵というのもあるのだが、健康的過ぎるので却下)。つまりエタノールを排泄する異星人が存在する可能性があるわけだ。それなら、悪い地球人が液体アンモニア生物の女の子を拉致監禁して、せっせとエタノールを排泄させるというお話が作れるんじゃないかと思う。〔飲むのか、それを?〕
気にすることはない。酒に含まれるエタノールにしても酵母の排泄物なのだから。どうしても「排泄物」というイメージが嫌だというのなら「汗」ということにしてもいい。〔なめ回すのか?〕
……このお話のラストは、隙をついて部屋を抜け出した女の子が、そのマイナス数十度の体温を活かして、男が凍死するまで抱きしめるシーンになるだろう。タイトルは『液体アンモニア女の恐怖』だな。〔悪いのは地球人の方だろうに〕
次回予告
翼を広げて。
次回「飛べ! ケツァルコアトルス」……無理……かもしれない。
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飛べ! ケツァルコアトルス
平山廉先生の『新説 恐竜学』を読んだ。いやはや、恐竜はいまだに竜盤類と鳥盤類に分けられているんだねえ。恐竜の骨盤は腸骨・座骨・恥骨という3つの骨の組み合わせてできていたらしいのだが、「鳥盤類の骨盤は恥骨が後ろ向き、竜盤類の骨盤は恥骨が前向きになっている(一部に例外の恐竜も存在します)のが特徴です」と書かれているのだ。
作者は竜盤類と鳥盤類の恥骨の構造はトポロジー(位相幾何学)的には同じものであると思う。例えばティラノサウルスの恥骨は横からだとハンマーを斜め下向きにしたような形に見えるのだが、これは実際には左右の大腿骨がはまり込む寛骨臼から柄が伸びたハンマーのヘッド部分がくっついていて、前方から見るとV字形を成している。トカゲの総排泄孔の位置からの類推だが、竜盤類恐竜の排泄物や卵はこの2本の柄の間を通って総排泄孔へ向かうのだろうと思う。そこで、このハンマーの柄をめいっぱい短くして、さらにハンマーヘッドのしっぽ側だけを座骨と同じくらいまで長くする。これで鳥盤類の恥骨のできあがりだ。つまり、恥骨の向きを変えるのではなく、各部の寸法を変えるだけで鳥盤類の骨盤になるのだ。この場合、排泄物や卵はハンマーヘッドの下を通ることになるだろう。竜盤類と鳥盤類の中間型の恐竜は卵詰まりや便秘になりやすいので非常に生き残りにくい。種を存続させていくためには、竜盤類のままでいるか、一気に鳥盤類にまで進化してしまうかする必要があったのだろう(恥骨の先端が離れていた竜盤類恐竜もいたようだが)。これが竜盤類と鳥盤類の中間型の恐竜が発見されていないことの原因だろう。
さて本題に入ろう。
朝日新聞のサイトに「ケツァルコアトルスは飛ぶのが苦手? 史上最大の翼竜に新説発表」という記事が掲載されていた。「翼を広げた長さが10メートルとされる史上最大の翼竜ケツァルコアトルスは、グライダーのように滑空飛行する能力も低かった……。こんな研究結果を、名古屋大や東京大などの研究チームが発表した。航空力学にもとづいて計算したところ、少しは飛べたが、ほぼ陸上で暮らしていた可能性もある。一方、同じ翼竜のプテラノドンは大空を飛び回る能力が高かったという」ことだそうだ。
それはいいとして、「ケツァルコアトルスは、立ち上がると頭の高さが約6メートルになり、キリンに匹敵する大きさだったと推定されている翼竜だ」という記述の脇に掲載されている後肢2本で立ち上がったケツァルコアトルスのイラストはいったい何なんだ? まあ、ケツァルコアトルスの全身骨格はまだ発見されていないようだから何とでも言えるし、どんな復元画を描いても許されるのだろうが、翼竜は爬虫類なのだから地上では前肢も使って四足歩行していたと考えるべきではないのか? 翼竜が後肢と前肢を使って着地した時の足跡化石も見つかっているらしいぞ。
さらに「チームは、滑空能力について体重や翼の長さ、面積をもとに航空力学に基づいて計算。ケツァルコアトルスやプテラノドンといった翼竜と、現生の鳥のカリフォルニアコンドルやワタリアホウドリなどを比べた」「ケツァルコアトルスのデータは、滑空飛行が得意だったとの説を唱える研究者が推定した体重259キロ、翼を広げた長さ9.64メートル、翼の面積11.4平方メートルを使って計算すると、現生鳥類に比べ、2倍以上強い上昇気流が必要という結果になった」と書かれている。まったく飛べなかったというわけではないが、長距離を飛ぶのは難しかったのではないかということらしい。
ちなみにプテラノドンの体重は約18キロから37キロと推定されているらしい。翼開長が5メートルから6メートルくらいなので「上昇気流に乗って空に飛び上がり、滑空する能力が高いことがわかった」のだそうだ。
念のために調べてみると、ケツァルコアトルスの翼は、航空機と同じ断面形だったとして「体重も最初は70キロくらいと考えられていましたが、この構造がわかって200キログラムでも大丈夫と変更されたのです」としているサイトもあった。要するに、飛べたと思いたい研究者は軽めに見積もり、飛べなかったことにしたい研究者は飛べなくなるような体重にしたがるということらしい。ケツァルコアトルスの化石は上腕の骨と頭骨(その他に未確認の首の骨)くらいしか見つかっていないので、ある程度自由に復元できるのだろう。
個人的には飛び立つことさえできれば、後は翼面積を大きくするとか、飛行速度を上げて揚力を稼ぐとかすれば滑空できるかもしれないとは思うのだが、200キロを超える体重では飛び立つこと自体が難しいだろう。大型鳥類のコンドルは羽ばたきながら助走して離陸するらしいのだが、翼竜の股関節はトカゲ型なので走るのには向いていない。大型の翼竜は肘と膝を曲げた体勢から四肢の力でジャンプして離陸したとされているのだが、それでも259キロは重すぎるだろう。200キロということにしても、人間で言えば体重70キロの人が130キロのバーベルを背負った状態で、少なくとも1メートルくらいはジャンプするようなものになる。不可能だとは言い切れないが、かなり無理があると思う。
ところが、ケツァルコアトルスが属しているアズダルコ類の化石はアルゼンチン、モロッコ、ヨルダン、ウズベキスタン、ルーマニア、イギリス、アメリカ、ロシアから発見されているのだ。これは白亜紀に存在した内海の岸に沿って分布しているということらしい。さらに、その体型はどう見ても飛行する動物のそれだ。そういう体型で泳いだとか、海岸沿いに歩いて行ったというのも考えにくいから、少なくともアズダルコ類の祖先は飛べたはずだ。ウィキペディアにも「ケツァルコアトルスの体は他の翼竜と同様に骨の内部が空洞になっており、軽量化されていた」と書かれているし、地上性だったと言われている大型翼竜の骨は構造が強化されていたのだそうだ。
というわけで、ケツァルコアトルスには「飛ぶのは難しかった」と言える要素と「飛べたはずだ」と思いたくなる要素が混在しているということになる。この二つを両立させることができれば問題解決というわけだ。
そこで、プテラノドンは飛べたということなら、ケツァルコアトルスもそれくらいの成長段階までなら飛べたと考えたらどうだろう? それ以上に大きくなったら地上を歩く生活に移行すればいいのではあるまいか。
しかし、そうなると新たに「飛べねえ翼竜はただのトカゲだ」問題が発生する。飛び立つことができない翼竜など大型肉食恐竜の餌でしかないわけだ。もしかしたら、捕食者に襲われたケツァルコアトルスは一時的に直立して翼を広げ、その巨大なシルエットで威嚇して撃退していたのかもしれない。〔小型の肉食恐竜の群れに囲まれたらアウトだぞ〕
群れるような小型恐竜なら逆に補食してしまえばいいだろう。
次回予告
迷信に支配されている暗黒大陸だ。
次回「クモ学の世界 その1」光あれ!
