紙一枚で世界は変わる
世界が変わる瞬間を知っていますか?
地に転がる男達は、その瞬間を目撃出来なかった。
無様に尻餅を着き呆ける神部啓は、ただ一人の目撃者にして観客。数メートル後方の騒ぎは鼓膜を揺らさず、視覚を白く染める閃光で脳を埋め尽くす。
同じ学校の制服を着た女子が、雷を体に纏って浮いていた。
彼女を中心に発生する謎の衝撃と熱風で、目を開けたままに出来ない。風で動く鞄を抑えると、ブレザーのポケットから何かが零れた。紙だ。
逃げ惑う人の波に紛れ、その行方は永遠に失われた。
啓の世界を変えた紙。
――――――――――――!!!!!!???
慟哭の叫びに雷が弾け、視界が一瞬で白く染まる。
彼女が倒れていると気付くのに、数拍の余裕が必要だった。真面に歩けない足を熱い地面に擦り付けて、安否を確認する。空気が振動する程の電気を纏っていたが、目に見える範囲では火傷も焦げ跡も無い。
状態を見る為に動いた視界が、白い足を見付けた。傷の無い綺麗な足だ。
校則に基づいた長さのスカートが捲れ、長めのレギンスまで見えてしまっている。躊躇して手が泳いだが、胸中の下心を否定してスカートの裾を直した。
自分を除く全員が気絶した路地裏で、啓は空を仰ぐ。建物に隠され狭くなった空は、記憶にある色とは天地の差だった。
この世の全ての色が混在する空は、到底自然現象とは言い切れない。
一秒後には色を一変させる箇所も在れば、硬く不動を貫く箇所も在る。変色箇所はそのまま、現実の浸食を表していた。赤い空からは火が零れ、白い空は目を焼く光の柱。家屋も人も空の被害から逃げようと、慌ただしく走っている。
しかし何処に逃げるというのだ。空は果てしなく地球を覆い、深海まで潜ろうとこの異常現象から逃れられる保証は無い。
アレを色と、空と断じる事が既に可笑しい。常識外の現実だと考えながら、考えて分かると思っているのか。人間の五感が捉えられる目前の現象は、唯の現実である。夢ではない。
空が一段強く瞬き、全人類が停止した。
〈―――われら―――てき―――しょうめつ―――〉
言葉が途切れているのか、元々単語しか話していないようにも聞こえる。問題は音の発声元が、自分の脳みそである事だ。頭に声が響き、聴覚と意味の翻訳が同時に進む違和感。言語が日本語ではないと分かっても、本来の音が何かが聞き取れなかった。
続く言葉を必死で記憶し、啓の心臓が震えあがる。呼吸を忘れている間、生きている実感が消えていた。
〈―――――――――――――――ゆるさない―――〉
― ― ―
机に鞄を置く、いつもの騒がしい教室。騒がしさの中心が何なのか、予測の必要は無かった。
「ねえ!空見た!?聞いた!?」
啓が椅子に座る時間も待てなかったのは、同じクラスの姉ヶ崎友架。整った容姿と明るい性格で、クラスの中心の一角を担っている。地毛にしては綺麗な茶髪を流し、大きい目で此方を見ていた。
勢いに任せた問いかけが距離を詰め過ぎて、仄かに香る整髪剤から自然な仕草で遠ざかる。椅子の背を傾けながら座る啓を凝視した姉ヶ崎は、普段と変わらない反応に不満を表した。
「聞いてる!?異常現象だよ怪奇誕生だよ!?」
「聞こえてるから……怪奇、誕生?」
「えっ知らない?これ」
一応校則違反である携帯の持ち込み、クラスでそれを指摘する者も守っている者もいないので大丈夫だが、堂々とポケットから出した。スマートフォンの画面はネットニュース、ではなく連絡アプリのトーク画面。他人に見せるのはかなり憚れる筈だが、当人にその様子は無かった。
トークの相手に同情しながら、好奇心のまま覗く。
[見てコレ!ヤバくない!!!???]
【画像】
【スタンプ】[信じられない!?]
[合成?どこから拾ったの?]
[違うし!!!]
