「目上の人間の前ではマスクを取れ!」ク○団塊上司にパワハラされた派遣SE、辞表を叩き付けホワイト企業へ!
このサーバールーム特有のサーッと遠くで雨が降っているような音。
俺はこの音が大好きだった。
世の中には俺と似たような嗜好の人も多いようで、何とネットにはこのサーバーの音を流すASMR動画まであるのだ。
「仲島さん、こっちはチェック終わりました」
「早いね、サンキュー、後は俺がやっておくから三宅君は上がっちゃって」
「あ、はい、じゃあお先に失礼します」
「はいはい、お疲れさま~」
俺は仲島 晴久なかじま はるく、27才。
若くしてこの『ハイエナ商事』でサーバー運用のリーダーを任されている。
とはいっても中途の派遣採用、しかもハイエナ商事は意外に古い企業体質で、正規組と派遣組では露骨な待遇差が存在していた。
まあ、愚痴を言っても仕方がない。
なるべく出しゃばらないように、そして、皆が嫌がる仕事は率先してやるように心がけている。
これが、俺なりの処世術ってやつだ。
そのお陰かどうかはわからないが、入社した当初はトラブルが多く、かなり遅くまで一人で頑張っていたのだが、最近では進んで手伝ってくれる後輩も増えてきた。
やはり、人手に余裕が出来ると仕事の質も上がる。
皆で計画を立て、コツコツとメンテナンスしてきた甲斐もあり、最近はほぼ無事故でサーバー運用が出来ている。
……我ながら良く頑張ったよなぁ。
ふと、時計を見ると、もう21時を回っていた。
「やっべ⁉今週もう40時間超えてたっけ?あぁ……こりゃまた、文句言われるな……」
サーバールームを出て、薄暗くなったオフィスで一人コーヒーを飲んでいると、珍しく残っていた上司の金子部長がやって来た。
「ん?おい、仲島ぁ!そこで何やってんだ?俺は残業の許可出してねぇぞ?」
「あ、すみません……ちょっとメンテに時間が掛かってしまって……」
うわぁ~……よりによって金子部長か。
この人話通じないんだよなぁ……。
「は?毎度毎度、メンテメンテっつって、何やってんのか知らねぇけど……サボって時給稼いでるだけだろうが!」
「い、いえ、違いますよ!ちゃんと承認頂いた指示書もありますし、運用スケジュールに……」
「ごちゃごちゃ言い訳してんじゃねぇ!大体なぁ、人間様がやるよりも効率的で早いから機械なんだ。毎日そんなにやることがあるなんておかしいだろ?」
「い、いや、おかしくないですよ、そもそも……」
「おい仲島!目上の人間の前ではマスクを取れ!人としての礼儀だろ!そんなこともわからんのか、最近の若い奴は……ったく」
「いや、金子部長、僕の話を聞いて下さい」
「いま俺が話してんだろぉが!上司の説教中に口を挟むなんて、俺らの時代ならお前……パンパンやぞ?」
俺はマスクを取ろうと引っ張ったままフリーズした。
いや、そんなの知らねぇし……何時代だよ。
ていうか、何でそんな平気で他人を睨めるんだ⁉
何がそんなに腹立たしいのか?
こんなに怒る必要ってある?
もう勘弁してくれよ……。
「あ?何だお前?文句がありそうだな?」
「いえ、文句なんてないです……」
そう答えると、金子部長は急にふっと鼻で笑うと、表情を緩めて俺の肩に手を置き、「な~か~じ~ま~」と言いながら数回揉んだ。
「いてて……」
「はっはぁ!派遣が大変なのはわかる!俺も少し大人げなかったな……うん。でもな、お前がどうでもいい部下ならこんな口うるさく言わないんだよ。お前が絶対伸びると思ってるからこそ、つい、俺も真剣に向き合ってしまうんだ、わかるよな?俺はお前に期待してるんだ、ここだけの話、お前を正規にって話もあるんだぞ?」
「は、はあ……」
もしかして、フォローのつもり?
今どき正規ちらつかせて、派遣が食いつくとでも思ってるんだろうか?