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クモ学の世界 その1
またまたクモの解説書を購入してしまった。クモ関係の本は少ないので、見つけたら読んでみることにしているのである。
この本の著者は紫外線写真の専門家ということで写真が多い本だったのだが、最後に引用文献がずらりと並べられているという形式なので、そこに書かれているのが著者自身による観察結果なのか、文献を鵜呑みにしているだけなのかが判別しにくい。角を14ヶ所も折ったから無駄な本ではなかったのだが、作者の観察結果と矛盾する記述も多いので、一切信用せずにネタにさせてもらうことにする。
まずは19ページの「ジョロウグモの一生」。ここには「ジョロウグモの大きさにはバラツキがある。餌を多く食べたジョロウグモは大きくなり、早く成体になる」「餌の確保が少なかった場合は、遅い時期に成体になる」と書かれているのだが、作者の生息域ではこういう観察結果は得られていない。ジョロウグモはもともと頭胸部が小さくて腹部だけが大きいタイプ(作者は「平民体型」と呼んでいる)と頭胸部も腹部もより大きくなるタイプ(同じく「女王様体型」と呼んでいる)の間で連続的な体型の変異が見られるのだ。体の大きさだけではなく、体型の個体変異の幅もかなり広いのである。それはもちろん、命を繋いでいくという面で有利だからだろう。
コガネグモ科のクモは捕帯(伸びない糸の束)を巻きつけて獲物の動きを封じてから牙を打ち込んで仕留めるという狩りを基本とする。しかし、ジョロウグモの捕帯は糸の本数が少なくて、仕留めた獲物を網に固定する時の補助に使える程度でしかない。したがって、ジョロウグモは獲物に直接牙を打ち込んで仕留めるという狩りをすることが多い。牙が届く間合いに入れば獲物からの反撃も受けやすくなるわけで、ジョロウグモはナガコガネグモやオニグモなら難なく仕留めてしまうような大きさの獲物に対しても安全確認に長い時間をかける。「危険だ」と判断した場合には獲物を網から外してしまうということもよくある(これはオニグモなどでも見られる行動だが、ジョロウグモの場合、その閾値はオニグモよりもはるかに低い)。
作者が実験した範囲では平民体型のジョロウグモがためらいなく飛びついてくる獲物の大きさは同じくらいの体長のナガコガネグモの5分の1くらいでしかなかった。クモは基本的に安全に仕留められるような獲物だけを狩るのだが、ジョロウグモは特に小型の獲物を好むのだ。
しかし、平民体型の場合は比較的少数の卵しか産めないというデメリットが生じるはずだ。また、あまり現実的ではないと思うが、大型の獲物ばかりという環境では飢えることにもなりかねない。そういう場合のために控えているのが頭胸部が大きい(おそらく牙も大きいのではないかと思う)女王様体型の子たちなのだろう。実際、平民たちが秋のうちに産卵していくのに対して、年末になっても産卵していないのは女王様が多いようだ。ジョロウグモは個体変異の幅を広げることによって、少しくらい環境が変化しても確実に子孫を残せるように備えているのだろう。
次は23ページ。「白い卵囊は近くで母親が守っている場合が多い」ということなのだが、具体的な種名が書かれていない。例えばジョロウグモの卵囊も白いのだが、20ページには「沖縄では2回産卵するが、関東地方では産卵は1回である」としている。卵囊を守っていたら2回目の産卵はできないだろうし、作者は卵囊の側にいるジョロウグモすら見たことがない(これを書いた後に1匹だけ見つけたが)。
今のところ、作者が卵囊の側にいるクモを観察したのは1匹のナガコガネグモだけである。しかも、この子はよたよたと卵囊から離れようとしていた。当たり前だ。円網を張るクモが円網を離れたらほとんど無力なのである。卵囊の側にその目立つ腹部を晒していたのでは「ここに栄養たっぷりで無抵抗の卵がたくさんありますよー」と宣伝しているようなものだろう。
クモは一般的に呼吸能力が昆虫よりも低いのらしい。獲物を仕留める時にも必要なだけしか動かないし、手間取った場合でも適当に休憩を挟みながら仕留める。しかし、彼女らも卵囊を造る時だけは長時間休みなく働き続けるのだ。クモが卵囊の側にいた場合は、第一に疲れて動けなくなっている可能性を検討するべきだろう。
そして72ページの「コガネグモの仲間の隠れ帯については諸説がある。X字状の隠れ帯は餌をおびき寄せるためで、直線上の隠れ帯はクモの居る場所を分かりにくくして捕食者から身を守るためであるという説が一つの方向を示しているようである」というのもあやしい。ご丁寧に、その上にはカラシナの花と隠れ帯を付けているコガネグモの紫外線写真が並べてあるのだが、ユリ科の花びらは6枚、バラ科なら基本的に5枚なのに、わざわざ花びらが4枚の花の写真を並べる辺りに読者の心理を誘導しようという意図が見えるようだ。
作者は2022年6月にコガネグモが4本の隠れ帯を中央部で繋いで完全なX字形にしているのを観察したことがある。この子はその翌日に脱皮して、2日後には隠れ帯を下側2本だけにしていた。
脱皮前のクモは食欲が減退する。それは脱皮に備えて古い外骨格の下に隙間を作る必要があるからだろう。ここで誘引説が正しいと仮定したならば隠れ帯は付けないはずである。そして脱皮後、外骨格が硬化した後には食欲が回復する。したがって、この時にこそ完全なX字形にしなければならないはずだ。しかし、現実には逆になっている。これでは「誘引説」どころか「排斥説」が必要だろう。こういう本を書く人間は、正しくない論文をろくに追試もせずに鵜呑みにして、それを支持するような写真を意図的に選んでいることが多いので油断できないのだ。まあ、「おまえの生息域のコガネグモは天邪鬼なのだ」と言われたらそれまでだが。
その隣には隠れ帯を付けているナガコガネグモの幼体を腹側から撮った写真と隠れ帯の紫外線反射で姿が見えにくくなった写真も並べてある。これもあざとい。円網の中央部にも隠れ帯を付けるのは若いナガコガネグモ(体長12ミリ以下くらい)だけで、それ以上になるとI字形の隠れ帯を上下に付けるようになる。そしてナガコガネグモの場合も空腹の時には隠れ帯を付けず、獲物を食べると下側に、さらに食べると上側にも付けるのである。
排斥説ならば、なぜX字形とI字形があるのかも説明できる。コガネグモの幼体は越冬できるので2年かけてオトナになる。その分、獲物を少しくらい余計に減らしても問題ないわけだ。ナガコガネグモは基本的に春からの数ヶ月間でオトナになる必要があるのでX字形にするわけにはいかないのだろう。
このように、現在のクモ学の世界というのはいまだに迷信に支配されている暗黒大陸なのである。ならば、汚れなき眼を持つ者は声をあげねばなるまい。「光あれ!」と。
次回予告
世界中の研究者に否定されようとも。
次回「クモ学の世界 その2」作者は作者自身の眼を信じる。
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クモ学の世界 その2
作者は殺したクモの生殖孔を観察するための顕微鏡など持っていないし、クモの糸の物理的性質を計測するための設備を使える立場でもないし、クモを観察するために東南アジアまで行くほどのお金もない(実はパスポートの期限も切れている)。観察対象もナガコガネグモ、コガネグモ、ゴミグモ、オニグモ、ジョロウグモくらいだ。いずれも日本では珍しくないクモばかりである。しかし、作者のようにクモに積極的に獲物を与えて、それに対する反応を観察し、それぞれの種の行動の違いは何によって生じるのかを推理したりするというやり方は一般的ではあるまい。誰もやらない研究ならば作者がやるしかないのである。
さて、今回もA氏の本からネタを拾ってみよう。まずは7ページの「多くの餌を食べたクモは体も大きくなり大きな網を張るようになる。餌の量が少なければ、網を張る場所を移動する」から。これは一見正しそうではあるのだが、どうもクモが引っ越しを決意する理由はそれだけではないようなのだ。作者は、近くに雄がいないオニグモの亜成体が姿を消したのを2件と、雄亜成体の隣に雌の亜成体が引っ越してきたのを1件観察している。というわけで、今のところ、オニグモの雌亜成体は「夫を求めて三千里」の旅に出る場合もあるのではないかと作者は考えている。
また、2021年には幅2メートル、長さ20メートルくらいのツツジの植え込みにナガコガネグモの若い雌が次々に現れ、体長15ミリほどになると姿を消していくというのも観察している。これも何故そこに集まるのか、なぜ旅立っていったのかがわかっていない。
クモ学の世界には「雄成体は雌を求めて旅に出る」という都市伝説があるらしいのだが、クモは昆虫のような羽を持っていない。近くに異性がいない場合には異性を求めて歩いて行かないと交接できないわけだ。そこで問題になるのは第一に脚の長さではないかと思う。ナガコガネグモでいうと雄成体の体長は8~12ミリ。ちゃんと計測したことはないのだが、体長15ミリの雌の方が脚は長いような気がする。第二にスタミナ。これも大柄な雌亜成体の方が優れているだろう。ならば雌の方が雄のいるところまで歩いてもいいだろう。ただし、生物は合理的ではないように見える行動をすることもよくある。実際、ゴミグモの雄が成体になった直後に姿を消したという観察例もあるから断言はしかねる。何年もかけて地道にデータを集めれば「そういうことがあり得る可能性が高い」というくらいの結論(?)を出せるかもしれないという程度だろう。ああっと、何度も言うようだが、室内実験は条件を好きなようにコントロールできるということも忘れないように。動物園の檻の中で肉を与えられているライオンをいくら観察したところでサバンナで生きているライオンを理解することはできないだろう。