【スタンプ】[怒りマーク]
[こないだアイス買ったじゃん!コンビニの近く!]
注目すべきはやはり画像、時刻は夜中珍しくも無い街灯が照らすアスファルトの歩道。そこには一人の男が写っている。成人した三十代位の男性が、背中から翅を生やして浮いているのだ。男性の体格に合わせた大きさで、三対の虫のような翅が見えた。
明らかに現実なら異常と言うしかない画像、逸脱した内容に真偽を疑う声と考えが同調する。疑いをもって静まり掛けた胸の内が、昨日の記憶を脳で再生され荒ぶった。
異常を既に見ている啓は、一言目を声に出せない。
「これは……気持ち悪いな」
「前の中学の友達なんだけど、覚えてる?早瀬加奈ちゃん!」
姉ヶ崎とは小学校から、腐れ縁が続いている。彼女と同じ中学という事は、啓と同じ中学という事。名前を聞いて、ようやく顔をうっすら思い出した。姉ヶ崎の友達なんて啓が覚えている人間の名前より多いのだ、顔を思い出せただけ良く覚えていただろう。
昨日の記憶が蘇る。あるきっかけで立ち寄った路地裏、そこで起こった異常な現象。世界の異変を全人類が感じている、特別啓だけが抱えている不安ではない。それでも頭の中は疑問と恐怖、そして未知の感情が占めていた。
「やば!?先生来る!ねえねえ!今日学食行かない!?」
廊下から担任の声が聞こえた。慌ただしく移動するクラスメイトの足音に混じって、姉ヶ崎が昼食の同伴を提案する。友達が多いくせに、彼女は定期的に啓を誘う。このマメさが友達の多い理由の一つかもしれない。
だがその誘いも小学校から続いているのだ、断る自分に罪悪感も湧きはしなかった。
「いや、先約が有る」
鞄の中のコンビニ弁当を思い出し、啓は窓の外を見た。規則性の無い空の異常は、今もテレビと話題を盛り上げている。
意識は遠く、隣のクラス。
そこにはきっと近い悩みを抱えた彼女が、同じ空を見ているだろう。
田舎とはいえ学校の敷地内で、完全に無人の場所は少ない。特に会話も聞かれず接触も気付かれない場所となると、かなり絞られる。そんな場所は大抵思春期である高校生が占領していたり、教師の管理下に置かれているだろう。
啓が弁当を片手にノックした扉の先も、本来教師の管轄内だ。
「どうぞ」
科学準備室とプレートに書かれた部屋の扉、その向こう側から聞こえた声にドアノブを掴む。棚に陳列された備品の数に圧倒され、戸惑いが二の足を踏ませた。
勝手な妄想だが、狭苦しいイメージがあった科学準備室には意図の不明な机と椅子が置かれている。管理している教師の都合か、昔から有る物なのか。種類の違う椅子の一つに、彼女は座っていた。
「鍵は閉めて、一応」
「あ、はい」
異性と二人っきり、この状況を面白おかしく騒ぎ立てる啓の心は、一言で鎮静化した。
世界がどんな状況であっても、生きている限り腹は減る。コンビニで購入した唐揚げ弁当は、近年のコンビニ激戦で勝ち残るに足る味だった。実につまらない自尊心、味覚に大した自信も無く消費者という立場だけで目線を下に向けたがる。誰かの上で居たいと、幼い欲望が言動で示された。
互いに食事を終えれば、やっと話しが出来そうだ。固定された彼女の視線は、啓の視線を泳がせる。眼力が凄かった。
「状況を整理する。まずニュースは見た?」
「ああ、見た。世界中で起こった空の異変と、謎の声」
まだ二十四時間と経っていない、昨日の午後五時十一分。
世界は何者かの攻撃を受けた。