正直、何言ってるのかまったく理解できない。
一体、この人はどういう理屈で動いているんだろう?
会社、辞めようかな……。
翌日、直属の上司である新田係長に呼び出された。
金子部長に比べれば、随分話のわかる人だ。
呼び出されるのは初めてだが……まあ、大丈夫だろう。
会議室に入ると、角に座っていた新田係長が立ち上がり、隣のパイプ椅子に手を向けた。
「失礼します」
「おお、仲島、悪いな呼び出したりして……ん?どうした、顔色が悪いぞ?ちゃんと飯食ってるのか?」
「え?あー、はい、大丈夫です」
俺は一礼して腰を下ろし、姿勢を正した。
「はは、そんな固くならないでいいよ」
「はい、わかりました」
「早速だが……、実は金子部長から、君を寄越せと言われてな」
「え……⁉」
気まずそうに俺を見ながら、新田係長は組んだ手の親指をくるくると回している。
これは……嫌な予感が。
「名ばかりだが、一応運用部のトップだからな……私も君に抜けられると厳しいと言ってみたんだが……」
「もしかして、異動でしょうか?」
「……期限付きとは言ってあるんだ、それに金子部長の下なら、さほど難しい業務もないぞ?」
「お言葉ですが、私の契約業務はサーバーの保守運用のみだったはずです、それ以外の業務に就くつもりはありません」
「しかしだねぇ……知ってるだろう?金子部長は……ほら、一度言い始めると聞かない人だから……」
「それと私の異動とは関係ないと思いますけど」
俺が言い返すと、新田係長が少しムッとした顔になった。
「これはね、君のためでもあるんだよ?本当なら辞令一つで終わる話なんだ。それはあまりにも可哀想だと思って、私がこうして話しているんじゃないか!」
「え……いや、しかし……」
「話を遮るな!ったく、これだから派遣は……いや、今のは忘れてくれ、本意じゃない」
左手でこめかみを押さえながら、右手をピッと俺に向ける。
「はあ……」
何だコイツ。勝手にキレて格好つけてる。
係長はこんな人だと思ってなかったんだけどな。
あーあ、中堅上位、そこそこの会社に入れたと思ったのに……。
今時、こんな体質の会社ある?
指示書にハンコが10以上並ぶ時点で気付けば良かったよ。
「まあ、考える時間も必要だろう、一度ゆっくり考えて、来週にでも返事をくれないか?」
「……わかりました」
「落ち着いたら飲みに行こう、もちろん俺の奢りでな」
新田係長はそう言って、嘘くさい笑みを浮かべる
俺は愛想笑いで誤魔化し、会議室を後にした。
* * *
お茶を片手に会社の屋上にある休憩スペースに行き、ベンチに腰を下ろした。
「ふ~……」
この会社でいいなと思ったのは、この休憩スペースだけだ。
禁煙ブームの流れを受けて、この会社でも社内で吸うのは御法度となったらしい。
ただ、役員室と社長室は喫煙可能というわけのわからない状況だ。
屋上は結構広く、数人の愛煙家達がぽつんぽつんと休憩を取っているのが見える。
空を見上げ、俺は流れる雲を眺めた。
このままでいいのかな……。
「仲島さん、ここでしたか」
「ん?あぁ、三宅君も休憩?」
「はい、ていうか……仲島さん眠れてます?酷い顔してますよ?」
「そうか?昨日遅かったからかな……ははは……」
「……ちょっと今、お話してもいいですか?」
「俺……?あ、ああ、もちろん」
三宅君は辺りを警戒するように見渡した後、俺の隣に座って顔を近づけた。
「あの、聞きました、金子部長の件。ヤバくないですか?」
「あー、もう噂になってんだ……はは、参るよな」
ササッともう一度周りを見渡して、三宅君は身体を俺の方に向けた。
「実は仲島さんにお話があるんです」
「改まって言われると……何か怖いな」
「いやいや、絵とか化粧品の話じゃないんで安心してください」
「それはわかってるけどさ」
「実は……僕の知り合いが立ち上げたITベンチャーが、かなり上手く行ってるみたいなんです。それで、ここの話をしてたんですよ。いまどき決裁にハンコ二桁だって」
「それは大袈裟……でもないね」と、俺は苦笑する。
「それでサーバー運用の話になって……あ、もちろん守秘義務は守ってますよ?その時に仲島さんの話をしたら、ぜひ会ってみたいって言ってるんです」
「え?俺⁉」
「はい、仲島さんみたいなエンジニア、この会社には勿体ないですし、正直、宝の持ち腐れですよ。僕も近いうちに辞めるつもりですし、一度顔合わせしませんか?」
凄いな……若いのに人脈も行動力もあるのか。
いや、年は関係ないな、三宅君は入社してきた時から有能だったし。
「……ちょっと考えさせてもらってもいい?いま、ちょっと頭が回らなくてね」
「もちろんです。あ、ちなみに僕はもう辞表出してあるので」
三宅君は爽やかな笑顔で言うと、屋上を後にした。
「はぁ~……」
素直に信じたら、痛い目見るかな?
