桜が咲くからこそ春
人が亡くなるシーンがあります。苦手な方はご注意ください。
時間の流れがよくわからない。でも、最近桜も咲き始めたから、多分もう一年が過ぎ、また春が来たのでしょう。
今年もまた、彼は来た。
彼は、御影石で作った私だけのお家の前で咲き誇った桜の花を置いて、そして私のお家を一日中見つめていた。
見つめるときの彼の瞳はまるでガラス玉みたいで、儚いような切ないような……生きる意味を失ったような絶望した目だった。ここで初めて会ったときはあんなにも必死に泣いて叫んでたのに、ここ数年はただただ静かに謝罪の言葉を口にしていた。そんな彼を見るたび、なぜだか無性に泣きたくなる。ねぇ……そんなに悲しまないで。
私には生きていた頃の記憶がない。だから彼は誰なのか、私自身は誰だったのかも、全然わからない。でも……きっと私にとって彼はかけがえのない大切な人だったでしょうね。なぜなら彼のことを、どうしようもなく愛しいと思ってしまっているから。
ねぇ……どうしてあんなに泣いていたの?どうしてずっと謝ってるの?何か悲しいことでもあったの?それとも何か悪いことしたの?
ねぇ……私、思い出せないの。あなたは誰?私は誰だった?……あなたは一体、私の誰だったの…?
×××××××
それは十八歳の春、私、桜田優希の高校卒業の日だった。
「桜田先輩!す、好きです!付き合ってくれませんか!」
「えっ、春山くん!?……それ、本気なの?」
「本気ですっ!お願いします!」
「……わ、私でよければ……」
私は、ずっと片思いをしてた一年下の後輩である春山湊くんに告白されました。湊くんは私の返事を聞いて、ぱぁって嬉しそうに笑顔をみなぎらせた。
「待っててくださいね?絶対先輩と同じ大学に入ってみせますから」
「うん、待ってるよ。春山くんなら絶対受かるから」
一年後、湊くんは私と同じ大学に受かった。彼も私も医学部で、専門こそ違うものの、学部は一緒だった。
三年間。一緒にいる時間がまた多くなった私たちは、なお一層仲良くなった。湊の紳士で優しいところも、かっこよくて真面目なところも、私はどうしようもなく愛おしいと思ってた。
遂に一線を超えたあの日、私はどれほど嬉しかったのかは、言うまでもない。私は初めてだったの。彼は、どうだったのかな?
自分から言うのもなんだけど……私、結構愛されてる自信があった。このままいけばプロポーズだってもうすぐじゃない、と彼の友人にからかわれるほどだった。……そしてそれが、本当のことになった。
それは二十二歳の春、私の大学卒業の日だった。
「優希さん、愛しています。俺は、優希さんと共にこれからの道を歩んで行きたいと思ってます」
「……湊……」
「あと一年、待ってください。俺が大学卒業したら、結婚してくれませんか?」
私はプロポーズされた。この世で一番愛してる人に。でも……。
「……ごめんね」
二十二歳の春。プロポーズされた日の前日、私は……
余命一年だって、医者さんに言われたのだった。
「……り、理由を聞いても?」
白血病ーー血のガン病で、血液型のこととか色々あって、治れるチャンスはほぼゼロ。だから一年後の私は多分もう死んだよ、だなんて言えるはずもなく。
「……こんなにも容易く騙されるなんて思わなかったよ」
「……えっ……優希さん、今、なんて…」
「聞こえなかったの?騙したんだよ。あんた顔好みだったから、ちょっと恋人ごっこしてやろ〜って思っただけ。まさか本気にしてたの?マジウケる!」
無意識に右手で左の前髪を整理した。
「……冗談…いや、嘘付かないでください」