同じく7ページの「オニグモなどは、日中は隠れていて夜間は網の中央に陣取る」。これは……6月から9月までならおおむね正しいかもしれない。しかし、春先の休眠明けのオニグモ(特に体長10ミリ以下の幼体)は24時間営業をすることが多いのだ。これは冬の間に減ってしまった体重を取り戻すためなら少しくらいのリスクは容認するということなのかもしれない。春先ならクモを襲う捕食者も少ないだろうしな。さらに夜間の気温が低くて昆虫が飛べないようなら、夜中から夜明け前の時間帯に網を張り替えて、そのまま住居に戻ることもよくある。これは昼間のうちに網にかかった獲物を夜になってから食べようという行動だと思う。
ついでに言っておくと、オニグモは絶食することもよくある。作者は、もう一度脱皮すればオトナになるという成長段階の雌が数日間網を張らずに住居にこもった後に脱皮して、さらにその数日後に姿を消したというケースを2回観察している。また、体長12ミリくらいのオニグモが8月初めから9月初め頃まで網を張らずに住居にこもっていたということもあった(多分、作者が獲物を与えすぎたせいだ)。前者の場合は「夫を求めて三千里」だろうが、後者はこのままでは秋にオトナになってしまいそうなので、最後の脱皮を獲物が豊富になる来年の夏に行うために成長を一時停止したのではないかと思う。オニグモは越冬できるクモだから一ヶ月の絶食くらいは平気なのだろう。ただし、そのためには未来予測の能力が必要になりそうなので、プロのクモ屋さんには追試など一切しないで「そんなことなどあるわけがない!」と言われてしまいそうな気もするのだがね。
次は「クモは何年生きるのか」の12ページの「ジョロウグモを例にとると、10月中頃に卵を1回産み、卵囊の中で冬を過ごし5月下旬に孵化し、6月はじめに出囊(卵囊から出ること)し、糸を出して風に乗って飛行し、分散する」だ。作者がつい最近観察したジョロウグモの幼体たちはブロック塀に取り付けられた卵囊の近くでまどい(子グモの集団)を形成し、数日後にもう一度脱皮してから5メートルくらい離れた反対側のブロック塀まで糸を張り渡して、その糸の上を歩いて分散しようとしていたようだった。ただ、そのまどいの個体数は40匹ほどだったから、一部の幼体はすでにバルーニングで旅立った後だったのかもしれない。
作者はこのバルーニングしないグループの存在は極めて重要であると考える。何故かというと、卵囊から半径数メートル以内の場所には母親がオトナになれたほどの豊かな環境がそのまま残っている可能性が高いからである。卵囊から出た子グモたちが全員バルーニングしてしまうと、その豊かであろう環境を受け継ぐ子がいなくなってしまうことになりかねないわけだ。しかし、全員が歩いて分散していったのでは生息域を広げることが難しいし、生息密度が上がりすぎれば獲物の奪い合いをすることにもなりかねない。だからこそ、ジョロウグモの子どもたちは2つのグループに分かれるのではないかと思う。
ついでに言っておくと、作者がクモ観察の先輩として尊敬している中平清先生の『クモのふるまい』にはオオヒメグモ、チリグモ、イエオニグモ、ヤマシロオニグモが卵囊内で共食いをしたという観察結果が書かれている。しかし、中平先生もクモの幼体がなぜ共食いをするのかまではわかっていないようだった。そんなものは人間の心を捨てればすぐにわかることなのに。〔あなたは人間よ。人間なのよ!〕
共食いをして体重が2倍近くに増えた子グモたちはバルーニングしても遠くへは行けないだろう。おそらくは共食いをした後、歩いて分散していく子グモたちこそが母親が成体になった環境を受け継ぐことを許されたエリートなのだろうと作者は思う。
生物の目的はただ一つ、自分の命を次の世代に受け渡していくことだ。少数の子を大事に育てる人間には想像し難いだろうが、多数の卵を産むクモにとっては産み落とした卵から孵った子グモたちののうち、2個体以上がオトナになって子孫を残せればとりあえずは成功なのである。
次回予告
信じちゃだめだ。信じちゃだめだ。信じちゃだめだ。
次回「クモ学の世界 その3」説破。
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クモ学の世界 その3
今回もA氏の本をネタにさせてもらおう。まずは「クモ何年生きるのか」の13ページから。ここにはジョロウグモの産卵数について「子グモの数はバラツキがあるが、1000匹と仮定する」と書かれているのだ。
何で読んだのかは忘れたが、ジョロウグモの産卵数は「500個ほど」とされていたような気がしたので、大ざっぱな計算をしてみた。ジョロウグモの卵の直径を1.5ミリとすると、500個の卵を収容できる円筒の大きさは直径21ミリ、長さ54ミリになる。実際の卵囊ではもっと隙間なく詰め込まれているのだろうと思うが、やはり500個くらいが妥当なところだろう。ただ、その後には「9月に成体になるので、もし個体数が安定しているとすれば、産卵回数を1回として、成体になり繁殖に参加できるのは雌雄1匹ずつ合計2匹である」とも書かれていたから「計算上は1匹の雌が産んだ卵のうち2匹だけがオトナになっていれば個体数は増えることも減ることもない」と言いたかったのだろう。仮定するだけなら何個にしてもいいだろうという考え方なのかもしれないが、できればもう少し現実的な数字にしておいて欲しかったな。
そして、その先の「毎年1月中旬まで生き残った雌を確認しているので、雌は7ヶ月半近く生存可能と言える。これが生理的寿命であろう」というのは明らかに間違いだ。本来の環境で生きている野生動物とそれを動物園で飼育した場合とではどちらが長生きするかを考えればわかりやすいと思うのだが、クモの生理的寿命を知りたいのなら、気温・湿度・獲物の量などを様々に変えて、さらに交接も産卵もさせずに飼育して最も長生きする条件を探る必要があるはずだ。まあ、日本では言論の自由が認められているから、何を書いても法律違反にはならないのだろうが。
なお、オニグモは基本的に夜行性なので夏に出囊して、翌年の夏頃にオトナになるし、何年も生き続けるクモもいるらしい。ジョロウグモやナガコガネグモのように24時間営業をしてまで生き急ぐクモばかりではないのだろう。
ゴミグモも24時間営業をするクモなのだが、出囊した翌年にオトナになるようだ。ゴミグモの場合は枝葉の前のような行き止まりの場所に網を張ることが多いし、さらにゴミまで取り付けてある分、網にかかる獲物が少なくなるのではないかと思う。24時間営業をしながらも安全第一というところか。
続いて「卵囊と子どもを保護する母親」の25ページ。「頑丈な卵囊であるが、弱い場所を子グモが一ヶ所破って脱出する」。作者の手元にはナガコガネグモの卵囊が3個あるのだが、一番小さい直径15ミリほどの卵囊に開いている穴は確かに1個だけだ。しかし、17ミリほどの卵囊には穴が2個開いている。素人にはわからないのだろうが、生物を語る時に「~だ」「~である」という語尾を使うのは危険なのである。また、画像を拡大して見た限りでは、その穴の縁はささくれていないようだった。これは「破って」ではなく、消化液で糸を溶かして穴を開けたのではないかと思う。こういうのは顕微鏡さえあれば確認できるのだから、ちゃんとした観察をして正しい知識を広めてもらいたいものだ。まあ、正しい知識はお金にならないとか、例え根拠がなくても「卵囊を守っているジョロウグモの母親」というようなキャプション付きの写真は読者にウケるというような事情もあるんだろうとは思うが。
なお、3個目の直径17ミリほどの卵囊には穴がない。これは「おかみさん」と名付けた個体がかなり長い間雄を待ち続けた後、10月28日の寒い朝に造ったものなので、交接できていなかったのではないかと思う。年内にオトナになって産卵しなければならないクモにはこういうリスクもあるのだな。
卵囊繋がりでオニグモの卵囊についても面白い観察例を紹介しよう。オニグモの卵囊は綿菓子のような見た目をしているのだが、これは本来の卵囊をさらにふわふわの糸で覆っているのらしい。で、このふわふわの卵囊は1年以上経ってもふわふわのままになっていることが多いのだ。どうやらオニグモが産卵するような場所にはタンパク質でできているオニグモの糸を消化できる小動物がいないのらしい……と思ったら大間違い。「デンちゃん」と名付けた雌が造った3個めの卵囊には翌年の6月ころにオオヒメグモらしい小型のクモが取り付いてふわふわの卵囊をせっせと食べ、産卵までしていたのだった。網を張るクモがそれを張り替える前に古い網を食べてしまうのはよく見られる行動だ。クモの糸はクモでなければ消化できないのだろう。