空はどんな緯度も時間も天気も関係無く混沌を表し、それは現在も続いている。まるでチャンネルが変わっているように色を変え、時折馴染みある青を見せた。まだ名前すら付いていない、地球を閉じ込めた異常な空。
空から落ちた謎の物体や現象がもたらした被害は甚大で、その正体は不明なまま。原理も仕組みも分からない現象を、自然か故意か判別する方法は無かった。
理解不能な現象、しかし「何者かの攻撃」と断じれる証拠が後に並んだ。脳みそに直接響いた声である。
明らかに敵意を滲ませた単語と声の深さに、全人類が謎の恐怖を抱いただろう。向けられた感情の重みが、そのまま敵からの攻撃であると結論付けられた。言語を発生する生物全てに起きた現象かは不明だが、赤子にも聞こえた事は後日発表される。
敵からの原理不明な脅迫、空の異常と合わせて世界は今揺れに揺れていた。
そして啓と彼女が顔を突き合わせている理由は、三つ目の異常についてである。
「空の異常とほぼ同時に、えっと……」
「御神零」
「御神さん、が……全身から電気を流した」
「少し憶えてる。その後はアンタに起こされるまで覚えてない」
「宙に浮いて、全身から凄い電気を発してた。でも衣服にも体にも、電気の被害は見られなかったんだ。無意識のうちに電気を制御してたのかも」
「制御?……そもそもあの力は私から発生したものなの?空の異常と無関係で無いなら、アレは外部からの干渉と考えた方が良いでしょ。異常に関係した何者かが、私に攻撃か何かしたとか」
「いや、原因はともかくあの力は御神さんから発生したと考えた方が良いと思う」
「何で?」
すかさず朝礼の前に知り、送ってもらった画像を見せた。姉ヶ崎が見せたトーク画面の写真である。背中から翅を生やした男性、明らかに現実に在ったとは考えられない写真だ。現実離れという点では、昨日の全身電流事件と同じだろう。
啓の言いたい部分を理解した御神は、画像を見る為机に乗り上げた体を戻した。
「なるほど、つまり空の異常と同じで全世界で人間にも異常が起きている。そう考えてるんだ?」
「まあ、一日じゃ分からないけど……」
確証はないと視線を下げつつ、心の何処かで確信を抱いていた。異常が起こる前後、その一部始終を観ていたのだ。観ていない人間に説明出来るものでも無いが、啓の中では確定事項となっていた。
その後も数カ所の事実確認と疑問点を交わし、昼休みを考慮した余裕ある時間に準備室を出た。聞きたい事今分かる事の大半を話した啓と御神は、廊下に出れば会話の種を無くしている。昨日の出来事が起こる前は、普通に顔も知らない者同士。世間話をする気安さも親しさも無い。
終わるのだろうか、この謎の接点が生んだ邂逅は効果を失ったのだろうか。
足元が崩れるような感覚。啓を支える世界の軸が消え、奈落に堕ちる浮遊感。何故これ程の絶望が生じたのか、自分でも分からなかった。消え掛けている世界の軸、一枚の紙を思い出した。
昨日の放課後、日直として職員室を後にした時である。新聞や学門関係の雑誌が置かれた、閲覧コーナーが目に留まった。
近隣地方の新聞や地方雑誌、進学や就職に関係している雑誌が専用棚に陳列している。中には新聞部が数ヶ月分の新聞を纏めた冊子や、文芸部の小説集も有った。職員室には何度か来ているが、全く気付かなかった。
初めて視る物への興味だけで、陳列されている雑誌への興味は欠片も涌かない。薄れゆく視線の力が最後に映したのは、文芸部の小説集最新号だった。
世界が変わる瞬間を知っていますか?