「はあ?まだわかってないの?だから遊びだったのよ遊び。プロポーズされた時点でもう終わりよ。というわけでこれからは他人扱いでよろしくー。じゃ」
嘘でも好きじゃないなんて言えなかった私を、どうか許してください。
「優希さん、待ってください!何か、何かあったんですか…!」
叫ぶ湊を無視してその場から離れた。外国にいてほぼ連絡取っていない両親にさえ知らせたこのことだけは、彼に知られたくなかった。無駄な心配を、かけたくなかった。
でも叫んだ言葉から聞くと、もう何かを察したんでしょうね。湊は昔から賢いからね……鋭すぎてかなり困った。何もかもお見通ししてしまいそうで、怖かった。
あれから四ヶ月後のある日、私の病状が急激に悪化した。家に帰る途中に街で倒れてて、救急車で病院に運ばれた。
「これほどの重症で街でうろちょろするなんて!命を大切にしなさい!まったく……今回は本っ当に危なかったんですからね」
「……すみません」
「ここしばらくは入院観察な」
「はい……すみません」
彼の帰り道でそっと彼のことを見ていた、だなんて言えるはずもなく、医者さんの質問にひたすら謝るしかなかった。
例え、私たちはもう恋人同士じゃなくなったとしても、一目だけ見れても満足だった。
私、もう直ぐで死んじゃうのかな。彼に、会いたいなぁ。はぁ……こんなときさえ、一番会いたい人は彼だなんて……
「優希さんっ!!」
病院にいるはずのなかった人の切羽詰まった声が響いた。
「湊…?なんで……な、なんでいるのよ!私のことを笑いに来たわけ?」
……なんで、いるのよ。私が会いたいと思っているときに来たなんて、ずるい……。
「……優希さん」
「他人扱いの意味がわからないとでも?さっさと出てって!」
「優希さん…!なんで!なんで黙ってたんですかっ!!」
……え……。
怒鳴られたのこれが初めてだった。
「はあ?べ、別に、ただの貧血だし、わざわざ話すことじゃないでしょう。それにあんたには関係ないし」
大した力の入れない右手で左の前髪を整理した。私も治療受けたらハゲちゃうのかな……なんか嫌だなぁ。
「……もう、隠さないでください。先生から聞いたんです。そんな重い病気で平然として街に出たとか、無理するのもほどがあります!」
「な、何のことか…」
「俺は!……そんなに頼りないんですか……そんなに、信用に至らないんですか…!」
「……」
ごめん。そうじゃないの。そんなわけないよ。……ごめんね。
「あのー、重症病室で大声出さないでください」
「あっ、はい、すいません」
……重症病室、か。
「あの、優希さん、ごめん、怒鳴ってて…」
「もういい加減に帰って。顔見たくないから二度と来ないで」
そう言ってベッドの上で湊に背を向けた。
もう無駄な迷惑を、かけたくなかった。そんな私は知らなかった。湊は、すぐにでも泣き出しそうな顔をしてたことを。
あれから三ヶ月間、ずっと死神と戦って過ごしていた。本のページに切られた傷口がなかなか治らなかったり、急に意識を失ったり、まともに歩くことすらできなかったり。
大学の同級生は卒業の後、どんなことをしているのかな?両親は今、どの国にいるのかな?……彼は、どうなってるのかな?元気、してるのかな?三ヶ月間。彼は言われた通り、二度と病院に来なかった。……それでいい。それでよかったんだ。
そしてある日、目が覚めたら、体がいつもより軽く、妙に元気も出たから、寝てばかりじゃなくてベッドの上に座ることもできた。
そこで、私は勘づいた。
「……私、今日で死ぬんだね……」
人は死ぬ前に、一時的にちょっと元気を取り戻すという説があるって聞いた。
ガタンッ!!!