さらに35ページの「幼体と成体の色彩の違いが大きい種」には、コガネグモ、ナガコガネグモ、ジョロウグモなどの「幼体と成体(特に雌成体)との色彩や斑紋の違いはどうして生じるのだろうか」として「雌雄の体の大小の違いについては、雄の体の大きさは昔からほとんど変化がなく、雌が大きくなったということがわかってきた。体を大きくすると卵を多く産むことができる。このことは脱皮回数を多くして、目立つ色で餌を誘引する方向に進化してきたと考えることができる」と書かれている。ほら出た!「誘引する」。どうやらA氏も誘引説教徒であるのらしい。おそらく1日5回、アメリカのどこかに向かって礼拝を行い、「誘引説は偉大なり。誘引説の他に仮説はなし」と唱えているのだろう。〔いやいや、そこまではやらんだろ。いくらなんでも〕
この本には「クモの体や隠れ帯の紫外線反射が、虫を誘引するという論文が多く見られる」とも書かれているのだが、2000年に発行された宮下直先生編集の『クモの生物学』によると、ブラックレッジとウェンゼルが1998年と1999年に「空腹のクモの方が隠れ帯の長さが短く、つくる頻度も低いことを飼育実験により明らかにした。もし、隠れ帯が餌を誘引するのであれば、空腹の個体で大きな隠れ帯をつくってもよさそうであるが、この結果はその逆であった」のと書かれている。作者が野生のナガコガネグモとコガネグモで行った実験でも同じ結果だった。さらに「野外で人為的に隠れ帯だけを取り除いた網とそのままの網について、餌の捕獲数を比べたところ、隠れ帯のないほうで餌数は多かった」のだそうだ。クレイグらの実験では、獲物が多くかかる場所に網を張ったクモが隠れ帯を付けたという可能性を否定できないということらしい。プロの論文屋さんは都合の悪い結果が出るような実験はしないのだろうな。
ところで、日本のクモ研究者はなぜ、クモが補食している昆虫などを「餌」と表記するのだろう? 食われまいとして逃げたり反撃したりする動物に対しては「獲物」という表記をするべきではないのか? 少なくとも誘引説教の教祖であるキャサリン・クレイグ大先生様は「獲物(prey)」という用語を使っているぞ。もしかして、すでに死んでいるご飯やパンのようなまったく抵抗しない「餌」を毎日食べているために、クモが捕食しているものまで餌に見えてしまっているんだろうかなあ……。
次回予告
4本めだよん。
次回「クモ学の世界 その4」未来のために。
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クモ学の世界 その4
今回は追試ができていないとか、観察例が少なかったりで、ただの偶然かもしれないという話題を中心に報告させていただく。
まずはA氏の本の82ページのオオヒメグモの狩りについて。ここには「糸の振動により獲物がかかったことを知ったオオヒメグモは、獲物に近づき、糸で獲物を引き上げ、他のヒメグモ科のクモと同様に糸いぼから第四脚を使って粘球の付いた粘球糸を引き出して、獲物に投げつけて巻きつけてしまう」と書かれているのだが、作者が観察した範囲ではオオヒメグモもヒメグモも粘球の付いていない捕帯を投げかけているように見えたのだ。
コガネグモ科のクモほど多くはないものの、オオヒメグモも捕帯用の糸を作る葡萄状腺を持っているのだし、糸を巻きつける動作もジョロウグモなどと同じペダル回し型だった。また、糸を巻きつけられた獲物の見た目もジョロウグモが仕留めた獲物とそっくりなのである。そもそも多数の糸を張るクモが粘球糸を投げつけたりしたら粘液まみれの獲物が網の糸にくっついてしまうだろう。個人的には粘球糸を投げつけるクモは少数の糸しか張らないのではないかと思う。
なお、粘球糸を投げつけることが確認されているヒメグモ科のオナガグモの場合は同じ糸使いであるクモを専門に補食するらしいし、コガネグモ科のナゲナワグモは鱗粉を持つガを捕らえるために大きな粘球が付いた糸を振り回すというから、粘球糸は捕帯が有効ではない獲物に対して使うものなのではないかと思う。
ただし、宮下直先生編集の『クモの生物学』にも「ヒメグモ科のクモは、粘球糸を投げかけて餌を攻撃する」と書かれているから、世界のどこかには粘球糸を投げかけるヒメグモやオオヒメグモが生きている可能性もまったくないとは言えないだろう(翌年に実験したところ、オオヒメグモが獲物に投げかけた糸はわずかな粘りけを持っていたのだった。すみません。訂正します)。
話は変わるのだが、ウィキペディアの「オニグモ」のページには「夜に網を張り、昼間は網をたたんで物陰に潜む。が、希に昼間でも網を張っている個体がいる。ただし、このような日周活動については諸説があり、例えば八木沼(1986)には毎夕に網を張り、朝に畳むのを基本としながらも、地域や成熟度、性別によって異なる可能性や、あるいは地域差があって東北地方では網を畳まないなどの推測が記されている。また新海(2006)には、破損の状態によって2~3日置きに修復するとあり、基本的に張りっぱなしと取れる記述がある。さらに浅間他(2001)では関西では夕方に張り、朝に畳むが、北に行くほど畳まなくなり、他方で沖縄でもあまり畳まないという」と書かれているのだが、作者が茨城県某所で観察した範囲では、これらの記述はほとんどすべて正しいようだ。
作者は若いオニグモに毎日のように獲物を与え続けたことがあるのだが、この子は網を張り替える時間を夜中側へずらしていったのだった。つまり網で待機している時間を短くしていったのだ。このオニグモは食べ過ぎを防ぐために獲物の量を減らそうとしたのではないかと作者は思う。
ナガコガネグモやコガネグモの場合、網にかかる獲物が多すぎると判断すると隠れ帯を増やしたり長くしたりする。ゴミグモは円網の外側だけに横糸を張ることで網の有効面積を減らす。獲物を与えすぎたジョロウグモでは、円網を張るのをやめて全体的にバリアー状にしてしまうこともある。しかし、オニグモはほとんど常にフルサイズの網を張るのである。したがって、網にかかる獲物を減らすためには網を張っている時間を短くするしかないのだろう(最後の手段として網を張るのをやめて住居にこもってしまうこともある)。
逆にもっと食べたいと思った場合は、体長5ミリ以下の子たちなら昼間でも網で待機していたりする。もっと大きくなると、物陰に潜んだまま、網の係留糸に脚の先で触れていて、獲物がかかったら飛び出していける体勢でいたりすることもある。
要するにウィキペディアの記述はオニグモが獲物の量を調節しているのを断片的に観察したというだけのことなのだろうと思う。オニグモを理解したいというのなら日没から夜明けまで毎日観察し続けなくてはなるまい。
ただ、奇妙なのはオニグモが夜中過ぎに網を張り替えた場合で、夜明け前には網を張りっぱなしのままで住居に戻ってしまうのである。獲物を減らしたいのなら網を回収するべきだ。網を張りっぱなしにしていたのでは昼間のうちに獲物がかかってしまうことも多いだろう。したがって、この行動の意味は今のところわかっていない。もしかしたら、オニグモは粘球が劣化していない網を回収したくないのかもしれない。そんなものを食べたりしたら口の周りがベタベタになってしまうだろうしな。〔ほんとかよ?〕
あるいは、3月から4月にかけてのオニグモの幼体は、気温が上がる昼間の内に獲物がかかるように夜中から夜明け前の時間帯に網を張り替えるから、その癖が出るのかもしれない。
要するにオニグモが網を張り替える理由など、ほとんど何もわかっていないのだ。オニグモに聞いてみるというわけにもいかないだろうから、入念な実験をするか、何年も観察を続けるかすれば何らかのパターンが見えてくるかもしれないというところだな。
オニグモを出したついでにオニグモの排泄物の話もしておこう。作者が積極的に獲物を与えていた雌のオニグモは2回目の産卵をした後、透明な液体の中に黒い粒がいくつかというものを排泄したのだった。クモの排泄物は鳥のそれに似ていて白い塊の中に黒い粒が含まれていると言われているので、これは明らかに異常である。もしかしたら、消化しきれないほどの獲物をあげ続けたので下痢してしまったのではないかと反省している。
それ以上に異常かもしれないのが、その隣にいて、後にその雌と交接することになった雄である。この子は雌よりも先にオトナになったので、網を張らずにガードパイプの中にこもって雌がオトナになるのを待っていたのだが、この子が姿を消した後にチェックすると、大量の黒い排泄物らしい物がガードパイプに付いていたのだ。
もちろん、この雄が排泄したものだと断言できるものでもないのだが、面白いから雄の排泄物だとして考えてみよう。オニグモの雄はオトナになると網を張らなくなる。ということは、網用の糸を造る糸腺は不要になるわけだ。いらない器官なら分解して排泄してしまえば、その分体重を減らせる。これが黒い排泄物の正体なのではないかと作者は思う。
クモを解剖できる研究者は、オトナになった雄のオニグモを解剖して網用の糸腺が残っているかどうかと黒い排泄物の成分分析をしてみたらどうだろうか。
次回予告
生命の起源に迫るとか、酵母にマラリアの治療薬を造らせるとか。
次回「合成生物学」雄の三毛猫を量産したらどう?