小説集の題名だろう。表紙は簡素な手書きだが、本を開けようとする誰かの姿。
その簡単な構図と言葉に、どうしようもなく惹かれていた。下校時間の遅れや無駄な体力、そんな要素を無意識に頭から除き本を取る。
中身はなんてことは無い、文芸部員達が書いた短編小説を綴った本だ。適当に捲っていると、部長という紹介の後に繋がる名前の部分が消えていた。挟まれていた紙に隠れているだけだ。紙は商品引換券だった、しかもコロッケ。コーンが嫌いな啓にとって、挽肉やノーマル以外のコロッケは警戒対象だ。特に安いコロッケには大抵入っているので、中身が分からないコロッケは食べなかった。
しかし平均より体が薄いとはいえ、立派な男子高校生。買い食いしても夕飯には全く支障が無い位には、空腹を感じていた。
コロッケの引換券を抜いて、ブレザーのポケットに仕舞う。
裏に書かれていた店の名前から場所と帰り道を模索、それが世界が変わる瞬間だったのだ。
偶然目にした路地裏での喧嘩と、異常事態。そこから始まった世界の変化が、神部啓と御神零を出会わせた。
その奇跡を再度実感し、啓は二歩先を歩く彼女を呼び止める。
「あの!!―――え?」
影だ、人の影が視界の端を通った。
二人しかいない廊下で、三人目の人の影。出所は、目を丸くする御神の視線を辿る。
咄嗟に横を向いた啓の視界には、窓硝子の向こうで靴が落ちていた。
硝子に跳び付き下を見る御神を、啓は呆然と眺める。現実を受け止めるより早く、脳内で言語化だけが進む。
人が落ちた。直ぐ真上から人が落ち、地面に叩き付けられたのだ。
御神が身を翻し、廊下を駆ける。反射で追いかける啓は、不思議な思考の巡りをしていた。走る御神の背中に、彼女が屋上を目指していると理解したのだ。校則違反で持っている携帯で救急車を呼ぶでもなく、職員室で教師に助けを求めるでもなく。
跳ね除けられた屋上の扉の先、追いついた啓はその惨状に昨日の路地裏を重ねた。
「……あ……ぁ」
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
倒れているのが女子で、場所が屋上である以外殆ど同じ状況だった。複数人が倒れ痛みに呻き、意識の有る者は唯一立っている者へ謝罪を繰り返している。フェンスに食い込むように意識を無くしている者は、俯いた顔から血を流していた。
漫画のような光景、一人が複数を打倒した状況を目の当たりにしている。しかしどうしても納得が出来ないのは、打倒したその一人。どう見ても非力そうな少女だった。線の細さで言えば御神と大きく変わらないが、纏う空気があまりに違う。
「さっき人を突き落とした?」
声を掛けられて、初めて啓達に気付いたらしい。倒れている女子達を見ていた瞳を、正面から見る。暗闇を覗いているような目だ。
勝手に足を下げる啓とは反対に、疑問も足も引かない御神。曲がらない視線に、少女の方が視線を逸らした。隠し事が有る、後ろめたさがある仕草。
「……」
「ねえ、聞いてる?」
「……さい」
「なんて?」
「うるさい!!!」
ゴオオッ!!
風の塊が鼓膜を揺らした、屋上という要素を加味しても不自然なタイミング。声を荒げ目端を吊り上げる少女は、弱々しかった腰を上げた。
「知らないわよこんな奴ら!!?人の事を都合の良いサンドバックにするような最低な奴らよ!?他人の痛みを分からない奴は、痛めつけられて当然じゃない!!?」
少女は荒ぶる風に制服を揺らし、頭に血を昇らせている。優等生の模範である少女の制服と、改造・着崩しが見える足下の女子。分かりやすいリンチされる側とする側だ。
少女の叫びに同情し表情を歪める啓、第三者としては正しい感情だろう。それを少女が望んでいない事は知っているが、心は正直なのだ。
そして正直な思春期の心、その嗜虐的側面の被害者の叫びは止まらない。
「今更来たって遅い!!何もかも!全部遅いの!!」
今度は偶然の余地無く、風が弾丸となって御神を襲った。目で違和感として追える程の空気の歪みが、御神の体を浮かせ跳ね飛ばす。