病室の扉の方から急にすごい物音がした。視線を窓から音がした方向へ移すと、三ヶ月ぶりに見た、湊の姿があった。
「……ふふふ…幻覚、かな?死ぬ前にもう一度湊に会いたいという願いを叶えてくれたの?死神も案外優しいね……」
「……優希、さん」
湊はその整った顔をくしゃっと歪めた。その綺麗な目から涙が溢れ出した。
「……もう…幻覚なのに、何泣いてるの。……ほら、泣かないでこっちにおいで…私の、湊……」
一瞬もしかしたら幻覚じゃない、と疑ったけど、私の言われた通りにそばに来てくれたんだから、やっぱり幻覚だったね。
力を込めて彼を抱き締めた……と言っても今の私なんて大した力を持ってないけどね。そういえば彼とのぎゅーはいつぶりなんだろう。そのたくましい胸元に顔を埋め、あったかい腕に抱き締められるのは、いつぶりだったんだろう。
「……ゆうき、さんっ……」
「……ねぇ、湊。元気?私に会いたいって思ってない?……私は、会いたかったよ」
「おれも…おれもあいたかったですっ…!」
ふふふ、ちゃんと希望通りの答えをくれた。さすがは私の幻覚。
「……私ね、湊が好き……大好きだったの。……何回もひどいこと言ってごめんね……」
「……ううん、うそだって、わかって、ますから……」
「……本当はね、今も好きで、愛しているの。でも……そんなこと言ったら、あのおバカさんはね、きっと私のことを忘れてくれないわ。……結構、愛されてる自信あったのよ…うふふ……」
例え忘れてくれなくても、せめて彼の中の私とのいい思い出が消えれば、好きじゃなくなってくれれば、それでいい。
「……ケホッ!エホッ!」
「ゆうきさん!もういいからっ、しゃべらないでください!」
「……ううん、いいの。……ねぇ、さっき言ってたこと、本物の湊には言わないでよ?……あと、今の外見も内緒だよ?」
湊は私と違って、まだ夢も未来もあるから。湊は、ずっと前から立派な医者になりたがっていたんだ。私のせいで邪魔されるなんて、そんなの絶対嫌。……そして外見のことは、彼の中では一番可愛い自分でいたいという、私のわがままかな。
「……ねぇ、湊。……最後にもう一度、わがままを聞いてくれない?」
「はいっ、もちろんです。なんでも、いってください」
「……ふふ、ありがとう。……じゃあ……」
泣いているのに無理矢理作った湊の笑顔に心が痛みながらも、私はゆっくりと言い出した。
「……湊は、もう私のことなんか忘れて、いつかまた誰か素敵な女の子を好きになって、あの子を幸せにして。……そして湊は、誰よりも幸せになって……私の分まで生きて、幸せになってください……」
「そんなのっ、できるわけが…!」
「……お願い。……約束、して?」
湊は明日から世界が消えるかのような曇った顔をし、何かを言いたげに口を開けて、でもすぐに閉じて。そしてまた開けて、閉じて。何回も。
「……は、い……っ」
最後に、震えて、掠れた声で、約束してくれた。
「……ふふ、ありがとう……」
最後までわがままで、ごめんね。
もうすぐ時間切れだ。
死神が知らせてくれたかのように、まぶたがどんどん重くなっていく。もう、時間がないのね。
「……ねぇ、湊……一人にして、ごめんね。……私ね、湊に出会えて、好きになれて、よかったとずっと思ってたの。……たくさん素敵な思い出を、ありがとう……さよなら……愛して…い……」
二十三歳の春は、もう訪れることなく。二十二歳の冬、私は深い眠りへ落ちたのだった。
×××××××
それは十七歳の春、俺、春山湊は勇気出してずっと片思いしてた一年上の先輩である桜田優希先輩に告った。優希先輩からイエスをもらって、めでたく付き合うことになった。
「待っててくださいね?絶対先輩と同じ大学に入ってみせますから」
「うん、待ってるよ。春山くんなら絶対受かるから」