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合成生物学
『ナゾロジー』というサイトで「昆虫がどうやってハネを手に入れたのか、ついに解明! 「甲殻類の足」が起源」という記事を見つけた。
「「昆虫はどうやってハネを手に入れたのか?」この単純な疑問について、これまで多くの説が発表されてきましたが、いまだ完全な解決にいたっていません。しかし今回、アメリカ・ウッズホール海洋生物研究所により、100年以上つづいてきた論争に終止符が打たれました。昆虫は、祖先となる甲殻類の脚の一部を背中に移動させることでハネに進化させていたようです」と書かれている。ミナミモクズ属という甲殻類と甲虫・ショウジョウバエの脚の遺伝子を分析した結果、「両者の遺伝子は、足先から1~6番目の分節までピッタリ対応していることがわかりました」ということらしい。
昆虫は祖先である甲殻類が持っていた脚の節のうち、胴側の2つの遺伝子を再利用して翅を作ったというわけだ。2012年に発行されている金子隆一先生の『ぞわぞわした生きものたち』には、六脚類(昆虫を含むグループ)は「陸に上がった甲殻類」説と「肢の減った多足類」説が併記されていたのだが、これは「勝負あり」という感じだなあ。遺伝子分析技術の発達によって「甲殻類が昆虫の祖先と遺伝的に断定されたのは2010年のこと」だそうだから、2年間では書き直すための時間的余裕がなかったんだろう。科学関係の書籍にはこういうリスクもあるのだな。この『次回予告』では10年くらいは科学的に否定されないようなテーマを選んでいるつもりなのだが、時々「ホスフィン」のような現在進行形のネタを使ってしまうこともあるから気を付けなくてはいけない。もっとも、科学の最先端の崖っぷちから一歩踏み外し、転落して笑いを取るのも芸の内だとは思うが。
ついでだから『ニュートン』誌の2020年5月号の「合成生物学はここまで来た 進化の壁をこえた生物をつくる未来がやってくる」という記事も紹介しよう。「生物が持つ機能や仕組みを研究者自身が設計し、つくりだすことをめざす「合成生物学」という学問分野が近年注目を浴びている。合成生物学によって、生命のしくみの解明や新しい医療、新しい物質生産が実現できると期待されている」のだそうだ。
この特集では「合成生物学が今注目されている2つの要因」として「ゲノム編集の登場」と「DNA合成のコストダウン」が挙げられている。ゲノムとは、ある生物がもつすべての遺伝情報のことで、そのゲノムを編集するというのはゲノム内の狙った塩基のみを正確に書き替えることだそうだ。特に2012年に登場した「クリスピーなカステラ」……。〔「クリスパー-キャス9(ナイン)だ!〕
それによって「誰でも簡単にゲノム編集が行えるようになった」のらしい。
もう一つの「DNA合成」は塩基を1個ずつ化学反応によって繋げていく技術だそうだ。アメリカの生物学者で実業家でもあるクレイグ・ヴェンター博士らの研究グループは「2010年にマイコプラズマという細菌が持つ約100万塩基対のゲノムを人工的に合成し、あらかじめゲノムを取り除いたマイコプラズマの細胞の中に入れた」のどすぇ。〔「舞子プラズマ」じゃない!〕
「すると、その細胞は自然に細胞分裂した。ヴェンター博士はこれを世界初の「合成生命体」であるとし、発表したのだ」そうだ。確かに世界初だろうが……これは「合成ゲノム生命体」だよなあ。パソコンからOSを削除して、自分でコツコツ書き上げたOSを入れたらちゃんと作動しました、と言う程度の話でしかあるまい。「生命の起源に迫る」というのなら、二酸化炭素と窒素と水のような無機物から生命を造り出さなくては意味がないだろう。
ノーベル賞を贈られてしまったスタンリー・プルシナーや個人的に大嫌いなキャサリン・クレイグのように、アメリカ人研究者の中には自分のやったことをさも素晴らしいことのように自慢する奴らがいるから油断は禁物だ(あの小保方晴子もアメリカで研究していたし)。まあ、企業の目的は株価を上げることだろうし、報酬なしで研究ができる研究者などほとんどいないだろうから、素人をその気にさせてお金を出させるペテン師のような才能も必要なのだろう。作者にはそういう才能はないので年金でクモ観察をしているが、ね。
その先には「人工細胞をつくることで生命の起源にせまる」として「細胞を一からつくりだすのはゲノムを合成すること以上に困難なことである。それでも研究者が人工細胞をつくろうとする理由の一つは研究を通して「生命の起源」にせまることができるかもしれないからだ」として、さらに「細胞は、生命の最小単位である」と続く。これも「地球の生物の起源」と「地球の生物の最小単位」という話だな。まあ、地球人の研究者は地球の生物のことだけ考えていればいいのだろう。
しかし、SF者はそうはいかない。SFの世界には細胞膜を持たない「ソラリスの海」や体液を持たないガス状の知性体もいる。作者の頭の中には「生きたい」という意思を持ち始めたばかりの鉱物質生命体までいる。こういう分野ではまだまだ科学はSFに追いついていないのだな。
さらにその先、「合成生物学がもたらす新しいビジネス」では糖尿病の治療薬であるインスリンをゲノム編集した大腸菌に、マラリアの治療薬を酵母に造らせる話が出てくる。特にマラリアの治療薬などが安価に量産されるようになると何が起こるのかなんてことはおそらく企業も研究者も考えていないのだろう。治療薬が普及すると、その分死ぬ人が減る。これはいいことのような気がするのだろうが、死ななかった人は飯を食うということを忘れてはいけない。死ぬ人を減らすのならば、その人たちが食べる食料を初めとする資源も同時に増産しないと戦争の原因になりかねないんだぞ。
そういう点では「「遺伝子ドライブ」で感染症の撲滅をめざす」は安心して見ていられる。なぜなら、ほぼ間違いなく失敗することが予想できるからだ。遺伝子ドライブとは片親が持っている遺伝子をすべての子に受け継がせる技術だそうだ。「この技術を使えば、マラリアを媒介する蚊を絶滅させることができるかもしれない」って、そんなにうまくいくわけがない。例えば、不妊化した蚊を放つことで、ある地域の蚊を絶滅させることに成功したとしよう。そうすると、隣のまだ絶滅していない地域の蚊が侵入してきて元に戻ってしまうだろう。まあ、半永久的に補助金をもらえるという点では素晴らしい研究かもしれない。
もしも作者の手元に合成生物学の設備があったら雄の三毛猫を量産するね。特に性染色体がXXYのクラインフェルター症候群の雄猫は生殖能力がないので数千万円で売れることもあるのらしい。こういう雄猫を量産して売りまくり、動物愛護団体などに目を付けられそうになったら国外へ脱出してまた売りまくるんだ。これなら一攫千金だぞ。〔そんなにうまくいくのか?〕
次回予告
何も信じるな。
次回「クモ学の世界 その5」おまえの見たものがそこに存在するものだ。
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クモ学の世界 その5
今回は『クモの世界』の23ページ、「白い卵囊は近くで母親が守っている場合が多い」という記述の例外を紹介しよう。ただし、あくまでも作者が茨城県某所だけで観察した結果というだけの話だからそのつもりで。
2022年7月。「カオルちゃん」と名付けたコガネグモの卵囊を見つけたのだが、それは産卵前の網の位置から1.5メートルほどのガードレールがJの字形に曲げられた部分の内側に吊り下げられていた。もちろん白い卵囊だが、母親が守ったりはしていなかった。逆にカオルちゃんは卵囊とは逆の方向へ1メートルほど引っ越していたのだ。
ウィキペディアの「コガネグモ」のページにも「メスは卵を糸でくるみ、卵囊にして網の片隅にぶら下げる」と書かれているのだが、作者はいまだに円網の部分にぶら下げられたコガネグモの卵囊を見たことがない。ただし、「日本では本州以南、伊豆諸島と沖縄諸島までの南西諸島に知られる。国外では台湾、朝鮮、中国に分布する」とも書かれているから、作者がまだ見ていないというだけで、世界のどこかには円網の片隅に卵囊をぶら下げるコガネグモが存在している可能性も否定はできない。しかし、そういうやり方は以下の2つの点で合理的ではないはずだ。