「御神さん!?」
飛ばされた方向から屋上の出入り口の壁に激突する、そこまで考えてはいないかったが咄嗟に声が出ていた。浮かされ背後に壁が迫る御神は、足を畳み両手で態勢を作る。風で横向きになった重力が、一瞬壁を床に見立てた。
着地した壁から跳ね、元の床に降りた御神を少女は睨む。
「なによ!いきなり出てきて人を犯罪者みたいに……、此奴らこそ犯罪者じゃない!!人をゴミみたいに扱って、平然として!自分達が同じ目にあわなきゃ分からない!だからやったの!」
「……つまり、いじめられてたから反撃した?」
「やられたからやり返したの!悪い!?」
「いや、よくやった」
風が吹く屋上で、御神の言葉は広がる。不穏な空気を察して距離を置いた啓は、叫んでいた少女と一緒に言葉の意味を疑った。いじめを擁護する訳では無いが、屋上から人を落としたかもしれない少女の所業を褒めたのだ。
屋上を満たす風が弱まった気がした。少女の様子に呼応する空気の流れが、御神の存在感に畏怖しているようだ。
「アンタは不当な扱いを受けて、それに異議を唱え己の力で抵抗した。そして勝った」
「……なにを……」
「そこまでは別に良い、他人の喧嘩に口出す気は無い。だけど!」
一歩だ。たった一歩の動きで、御神が場を制圧する。呑み込まれた少女は、足を一歩引いていた。
「私に一発入れたんだ。私がその分仕返ししても、それは正当でしょ」
いっそ清々しい理論である。コレは正当防衛だと、拳を作ってみせる姿。
突如喧嘩腰になった御神に怖気づいた少女が、青い顔で髪を乱す。少女の気配に呼応した風が、周囲を不自然に巻き上げた。
「……な……こないでえええ!!!」
耳朶を震わせていた風が消え、啓の周囲が無音になった。その全ての異変が、御神を襲う。
原理も理由も分からないが、屋上を取り巻く空気の流れが御神一点に集中している。女子高生一人を浮かせて弾く、自然に発生したとは到底考えられない。啓は姉ヶ崎に見せられた、翅人間の写真を思い出す。
推測は正しかった。空から降った謎の声、それに何らかの影響を受けた人類の変異。
少なくとも同学校内に二人以上の、変異した人間が居る。これは予想以上の規模かもしれない。世界中で同程度の影響が在ったなら、啓の想像を絶する事態が待っているだろう。
だが先ずは目の前の喧嘩だ。
「弱い!!」
「イヤアアア、こないでよおおお!!!?」
目に見えない空気の流れを察し、拳で払い足で耐える御神。どんな五感で風を防いでいるのか、並外れた感覚器官である。
しかし御神の方に変異の力―便宜上〝能力〟と呼称するが―を行使する様子が無い。使い方が分からないのか、暴走を恐れてわざと抑えているのか。使わなくても勝てると踏んでいるのかもしれない。
肉体派ではないと自他共に認める啓は、忍び足でフェンスの方に近寄った。フェンスにめり込んで気を失っている女子生徒の救助だ、それ位は出来る。大きな音を立てて喧嘩に横槍を入れないように、慎重に体を地面に下ろした。
屋上に上ったきっかけ、落下した生徒を思い出し下を覗く。倒れている生徒と、駆け寄る教師の姿が見えた。
見付かる前に屋上に引っ込もうとしたが、落下した生徒を教師が運ぶ姿を目撃して慎重が吹き飛んだ。
四階建ての学校の屋上から無防備に落下して、生徒は負傷した。
負傷で済んだのだ。
散り散りになる野次馬、落下した地点には血の一滴も見えない。見上げようとする生徒すらいない、屋上から落ちたとは思えない程軽傷だったのだ。
在り得るのだろうか。即死を運良く免れたとしても、屋上から落ちて軽傷など。
情報が光となって脳を走る。
雷を纏い、怪我一つ無く浮いた御神。
雷は肉体から発生した訳じゃない?
〝能力〟を制御出来ていない御神は、窓越しに落下する生徒を見た。
非現実的な現実を前に、無意識が働いたら?
啓の周囲が音を失くし、無秩序に御神を襲う風。
空気の流れを集積し、敵意の矛先に向けている?