ITベンチャーだなんて……そんなキラキラした会社が俺を雇うわけがないか。
俺はベンチに凭れて、空を見上げた。
雲一つ無い快晴だった。
――次の日。
俺は前々から早く使えとせっつかれていた有給を消化している。
使え使えと言う割に、纏まとめては取らせてくれない不思議……。
しかし、平日の昼間に街を歩いていると、何だか不思議な高揚感があるな。
商店街をあてもなくぶらぶらしていると、スマホが震えた。
「ん?」
見ると、そこには会社の名前が表示されていた。
え、何で会社から……。
嫌な予感しかしなかった。
サッと血の気が引き、首筋が強ばる。
特に何もトラブルなど無かったはずだが……。
考えを巡らせている間にも、手の中でスマホは早く取れと震え続けている。
俺は……恐る恐る通話をタップした。
「はい……」
「おい!仲島ぁ!お前システムが使えねぇぞ、何をやったんだ!」
「――⁉」
思わず耳からスマホを離した。
この怒鳴り声は金子部長……⁉
「え……いや、ちょっと待ってください、僕、今日は有給消化中で……」
「あ?何を舐めたこと言ってんだ!お前がリーダーだろ!早く何とかしろ!」
そんな無茶苦茶な……。
「えっと、申し訳無いのですが三宅君はいますか?現状を確認します」
「おい、仲島ぁ~、お前状況わかってんの?いいから来い!今すぐだぞ!」
「ちょ……」
一方的に通話を切られてしまった。
こういうのドラマで見たことがあるなぁ……。
行き交う人達のど真ん中で、俺はしばらく呆然とスマホを眺めていた。
* * *
サーバールームに入り、
「お疲れ様です、現状説明お願いします」と声をかけた。
「あれ……仲島さん?今日、有休でしたよね?」
三宅君が小首を傾げた。
「ああ、金子部長から連絡があってね。で、障害の程度は?」
「え?いや、定期メンテで30分ほどシステムは止めましたけど……特にトラブルは起きてませんよ?」
「……」
「もしかして、呼び出されたんですか⁉」
俺は無言で小さく頷いた。
「そ、そんなぁ……」
「まぁ、何事も無かったんなら良かった、安心したよ……じゃあ、俺は帰るね」
そう言って帰ろうとすると、三宅君に呼び止められた。
「仲島さん!もうこれ以上この会社に関わらない方が良いです!早退しますから、この後、僕の知り合いと話をしてみませんか⁉」
何でこんなに真剣な顔をして……そんなに俺の事が心配なのかな?