第一に単純に円網の有効面積が減ってしまう。コガネグモの雌は成体になると開けた場所に引っ越して、同時に円網の直径を60センチから1メートルに広げるようだ。これは産卵に備えて、より多くの獲物を捕らえようという行動だと思う。しかもコガネグモは、条件さえ良ければ3回の産卵ができるらしいのだ。したがって、わざわざ網の有効面積を減らす理由は見当たらない。作者が観察したコガネグモの卵囊で最も円網に近かったのはコンビニの駐車場のフェンスに網を張っていた個体で、円網の端から5センチほどの位置に不規則網のように糸を張り回して、そこに卵囊を吊り下げていた。この子の場合、卵囊を隠せる場所がないせいか、他の2個の卵囊も50センチと1メートルくらい離れたフェンスの土台に取り付けられていた。
第二に円網が振動し難くなるので獲物がかかったことに気付くのが遅くなることが考えられる。これも産むことができる卵の数に影響するはずだ。地球の生物が意識的に子孫を残すチャンスを減らすと言うのなら「それは非論理的ですね」と応じるしかあるまい。ああっと、寿命が尽きる寸前のように、円網の外まで移動するだけの体力が残っていない状態で最後の産卵をするような場合には円網の中で産卵するということもあるかもしれないな。
ウィキペディアは確かに便利なのだが、無責任に何でも書き込めるサイトなので、ちゃんとした知識のない素人が勝手にデタラメを書き込んでいることが多いのが問題だ。一番確実なのは自分の眼で確認することだろうが、その場合でも自分の視界の外に何があるのかまではわからないし、見間違いや思い込みの可能性もある。特に作者の場合は行動範囲が半径数十キロでしかないので、その範囲外にいるクモがどういう行動をしているかについてはまったくわからない。論文をチェックするという手もあるのだろうが、これも小保方晴子やスタンリー・プルシナーのような人間でも論文を書くことはできるのだし、そんなヨタ論文を追試もしないでヨイショする無責任なクモ屋さんもいるから油断できない。
余談だが、ウィキペディアの「伝達性海綿状脳症」のページでは「ウイルスなど核酸を有した病原体による病気ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、プリオン原因説は完全な定説とはなっていない」とされている。この辺りはある程度は信用できるかなと思っているが、ウィキペディアを信じるか信じないかは自己責任だわなあ。ネタを探す時には紙の本よりも手軽なので重宝するのだが、ね。
さて、卵囊繋がりで「お団子ちゃん」と名付けたオオヒメグモの卵囊についても報告しておこう。オオヒメグモというのはほとんど球形の腹部にごく小さな頭胸部が付いているという体型のクモで、雌成体の体長は「5~8ミリ」とされている。角度によっては脚の生えたビーズのように見えるクモである。なお、網は不規則網で、糸の基盤近くの部分に粘球が付いていて、しかもそれが切れやすくできていて、粘球に触れた獲物は糸で宙づりにされてしまうのらしい。
お団子ちゃんは次から次へと産卵して最終的には8個の卵囊を造り、これらの卵囊からは順に子グモたちが出囊してまどいを形成していったのだが、その後、お団子ちゃんが姿を消すと、すぐに別種のクモが不規則網に侵入して残っていた卵囊に食いついたのだった。それを見た作者は「なるほど、オオヒメグモは卵囊を小さくして数を増やすことによって子グモが出囊するタイミングをずらし、子グモの生存率を上げているのだな」と思ってしまったのだった。
しかし、その後に見つけたやや大型のオオヒメグモ2匹は、お団子ちゃんのものより大きめの卵囊を造っていたのだ。さて困った。捕食者対策説は成り立たないかもしれない。
さてさて、ここで話を簡単にするためにヒメグモの卵囊を完全な球形だと仮定してみよう。球の体積は半径の3乗に比例する(3分の4×π×rの3乗)。それに対して球の表面積は半径の2乗に比例するのだ(4×π×rの2乗)。
「これは終わりを意味するのか?」〔違うだろ!〕
もとい、これらの式が意味するのは、球の直径を大きくすると内部容積が増えるのだが、表面積はそれほど増えないということだ。卵囊で言えば、収納できる卵の数が増えるのに対して、その卵を包むのに必要な糸の量はそれほど増えないということになるのである。つまり、卵囊は大きければ大きいほどそれを包む糸を節約できることになるのだ。お団子ちゃんの卵囊が小さめだったのは、その小さな腹部では一度に多くの卵を用意できなかったということなのだろう。またナガコガネグモやオニグモなどの産卵が3回までしか観察できていないのもこれで説明できると思う。
そして作者の手元にはナガコガネグモの壺形の卵囊が3個あるのだが、一番大きいのは特に大きな体型だった「おかみさん」の卵囊である。クモにとっては、できるだけ大きな卵囊を小数造った方が経済的なのだろう。
ただし、ジョロウグモだけは腹部の大きさに関係なく、一定の大きさの卵囊を1個(沖縄では2個だそうだ)しか造らないようだ。これがよくわからない。交接した時点で卵の数も決まってしまうのか、もともと個体数が多いから多数の卵を産む必要がないのか、あるいは、産卵したくても気温が低すぎて動けないということなんだろうかなあ……。
次回予告
疑って疑って疑い抜いて。
次回「クモ学の世界 その6」疑いようがなくなったら信じてもいい。
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クモ学の世界 その6
今回は中平清先生の『クモのふるまい』を開いてみよう。
この本の「ゴミグモ」の章には「ごみリボンはクモの食べかすを主とし、クモの抜け殻、草の実、枯れ葉の切れ端、小鳥の羽毛、毛髪、紙片、糸くずなど、入手できた物をすべて、褐色の糸を紡いでつづり合わせた物である。クモはこのリボンの上端に、リボンを見守る形で止まっている」と書かれている。しかし、作者がごみのリボンの上端にいるゴミグモを初めて観察したのはほんの数週間前のことだった。「ゴミグモ母さん」と名付けたゴミグモがいつの間にかリボンの上端にいた、というか、ごみの位置が下がっていたのである。一ヶ月くらい前に撮影した画像をチェックすると、網の中心から上と下に向かってリボンが伸びている。おそらく、その後にリボンが下がっていったのだろう。ごみの中に取り付けられている卵囊は増えているから、産卵回数が増える度にその重みでリボンが下がっていったんじゃないだろうか。
さらに、91ページに掲載されている「リボンの中程にある2個の長丸い物は卵のう、上端にいるのがクモである」というキャプション付きの写真の中のごみリボンはゴミグモよりも上に伸びているのだ。というわけで、中平先生も信用できなくなってしまった。
確か京大の霊長類研のボスが、1度だけしか観察していないニホンザルの行動をさも一般的なことのように発表してしまったという事件があったと思うのだが、特に年寄りの研究者は自信を持つあまりに「私が間違えることなどありえない」と信じ込んでいることがあるので油断できない。プロの研究者など60歳で引退させて、それ以降は重要な研究は一切させないとか、もしも論文を書いてしまった時には若手研究者が十分に精査して間違いがあれば訂正させるというようなシステムが必要なんじゃないだろうか。まあ、結局は信じる方が悪いということになるわけだが。
この章には「汚い複雑なごみリボンの端に、ごみの塊の様なクモが静止しているのだから、見なれない人には、クモがどこに居るのか見つけられないのが普通のことである」「クモ自身もこの効果に満足し、信頼しきっているかのように振る舞う。網を揺すってもリボンを引っ張っても、リボンにしがみ付いて動かない」という実に人間らしい記述もある。これはまあ「正しい」と言っても間違いではないだろう。しかし、生物の世界には変わり者がいる場合が多いことを忘れてはいけない。作者が「ゴミグモ婦人」と名付けた子は作者が網に指で触れる度に近寄ってきて、そのブラシ状の触肢で作者が手を引くまでもしょもしょと触っていたのだ。当時は作者の指のタッチが雄のそれに似ているのかもしれないと思っていたのだが、他のゴミグモでは脚先でチョンチョンすることはあっても触肢は使わないのだった。というわけで、ゴミグモ婦人のもしょもしょは、網にごみが付いたので外そうと思ったものの、意外に大きかったので「どうしたらいいかしら」と考え込んでいたというのが正解かもしれない。
この「触肢でもしょもしょ」という行動は他のクモでも観察している。いろいろな角度に隠れ帯やごみを並べていて、クモが待機する時の向きも一定にならないヤマトゴミグモ(多分)の1匹も積極的にもしょもしょしてくれたし、シート網の上に不規則網状の糸を張っている途中のクサグモはその糸に触れていた作者の指に乗ってきた。しかし、体長10ミリ前後のジョロウグモの幼体たちについては、一度もしょもしょした子の網にまた触れてみても網の隅に避難してしまうことが多かった。