雷、つまり電気は空気中に存在する。
無意識の領域、感情が〝能力〟を露わにする。
手繰り寄せられた風、その対象こそが―――
「―――『 収束 』だ―――!!!」
「は?」
「御神、さんの〝能力〟は電気を自身に『収束』する!!でも肉体にダメージが届く前に、無意識に〝能力〟を解除する!だからあの時怪我が無かったんだ!!」
動きを止めた御神といきなり叫び出す啓に、少女も出した手が退いた。横槍を恐れていた理性はとっくに失せ、脳内の答えを喚き散らす。
「制御出来なかった〝能力〟で集まった電気が、空気を熱して突風を起こす!だから浮いていたんだ!そして屋上から落下する生徒を、御神さんは無意識に引き寄せた!助けようとしたんだ!」
「え……生きて、るの……?」
「落下の勢いを『収束』で軽減したんだ、生きてる!」
自分が突き落とした相手が生きていると知った少女は、形容し難い表情になる。死者が出なかった事は喜ばしい、だがあの時彼女には確かな悪意が有った。死んでしまえと思って、突き落としたのだ。
決死の行動が起こした結果に、少女の思考が最も最初の記憶を呼び覚ました。
綺麗に整えてもらった髪を引っ張られ、制服で隠れた場所を殴り蹴られる。
笑っていた。
涙に濡れる少女の顔を、嘲り笑っていた。
恐怖は感情ではない、生き物としての本能だ。
繰り返されるかもしれない、暴虐の可能性。
また殺されるかもしれない。
「いやああああああああああああああああああ!!!!!!???」
空気が啓達を襲う。過剰に『収束』された風は、視覚に捕らえられる程濃密だった。風速で襲う無色の砲弾が、啓の前髪を掻き上げる。
あ、死んだ。
背後にはひしゃげたフェンス、衝撃で死ぬか落とされて死ぬか、悩む暇すら無い。
命を刈る風に体から力が抜けた啓は、見ているだけとなった。
「『収束』、ね……!」
視界の外から割り込んだ御神が、砲弾の正面に立つ。両手を突き出し、鼓膜を裂くような音が響いた。実際に裂いたのだろう。荒ぶる感情が放つ空気の撃が、白い閃光の熱を浴びたのだ。
バヂイイイィィィ――――――!!!
視界の回復に数秒を要した。瞬きの間に完結した雷の光が、少女の恐怖を破壊。
「あ―――」
ドンッ!!
次手を遮る踏み込みの低音、床に拡がる振動が少女の骨を揺らした。それは神経をも揺らし、膝を砕く。
目前で停止した拳は下ろされ、突如始まった喧嘩は決着した。
耳は心臓の鼓動で一杯だが、思い出した呼吸で思考が元に戻る。
御神は啓の言葉に反応し、何らかの答えを得た。その答えを使って、〝能力〟の限定的制御を獲得したのだ。感情のままに放たれた風を打ち破り、正面から勝って見せた。
言葉と共に喚き散らし〝能力〟を暴走させていた少女と比べれば、安定した力の使い方だ。変異の直後に起きた〝能力〟を間近で見ていた啓にすれば、その差は歴然である。
御神は訳も分からない力を完全に抑え、他人の命の危機に正しく反応してみせた。そして〝能力〟の解を得た後の行動は、電光石火の決着。それらが無意識だった事を含めても、その人間性が窺える。ある意味結果の見えていた勝負だった。
この喧嘩は理由も理解も曖昧な状況で始まった、それでもコレは御神と少女の喧嘩だ。
可笑しな話しだが、啓の胸中には勝利の高揚に近い衝撃が在った。
ただ無遠慮に〝能力〟を観察し、口を挟んだだけの第三者。しかし心は正直だ。勝ったのは自分達だと、心臓が煩く叫んでいる。今まで感じた事が無い程の喜びが、啓の頬を赤くした。
もっと、もっと勝利を。
「この喧嘩は私の勝ち」
「……」
「だから、もういいよ」
「……へ……?」
「もう、泣いて良いよ」
「…………ぅ、ううぅ……あああ……あああああああああ!!!」
自分の感情を真正面から受け止めた御神の言葉が、少女の涙腺を破裂させる。雨となった涙が制服を濡らし、悲愴が啓の高揚を塗り替えた。
解いた拳が、少女の頭を撫でる。涙に溢れた叫びが胸を絞め付け、混沌の空を重くした。
「痛かった!!」
「うん」
「怖くて……いやだって、言った!!」
「うん」