それとも、紹介料でも入るのか……。
「い、いや、早退だなんて……」
「何を言ってるんですか!ご自分の顔を良く見て下さい!」
三宅君がサーバーケースのガラスに映った俺を指さす。
見るとそこには、自分の記憶の中の顔と違う別人がいた。
酷い隈、落ちた瞼、肌は荒れ、髪は手入れもせずボサボサ……。
「え……これが、俺……?」
「やっとわかりましたか?仲島さん、一緒に来てくれますね?」
三宅君の顔があふれ出る涙で歪んだ。
「あ、あれ……変だな……ははは」
嗚咽が止まらない。
「おかしいな……あれ?」
止まる気配のない涙に戸惑う。
「……ごめん、ごめん、へへへ」
ただ、今まで溜まっていた何かが。
気付かないふりをしていた何かが――。
「あれ?止まらないや……なんだこれ」
堰を切ってあふれ出てくる何かが、俺の涙腺から出ていくのを感じていた。
三宅君がそっとティッシュをくれる。
「大丈夫です、仲島さん。今日で全部終わります」
俺は頷くので精一杯だった。
俺と同じ無精髭。
でも、彼の場合は清潔感があると思った。
「いやぁ、来て下さって本当にありがとうございます!ちょっと手狭ですが、どうぞどうぞ」
……少し年上かな。
それにしても物腰の柔らかい人だ。
顔も優しそうだし、何より本当に歓迎してくれているのが表情でわかる。
「ありがとうございます、突然お邪魔してしまって……すみません」
「何を言ってるんですか!三宅から聞いてますよ~、LAMPは全て対応できるとか?」
「まぁ、一応は……ですけど」
LAMPというのは、Linux、Apache、MySQL、PHP、またはPerlかPythonといった、現在人気のあるプログラミング言語の頭文字を取ったもので、作業環境の種類みたいなものだ。会社によって作業環境も変わるので、当然、多くの言語に対応できることが望ましい。
「凄い!パケット通信周りにも精通してると聞いてますが……?」
「あ、それは……趣味の範囲です、実務は経験してません」
「それでも知識は持たれているわけですよね?」
「あまり自信はありませんが……基本的なことならカバー出来ていると思います」
「素晴らしい!で、いつから来ていただけますか⁉」
「へ……?」
「ちょ、ちょ、寺島さん、急すぎますって、ほら、仲島さん引いちゃってますし」
三宅君が横から入ってきた。
「あ……ごめんごめん、つい、悪い癖が出ちゃったよ」
「ホントですよ、だって自己紹介もまだですし」
「え?あれぇ⁉まだ名乗ってなかったですか⁉」
寺島さんは驚いたように目をパチパチさせた。
「え、ええ……でも、私もまだですし……」
「ははは!いやー、申し訳ございません、では改めて……オホン!ホワイトタイガー社の代表をしております寺島といいます、どうぞよろしくお願いします!」
「あ、じゃあ僕も……改めて、仲島と申します、三宅君からの紹介でお邪魔させて頂きました……よろしくお願いします」
お互いに椅子に座ったまま頭を下げた。
「さて、自己紹介も終わったことですし……いつから来て頂けますか?」
「寺島さ~ん、僕の話聞いてましたぁ?」
三宅君が半笑いで突っ込む。
「三宅、こんな人材、みすみす俺が逃がすわけないだろ?さ、仲島さん、条件詰めちゃいましょうか?年俸はどのくらいで考えてらっしゃいますか?」
「え、いや……その……」
答えあぐねていると、寺島さんは突然何か考え込むように黙ってしまった。
「……」
俺は三宅君と顔を見合わせた。
三宅君も「さぁ」と肩を竦めて見せる。
何だろう……何か気に障ったのかな。
「わかりました、少し急ぎすぎましたね。よし、プレゼンしましょう。えっと、なぜ私がこれほど積極的にアプローチをするかと言いますと……まず第一に、仲島さんのスキル、第二に、仲島さんの年齢を含めた将来性、そして最後は……フィーリングです!」
「フィーリング?」
「フィーリングも意外と馬鹿にできないですよ?私は、いや、私たちは、自分達と合わない人とは仕事をしません、というか、する必要もありません」
「どういう……ことですか?」
「営利目的な組織である以上、仕事をして対価を頂く。これは当然です。ですが、私たちは対価を頂く相手を選びます。言い換えれば、選べるだけの強みを持っている組織ですね」
「それは凄いですね……」
うーん、プロ集団ってことかな?