一年後、俺は優希先輩と同じ大学に受かった。専門こそ違うものの、同じ医学部にいたから会う時間が多かった。
三年間。一緒にいる時間がまた多くなった俺たちは、なお一層仲良くなった。優希さんの他人思いで優しいところも、可愛くて努力家なところも、俺はどうしようもなく愛おしいと思ってた。
遂に一線を超えたあの日、俺はどれほど嬉しかったのかは、言うまでもない。彼女は初めてだった。俺も、そうだった。
俺は、結構愛されてる自信があった。彼女の友人が、あの子ったら会うたびに惚気を強制的に聞かされて砂糖を吐きそう、と愚痴ったほどだった。……そして彼女が愛しすぎてたまらない俺は、プロポーズすると決めた。
それは二十一歳の春、優希さんの大学卒業の日だった。
「優希さん、愛しています。俺は、優希さんと共にこれからの道を歩んで行きたいと思ってます」
「……湊……」
「あと一年、待ってください。俺が大学卒業したら、結婚してくださいませんか?」
優希さんは一瞬驚いた顔して目を瞠ったが、すぐにどこか悲しくて泣きそうな顔で微笑んだ。
「……ごめんね」
俺は、断られたのだった。
「り、理由を聞いても?」
「……こんなにも容易く騙されるなんて思わなかったよ」
「えっ……優希さん、今、なんて…」
俺は自分の目と耳を疑った。なぜなら優希さんは、今まで見たことのない顔と聞いたことのない口調で、嘲笑の言葉を口にしたんからだ。
「聞こえなかったの?騙したんだよ。あんた顔好みだったから、ちょっと恋人ごっこしてやろ〜って思っただけ。まさか本気にしてたの?マジウケる!」
優希さんは右手で左の前髪を整理した。その瞬間俺は気づいた。優希さんは、本気で言っているわけじゃないということを。
「……はぁ、冗談…いや、嘘付かないでください」
昔から優希さんは嘘を付くたび、必ず右手で左の前髪を触る癖があったから。
「はあ?まだわかってないの?だから遊びだったのよ遊び。プロポーズされた時点でもう終わりよ。というわけでこれからは他人扱いよろしくー。じゃ」
「優希さん、待ってください!何か、何かあったんですか…!」
叫ぶ俺を無視して、優希さんはその場から去った。何かあったのは確かなことだ。だが……どうして、話してくれなかったんだ。
あれから、気づけば優希さんの姿を目で追いついていた。遠くからしか見られない華奢な彼女は、気のせいかさらに痩せた気がした。
彼女はきっとちゃんとした理由があってそんなことを言ったんだ。それを俺に言わないってことは、彼女の中に俺もその程度ってわけだ。だからあれからずっと自分に諦めろって言い聞かせたのだ……ーーあの日までは。
強制的にお別れされてから四ヶ月後のある日。大学から家に帰ってしばし、一通の電話がかかってきた。
『もしもし、春山湊様で間違いございませんか』
「はい、春山ですが…どなたですか?」
『こちら○○○病院……』
市内の病院からの電話だった。優希さんが街で倒れてて病院に送られたと。電話してくれた看護師によると、俺は彼女の唯一の緊急連絡先のため連絡したという。できれば早急に来てください、とのことだった。
その瞬間、俺は恐怖や心配で気が狂いそうになった。なぜ倒れた。貧血?熱中症?……それとも、他?
できるだけ早く病院に行った。彼氏だのフィアンセだの言って、なんとかして主治医から優希さんの状況を聞き出した。
白血病、余命約半年。
それを聞いた瞬間、頭が真っ白になって、気づけば病室の中に駆け込んだ。
「優希さんっ!!」
……優希さん……いつの間に、こんなに病弱になったんだ……!
「湊…?なんで……な、なんでいるのよ!私のことを笑いに来たわけ?」
「……優希さん」
「他人扱いの意味がわからないとでも?さっさと出てって!」
……こんなときさえ、それを言うのか……泣きそうな顔しながら言うんだったら、無理してそんな言い方しなけりゃいいんじゃないか……!なんで……!