「な……なのに……アイツらがぁ!!」
「うん、頑張ったね」
「ううぐぅ、あああああああああ!!!」
壁も天井も無い屋上を埋める痛哭、戦いの気配が遠退いたを実感した啓は座り込んだ。
少女は頭の上の手を取り、縋り付く。ずっと探していた宝物を見付けた子供のように、少女は泣いて縋り痛みを吐いた。
御神は無言で、少女の悲痛を受け入れていた。
音も無く、少女の全身が微かに光る。太陽光に色が近く光量は僅かだが、間違いなく光っていた。
その光が縋り付く手を伝い、御神に移ったのだ。明らかに普通じゃない現象。直ぐに離れるべきだと考えたが、御神は動かなかった。目の前で少女が光った事に、気付いていた筈だ。それでも御神は静かに光を見送って、少女を振り払わない。
異常な現象による今後の影響より、現在の少女の慟哭を御神は優先した。
啓は何も言えなかった、言う資格も無い。御神に起きたかもしれない異常も、少女の悲しみも、啓には何も出来ないのだ。
〈――――――ひとりめの―――しんてん―――かくにん〉
声が。
恐らく全人類の脳みそが震えている、空気ではない何かの振動によって伝えられる謎の声。昨日と同じだ、低めだが男か女かも分からない非現実的な声明文。
啓の耳には謎の声と、爆発しそうな鼓動だけが響いていた。
〈―――とうたつ―――あとさん―――〉
色が混ざり過ぎて頭が可笑しくなりそうな空が口を得たら、こんな声なのかもしれない。きっと啓はこの瞬間と言葉を、二度と忘れられないだろう。
〈じゅう―――いる――――――ころしてやる――――――〉
命の熱が消えた感覚、生きた心地がしなかった。声の消えた頭が、耳鳴りを残して止まってしまう。学校全体が色めき立ち、不安の喧騒が聞こえる。いや日本が、この星全てが騒いでいるだろう。
魂を凍らせた冷気の余韻を頭から払い、視界を上げる。魂が再度震え上がった。
御神の細めた瞳、その奥が憤怒で満ちていた。
痛覚を刺激する眼光の輝きは、混沌に揺れる空を強く睨んでいる。
蚊帳の外である啓ですら、指先が震える怒りだ。一体先の声の何が、それ程御神の琴線を突いたのか。尋常ではない瞳の鋭さは、殺気と呼んで遜色なかった。
まるで神に挑む人間の図だ。
無謀と無秩序な変異が重なって描かれた光景に、啓の心は歓喜し高鳴った。言葉にならない決意が啓を笑わせ、運命に感謝する。
人の世界を変えるなら、紙一枚有れば良い。
啓の世界は唯の紙と、御神零によって生まれ変わった。
― ― ―
「ふ~んふふ~ん♪ふんふんふん……何だったかな?」
男は作業の手を止め、鼻歌の続きを思い出そうとした。昨晩通ったコンビニから流れていた曲で、テレビでも聞いた気がする曲だ。可愛い女子高生アイドルグループの曲で、今している作業のテンポを上げてくれる良いリズムだった。
「えっと……ああ、確か……ふ~ふ~ふふ~ん♪」
思い出せた男はご機嫌な様子で、作業を再開する。
バキッ、ゴキュ!ベシャ!
男は服や床に飛び散った赤を気にせず、何度も金槌を振り下ろした。
男にとっては、今更気にする程の事ではない。何故なら服や床だけではない、天井も壁も机も椅子もテレビもソファもカーペットも赤く染まっているのだ。
面倒な作業だと、男は溜め息を吐いた。
血も臓物も要らない、男が欲しいのは砕いた骨だけなのだ。
程よく砕かれて小さくなった骨は、ゆっくりと男の背中に吸い寄せられる。既に砕いた大人二人分と小学生位の男の子の分と合わさったそれらは、まるで蟲の翅のようだった。
血塗れになった男はタンスから出した適当な服に着替え、ベランダの窓を開ける。美しい月だが、空の色も星の瞬きも男には興味が無かった。
昨晩より更に硬度を増して美しくなった翅を動かし、男は空を飛んだ。皮肉にも男が丹精込めて作り上げた翅は、月光を浴びて白く輝いている。
そんな自然の光など要らない。
男は自分の力だけで、完全な翅を作りたいのだ。
きっと翅が完成すれば、あの変な色の空も越えられるだろう。
「次は……若い女の骨がいいな……」
世界は変わり続ける。
紙の一枚も必要無い。
閲覧有難う御座いました。