そして、クモが牙を打ち込むまでガの羽をつかんだままにしていて(ガは羽に鱗粉が付いているために横糸の粘球の効きが良くないのだ)、その指まで脚で抱え込まれたことも成体のオニグモとジョロウグモで経験している。〔危険です。よい子は真似してはいけません〕
問題ない。作者がクモに咬まれたのは、横になろうとした時に下敷きにしてしまった体長2ミリくらいのクモに肘の辺りを咬まれたのが1回だけしかない。これはどう見ても事故である。クモにしても大事な牙を食えもしない人間なんかに使いたくはないだろう。危険を感じさせなければ咬まれることはないのだ。〔いやいや、100パーセント安全ということはないから〕
本を読むことが思わぬ発見に繋がることもある。例えば、この本の92ページには「このクモがごみリボンに執着することは非常なもので、ごみが手に入るたびにつづりつづり付けて、リボンを太く長くしていくのは言うまでもないし、網の張り替えは(毎日早朝に行う)、このリボンを基準にしてなされる。従って、網を張る場所を変えることはほとんど無い。何かの都合で止むを得ず移転する時にはリボンを運んでいく」とも書かれている。これを読んだ作者は「んなわけあるかい!」と思ってしまったのだが、改めて観察すると、ちゃんとごみごと引っ越しをする個体もいたのだった。とは言っても、移動距離は最大で50センチ程度でしかなかった。オニグモやナガコガネグモだと少なくとも数十メートルの引っ越しをすることもあるようだから、ごみを持ち運ぶというのは大変な重労働なのだろう。ただし、茨城県のゴミグモと高知県のゴミグモでは県民性に違いがあって、高知県ではもっと遠くへ引っ越していくという可能性もあるかもしれない。
ついでに「音さでクモとあそぶ」の15ページ。「あれこれ考え合わせると、クモたちは、網の振動のしかたすなわち振動の大小、振動数の多少、振動の持続時間の長短などの、いろいろな組み合わせの違いを瞬間的に感じ取って、それに応じた行動をとっていると思われる」ので、中平先生はそれを実験によって確かめようとして、小学校の理科教室から児童実験用の音叉を借り出すのである。作者も網を張るクモたちは獲物がかかった時の振動によって獲物の大きさや種類を判断しているようだというのはわかっていたのだが、使ったのはフラットハンドルにグリップを固定するために用意した0.3ミリ径のステンレスの針金だった(音叉を使うという発想そのものがなかったのだ)。この針金の先端にクモの獲物サイズのループを作って、ジョロウグモの幼体、ゴミグモ、クサグモなどの網に触れてみると、ビンゴ! これらのクモたちは飛びついてきた。しかし、ナガコガネグモの幼体たちだけは反応が弱く、最大の子(体長15ミリほど)には完全に無視されてしまった。
その後、作者は高い場所にいるズグロオニグモ用に長さ50センチの針金も作ってみた。これはズグロオニグモたちには嫌われてしまったのだが、ナガコガネグモたちの網に触れてみると、全員針金に飛びついて、何匹かは捕帯まで巻きつけたのだった。ナガコガネグモは網に周波数が低めの振動を発生させるような、より大型の獲物を狙っているのだろう。
なお、これらの針金は現在使っていない。クモたちにとっては迷惑なだけだから。
次回予告
キリンは血圧が高い。
次回「キリンの首の逆襲」しかし、高血圧症ではない。
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キリンの首の逆襲
今日は月に一度の診察日だった。待合室のマガジンラックの中にあった週刊誌をパラパラめくっていたら『パテカトルの万〇薬』という連載コラムの「キリンの首が長いワケ」というサブタイトルが目に付いた。著者のI氏は脳の研究者らしい。生物の専門家でない人間が進化を語るというのは面白そうだ。
I氏はまず、キリンの首が長くなった理由として「生存に有利」と繁殖に有利の2つだけを列挙する。そして「キリンは血圧が高い」ことを理由に「生存に有利」説を否定し、クジャクの雄の派手な尾羽を持ち出して「長い首は生命維持に不都合ですが、繁殖における利点が、その欠点を凌駕した結果でしょう」という結論に導いている。なんともあっさり片付けてくれたものである。2つの可能性だけを並べておいて、まず片方を否定する。次に実例を持ち出して残りを肯定することによって、いかにも残りが正しそうな印象を与えようというわけだ。いかにも才能に恵まれた男性研究者らしい乱暴な論法である。専門的な知識のない素人が第三の可能性に気が付くことはないと考えたのだな。これでI氏がどういう人間かがわかるだろう。
さて、いい機会なので、日本心臓財団のサイトの「キリンの高血圧、象の巨大心」というページも開いてみた。すると「キリンの長い首」の章には「キリンの身長は5メートルほどあり、地上から3メートルのところにある心臓は、さらに2メートルの高さにある脳に大量の血液を押し上げる必要があります」(キリンの最高血圧は260ミリ水銀、ウサギが110でゾウは240、ヒトはもちろん120ミリ水銀)「しかし、キリンは首の天辺にある脳に十分な血液を送り込むために高い血圧が必要という自然の摂理からで、キリンが高血圧症に悩まされているわけではありません」と書かれていた。
さらに「ワンダーネットの秘密」の章には、キリンが頭を下げて水を飲もうとすると480ミリ水銀もの圧力が一度に頭の血管に加わる計算になる」のだそうだ。逆に急に頭を上げると、三七〇ミリ水銀もの血圧下降が一瞬に起こることになるのらしい。「これでは、おちおち水も飲めませんし、急に頭を持ち上げると脳貧血を起こしかねません。そこは良くしたもので、キリンの首の静脈にはところどころに逆流防止の静脈弁があり、さらに後頭部にワンダーネット(奇驚網)と呼ぶ網目状の特殊な毛細血管の塊があって緩衝装置として働くことが明らかにされています。つまり、キリンが首を下げて水を飲もうとするとワンダーネットが血液を取り込んで脳のほうに一度に大量の血液が流入するのを防ぎ、反対に首を上げた時はワンダーネットから血液が放出されて血圧の急激な下降を防いでいるというわけです」とも書かれていた。
なるほど、キリンにとっては260ミリ水銀が正常な血圧なのだな。むしろキリンがヒト並みの血圧(半分以下だ!)になってしまったら生きていけないだろう。
「ヒトとは違うのだよ、ヒトとは!」〔こらこら〕
『パテカトルの万〇薬』に戻って、より首が長い雄の方が雌に好まれるということなら雄の首は徐々に長くなってきたはずだが、中間的な長さの首を持つキリンの化石はまだ発見されていないと思う。
さらに、I氏は完全に無視しているが、キリンの場合は雌もかなり首が長いのだ。雄とほぼ同じシルエットで全体にやや小柄という体型なのである。首が長い雄の方が繁殖に有利だったとしても、雌まで首を長くする必要はあるまい。せいぜい雄の側にいるためにはアカシアの葉を食べる必要があった、というところか。つまり、雌のキリンの首に関しては「生存に有利」も「繁殖に有利」も成り立たないことになる。というわけで、作者はあくまでも「キリンの首は突然長くなってしまったけれども、ワンダーネットを持っていたこととアカシアの葉を食べることによって絶滅を免れた」という立場を取る。
まあ、男の研究者というものは男の立場で進化を考えることしかできないのだろうし、不都合な真実などは無意識にスルーするーのだろう。〔何度も使っていいギャグではないぞ〕
直立二足歩行の起源に関する「食料持ち帰り仮説」もそうだが、男の研究者が女性の存在を無視して、男にとってのみ都合のいい論理を展開するのはよくあることだ。作者は何も信じないで、確かな証拠から面白い仮説を組み立てていこうと思う。
ただ、『パテカトルの万〇薬』ではユーラシア大陸においてキリンに相当する様な首の長い偶蹄目が生まれなかったことに言及しているので、その点は評価……いやいや待て待て。もしかしたら、ユーラシア大陸にはキリンのような首の長い偶蹄目が生きていけるような環境が存在しなかったのかもしれない。首の長いウシなどが生まれるためには、アカシアのような樹木がまばらに生えている草原が必要だろう。アフリカの気候には詳しくないのだが、雨期と乾期が明確に分かれているような地域だったからこそキリンは生まれたのかもしれない。
ああっと、いいアイデアを思いついたぞ。とある惑星で、森の中で暮らしている異星人たちが発見されるのだ。しかし、彼らは全員女性と子どもたちらしいのである。コンタクトを進めながら森の中を探してみても成人男性が見つからない。これはどういうことなのか?