まあ、確かに三宅君も、何処でも通用するスキルを持っているもんなぁ。
「あの、仲島さんは鈍感系主人公ですか?」
「へ?」
「あ、いや、言っておきますが、私はアプローチする相手も選びますよ?」
「いやー、かなり基準が高そうですね……僕には無理かな」
寺島さんは「マジ?」と三宅君の顔を見た。
三宅君は逃げるように「僕、コーヒー淹れてきます」とその場を離れた。
やっぱり、もう一度……派遣会社に相談してみようかな。
希望時給を下げれば早めに見つかるかも知れないし……。
「仲島さん」
「え?」
顔を上げると、寺島さんが心配そうな目を向けていた。
「誤解を恐れずに言いますが……あなた重傷ですよ。周りが見えなくなってる。恐らく私の言葉もそのまま受け取ってないでしょ?悪いように曲解してるはずです」
「いや、そんな……」
「現にあなたは自分の市場価値をまるでわかってない。正直、フリーランスで十分独立できるレベルですよ?三宅から時給を聞いて驚きました、私ならその十倍は出します、それでも少ないくらいだ」
「え⁉いや、そ、そんな、僕は独学ですし……」
「いやいや、独学でそのレベルに行けるなら、学校なんて通う必要ありませんよ」
コーヒーを持って戻ってきた三宅君が横から言った。
「はい、どうぞ、ちょっと二人とも休憩しましょう」
「あ、ありがとう」
「悪いな三宅、お前こういうとこホント、バランスいいよなー?」
「そうですか?ちなみに大学時代のあだ名は『ミスターアベレージ』でしたけど」
「はは、なんだよそれ?」
「アレのサイズが全国平均と同じだからって」
「ぷはっ、あははは!」
俺は気付くと自然に笑っていた。
* * *
仲島が帰った後、三宅と寺島がバーで飲んでいた。
「どうでした?僕は好きなんですよねぇー、仲島さん」
「へぇ、どこが好きなんだ?」
「あの人の指示書とか、教え方とか、全部相手の事を考えてるなってわかるんですよ。普通、あの環境なら腐りますよ?それなのに仲島さんはITアレルギーの団塊連中にもどうにか通じるような言葉を選んだり、資料を作ったりするんすよ。とてもじゃないけど……あれは自分にはできないなって」
「そういう性格だから……余計に危うい、か」
寺島はソルティドックに口を付け、小さく息を吐いた。
「なんとかなりません?寺島パワーで」
「まあ、動くよ。簡単に諦めないのが、俺の取り柄だからな」
「そうこなくっちゃ」
三宅はにっこり笑って、寺島とグラスを合わせた。
俺と寺島さんの向かい側に、金子部長と新田係長が並んで座っている。
「大体、お宅は何なんだ?突然押しかけてパワハラだのなんだの、脅迫でもするつもりか?」
「ははは、そんなわけないじゃないですか。ただ、事実を述べているだけですよ」
「何だと⁉」
「何でしょう?」
金子部長の圧をものともせずに、寺島さんは涼しい顔で淡々と状況証拠やら証言やら、それにどこから探して来たのか俺の勤怠記録やICレコーダーまでテーブルに並べていく。
新田係長はその様子を見ながら、青ざめた顔で額の汗をしきりにハンカチで押さえている。
「こ、こんなものをどうやって⁉貴様、これは問題だぞ!」
「どれも善意で提供されたものです。もちろん裁判での証言も含め、協力を約束をしていただいた上でです」
「裁判だと⁉」
「か、金子部長、一旦法務に相談しては……」
新田係長の方が冷静なようだ。
「おい、新田……今、俺が話してるよな?」
「あ、はい!失礼しました!」
うわー、何か負の連鎖を感じる。
こうやってパワハラが受け継がれていくのかな。
「くくく」
寺島さんが笑い声を漏らした。
「き、君!何がおかしいんだ!」
「そりゃ笑いますって、パワハラで訴えられそうだってのに、目の前でパワハラが始まるとか」
「良い度胸してんじゃねぇか……」
「お、もう取り繕うことも辞めたのですか?」
「この……ふざけてんのかてめぇ!」
金子部長が怒号と共にテーブルを殴った。
「ひっ⁉て、寺島さん……」
「はい、いただきましたー、うん、綺麗に録音されてますね」
寺島さんがICレコーダーを再生した。