そのうちに女性たちの一部、具体的には子どもがいない若い女たちが急に落ち着きをなくし、一斉に森の外に向かって歩き出す。彼女らの後を追いかけた探検隊が見たものは森の外に広がっているサバンナで女たちを待っていた見上げるような巨人たちだった。そしてその股間には立派なモノが……。〔やめんか!〕
このお話のテーマは、股間の位置の違いをどうやって克服しているのかということになるだろう。……ということは、交尾するためにはキリンの雌も脚を長くするしかなかったということなのかもしれない。自動的に首もアカシアの葉に口が届くくらいの長さになるしかなかったのだろう。これなら雄も雌も脚と首が長くなっているということを説明できるかもしれない。
何度も言うようだが、雌と雄が存在する生物について考える時には、まず雌にとって有利になる要素を考えるべきだと作者は思う。そのためには、もっと女性研究者が発言する必要があるだろう。男どもは女性が発表した仮説など何も考えずに否定してしまいそうな気もするのだが、だからといって何もしなければ科学の進歩は止まってしまうだろう。
生物学の世界もピラミッドと同じで、底辺が広がらなければ頂点を高くすることはできない。いつまでも「男の、男による、男のための生物学」という砂上の掘っ立て小屋のままでいいわけはあるまい。
次回予告
聖書を取るか科学を取るか。
次回「続・直立二足歩行」考えるな。信じるんだ!
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続・直立二足歩行
W氏の『〇・ひれ・翼はなぜ進化したのか』を読み終えた。サブタイトルは「生き物の「動き」と「形」の40億年」。カバーの裏には「這い、泳ぎ、歩き、飛ぶため、生物はどう形を変えてきたか。移動運動の物理から生物の進化を、最新研究で読み解く」と書かれている。ここまではいい。
しかし、「はじめに」には「人間は移動運動に大変優れた種族で、人に似ている類人猿たちのレベルをはるかに凌駕している」と書かれているのだ! そこで比べるべきなのは地上での生活に適応しているオオカミか、せいぜいゲラダヒヒだろうに。W氏は「人間は偉い。なぜなら神様に似てるから」というキリスト教的な考え方をしているんじゃないかという気がしてきた。キリスト教徒は、聖書は誰が何のために書いたのかということをまったく考えないからやっかいだ。
とは言っても、第四章「背骨は泳ぐために」は有益だった。
ミミズのような環形動物は背骨を持っていない。そのため、表皮の下のリング状の筋肉とその内側の体軸方向の筋肉を使った伸び縮みで前進するのだそうだ。脊椎を獲得して、体が伸び縮みしないようになって初めて魚のように尾びれで水を後方に押しやって前進することができるようになったということらしい。
また、サメの仲間は鰾(うきぶくろ)を持っていないので、脊椎を軟骨にし、さらに肝臓に油を蓄えても中立浮力がマイナスになっているのらしい。じっとしていると沈んでいってしまうわけだ。それを防ぐためには海面方向へ押し上げる力が必要で、それを生み出しているのが上葉が長い尾びれと扁平な体なのだという。サメが尾びれを左右に振ると、尾びれの上側に遅れて下側が動くことになる。その結果、後方だけではなく下方向へも水を押しやるかたちになって揚力が発生する。さらに、それとバランスを取っているのが前進することで揚力を発生する扁平な体なんだそうだ。サメが尾びれを左右に振ると、尾びれの上側に遅れて下側が動くことになる。その結果、後方だけではなく下方向へも水を押しやる形になって揚力が発生する。さらに、それとバランスを取っているのが前進することで揚力を発生する扁平な体だと書かれている。(サメの場合、流体力学的には面積の大きい上側のひれの抵抗の方が大きくなるはずだし、サメの動画を見ても下側が先に動いているようだったのだが……イギリスの近海にいるサメは特別なんだろうか?)。
さらに、植物の場合は積極的に動きまわることはできないので、受粉は風任せ・動物任せ、種子を運ぶのもバネ仕掛けではじき飛ばしたり、風に乗せたり、動物たちに運んでもらったりしているのだそうだ。この辺りまではおおむね正しいと言える。
しかし、ヒトの直立二足歩行からは決定的におかしくなってくる。類人猿の骨格は四足歩行向きになっているから、それで二足歩行(直立はできない)をすると、がに股で上体を左右に揺らしながら歩くことになってエネルギー効率が低下する。したがって直立二足歩行ができるヒトの方が優れているという論理なのである。
しかし、だ。これはあくまでも地上を移動する場合の話だろう。木に登る、あるいは枝の上を歩いたり枝渡りをしたりするという条件ではどうなんだ? 類人猿よりも速く木に登り、すいすいと樹上を移動することがヒトにできるのか?
また「アスリートタイプの陸棲動物のほとんどは、立っているときも動いているときもつねにつま先立ちをしている」として「これはユタ大学のクリストファー・カニンガムとそのチームがトレッドミルを使った実験で最近発見したのだが、ボランティアの被験者たちがつま先立ちで歩いたとき、通常の歩き方をしたときよりも消費エネルギーが50パーセント大きかったのだ」「ところがこれとは対照的に、つま先で走っても消費エネルギーの量は変わらなかった。結局のところ、人間が走ることと歩くことのどちらにより適応するようになったのか、という議論は無益だということになる。自然選択には歩くことも走ることも大切な条件だったのだろう」って、何なんだ、これは?
この実験では、人間がただ立っている時のエネルギー消費を無視している。人間は寝ている時以外は歩いているか走っているというのなら別だが、二本足で、かかとをつけて立っている時とつま先立ち(空気椅子ならぬ空気ハイヒール状態)の時のエネルギー消費の差を比較していないんじゃないか? ヒトがかかとをつけて立つのは少しでも四足歩行に近い安定性を求めた結果なのではないかと作者は思うぞ。
W氏はかの有名なアウストラロピテクス・アファレンシスのルーシーの骨格についてもおかしなことを言っている。猿人の腕は、ヒト属が出現するまでおよそ200万年の間長いままだったとして「これは長かった腕が徐々に短くなっていく途中だったという仮説と矛盾する。これほど長期にわたって長い腕を持っていたということは、長い腕が何かの役に立っていたに違いない」って……。この部分を読んだ作者は1.5リットル入りのペットボトルを両手に持って歩いてみたのだが、歩行速度が少し遅くなる程度でしかなかったぞ。それが致命的なハンディキャップでなければ淘汰されないこともあるのではないか? それとも、腕の長さも神様に似ている方が優れているに違いないという考え方をしているのか?
ただ、ベルリン自由大学のカールステン・ニーミッツがチンパンジーの観察を基に唱えた「二足歩行の常態化は水中歩行への適応による」説なんてのも紹介されていて、「チンパンジーとボノボはよく水の中を二本足で歩く」というのには驚いた。作者はチンパンジーは水が苦手だと思っていたのだ。
そこで「チンパンジー 水」で検索してみると、『東京ズーネット』というサイトにチンパンジー舎の屋上から運動場にホースの水を降らすという話が載っていた。チンパンジーは基本的に水に濡れるのが苦手らしいのだが、好奇心が強い個体が遊び出すと、子どもを中心に他のチンパンジーも頭から水をかぶったりするようになるのだそうだ。確かに水中で生活するのなら直立型の股関節が有利になる可能性もあるわけだが、その水場にはワニやピラニアはいなかったという設定なんだろうか?〔ピラニアは南アメリカ原産だ!〕
それと水の中にも類人猿に食べられるようなものが十分にあったのかどうかもわからない。仮定に無理がありすぎるんじゃないか?
念のために言っておくと、作者はキリスト教を否定するつもりはない。ただ単に人間が嫌いなので、人間が人間のために書いた物であるのが明らかな聖書や大乗仏教の経典などを信じる気にはなれないというだけのことである。
聖書は科学、特に進化論とは相性が悪い。ヒトの進化となると最悪だろう。個人的には、キリスト教徒は教学以外の科学など一切認めないで「世界は神様がおつくりになった」「6日目に自分自身に似せて人間をおつくりになった」という認識でいればいいんじゃないかと思う。もちろん、天動説を信じていても、地球は平面だと思っていても日常生活に支障はないのだし、人類学なんかに関わらなければ仏教徒に迷惑をかけることもないのだし。
次回予告
水素原子がじゃまだ。
次回「二酸化イオウの海」宇宙の膨張を遅くしてしまえ。
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『次回予告 その4』前編に続く。
すみません。最近、夜間の血圧が200近くまで上がることが多くなってしまいましたので、できあがっている下書きは順次アップしていきます。
迷わず成仏したいのでお許し願います。