『この……ふざけてんのかてめぇ!バンッ!』
室内に緊迫した空気が満ちる。
「ま、まあ、良く考えてみれば、確かに俺にも非があるな」
「わ、私も、仲島くんに対しては反省すべき言動があったと……」
急に手のひらを返したように、二人はもごもごと言い訳を始めた。
寺島さんは真顔で「あ、そう」と言った後、冷たい声を放つ。
「私が来た時点で、今更何を言おうが訴訟は免れないものだと思って下さい。これらの資料は全て裁判に証拠として提出しますし、こちらは一切譲歩するつもりはありません」
「……ぐ」
「では、これより仲島さんに直接連絡を取ることはお断りいたします、必ず弁護士を通してください。未払いの賃金、慰謝料については別途我が社の顧問弁護士から連絡させますので」
「い、慰謝料だと⁉」
金子部長の一言に、寺島さんが初めてキレた。
「当たり前だろうが、あんたは支払って当然のことをしたんだよ!」
ビクッと肩を震わせる金子部長。
怒鳴るのは慣れていても、怒鳴られるのは慣れていないようだ。
あの部長が小さくなって、唇を震わせているなんて……。
「て、寺島さん、もういいです」
「すみません、つい……では行きましょうか?」
「はい」
席を立ち、会議室を出る直前、寺島さんが二人に振り返って言った。
「あー、そうそう、忘れてました。最近、高級外車を買われてますよね、金子さん?ハイエナ商事の給料じゃ手が届かないと思うんですが……」
「な、お、お前に……関係ないだろう!」
「ええ、ただ……知人にハイエナ商事と取引のある業者がいましてね。キックバックは程ほどにしておいた方が身のためですよ?って、ああ、もう遅いか……失礼」
「お、おい!待て!おい!」
金子部長の呼び声を無視して、寺島さんは「行きましょう」と会議室を出た。
廊下を歩きながら「あの、キックバックって……」と訊ねると、
「まあ、こういう古い慣習が残ってる会社の役職は、大抵やってるんですよ」と笑った。
「え、じゃあ……知人って……」
「嘘ですよ、あのくらい言っとけば大丈夫でしょう、これでもまだ何かしようとするなら、本当に追い込めばいいんです、何も怖いことなんてありませんよ」
「さ、さすがですね……」
「はい、社員を守るのが私の仕事ですからね」
「寺島さん……本当にありがとうございます!」
「いえ、これから仲島さんにはバリバリ稼いで貰いますから、安いもんですよ」
そう言って寺島さんは、冗談っぽくおどけて見せた。
* * *
レコード針が流れる音。
水の中に潜っているような音。
うーん、やっぱり遠くで雨が降っているような音。
真新しいサーバールームで、俺は最終チェックを行っていた。
「仲島さん、こっちはオッケーです」
「うん、ありがとう、じゃあこれで納品だね」
仕事が終わり、三宅君がバーで軽く飲んでいきませんかと言うので、喜んでOKした。
「へぇ、感じの良い店だね」
「でしょ?穴場です」
二人でカウンターに座る。
「じゃあ、ジントニックを」
「お、洒落てますねぇー、僕はスプモーニをください」
「かしこまりました」
ダンディなバーテンダーが小さく会釈をした。
「あ、聞きました?ハイエナ商事、業績悪化で身売りが始まったみたいですよ」
「え、そうなの?」
「本社ビルも売りに出てるみたいです」
「えー、あの屋上好きだったのに」
「ははは、確かにあの屋上だけは良かったですね」
「三宅君……本当にありがとう。あの時、君が誘ってくれなかったら、俺死んでたよ」
「死んでたでしょうねぇ」
「ちょ、酷いなぁー」
「だって、仲島さん、ホントに死にかけでしたもん」
三宅君が悪戯っぽく笑う。
「どうぞ」
スッとバーテンダーがカクテルを差し出す。
三宅君はグラスを持ち、
「何に乾杯します?」と俺を見た。
「……思ったより多かった慰謝料に?」
「あはは!そりゃいいですね」
「じゃあ、慰謝料に」
「……慰謝料に」
「「ぷははは!」」
俺達は二人で笑った後、軽くグラスを合わせた。
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