「優希さん…!なんで!なんで黙ってたんですかっ!!」
「……はあ?べ、別に、ただの貧血だし、わざわざ話すことじゃないでしょう。それにあんたには関係ないし」
優希さんはまた、右手で左の前髪を整理した。また、隠すつもりか……!
「……もう、隠さないでください。先生から聞いたんです。そんな重い病気で平然として街に出たとか、無理するのもほどがあります!」
「な、何のことか…」
「俺は!……そんなに頼りないんですか……そんなに、信用に至らないんですか…!」
「……」
涙の雫が優希さんの綺麗な目から溢れ落ちた。泣いてないで、何か、言ってくださいよ……。
「あのー、重症病室で大声出さないでください」
「あっ、はい、すいません」
頭に昇った感情が一気に冷めた。そうだ、今になって怒っても意味がない。
「あの、優希さん、ごめん、怒鳴ってて…」
「もういい加減に帰って。顔見たくないから二度と来ないで」
……優希さん……そこまで言う必要、あるのか…?優希さんは、こんなにも寂しくて悲しい目をしていたのに。こんなときばかりは、彼女の他人思いなとこが、限りなく恨めしい。
あれから三ヶ月間、俺は毎日彼女の状況を見に病院に行った。中には入らず、外から彼女の病室を覗き込んだだけだった。俺がいると知ったら、彼女ならまた無理して元気なふりをするだろうな。
三ヶ月間。俺は毎日白血病について必死に調べていた。何か、優希さんと似たようなケースはないか、治す方法はないか、ずっと必死に調べていた。
そしてある日、ようやく小さな突破口を見つけた。
その日の昼過ぎ、俺はいつも通り優希さんのところに通った。病室の中から漏れ出した優希さんの声を、俺は耳をすませて聞いた。
「……私、今日で死ぬんだね……」
それは質問や憂いなんかじゃなかった。呟いた口調は、確信そのものだったのだ。
ガタンッ!!!
途端、俺は全身から血が引いた感じがした。手に持ってた資料と果物も、思わず落としてしまった。拾う余裕もなく、俺はそのまま病室の扉を開けた。
三ヶ月ぶりに真正面から見た彼女は、どこか儚い空気を纏っていた。
「……ふふふ…幻覚、かな?死ぬ前にもう一度湊に会いたいという願いを叶えてくれたの?死神も案外優しいね……」
「……優希、さん」
いつになく無力な笑顔や柔らかい声に心臓がぎゅっと痛く締まり、悲しみが湧いてきてついつい涙が溢れてしまった。
「……もう…幻覚なのに、何泣いてるの。……ほら、泣かないでこっちにおいで…私の、湊……」
言われた通りに彼女のそばに行ったら、あまり力が入っていない細い腕に抱き締められた。彼女を抱き締めるのはいつぶりだったんだろう、なんて考えていなかった。もう痩せすぎて骨と皮ばかりになっているんじゃないかとしか、頭になかったのだ。
「……ゆうき、さんっ……」
「……ねぇ、湊。元気?私に会いたいって思ってない?……私は、会いたかったよ」
「おれも…おれもあいたかったですっ…!」
涙のせいで呂律がうまく回らなかった。毎日、どれほど会いたくて、話したくて、触れたく思っていたのか、彼女は知らないだろうな。
「……私ね、湊が好き…大好きだったの。……何回もひどいこと言ってごめんね……」
「……ううん、うそだって、わかって、ますから……」
「……本当はね、今も好きで、愛しているの。でも……そんなこと言ったら、あのおバカさんはね、きっと私のことを忘れてくれないわ。……結構、愛されてる自信あったのよ…うふふ……」
……忘れる…はずあるか……!
「……ケホッ!エホッ!」
「ゆうきさん!もういいからっ、しゃべらないでください!」
「……ううん、いいの。……ねぇ、さっき言ってたこと、本物の湊には言わないでよ?……あと、今の外見も内緒だよ?」
……このっ、バカっ…!
「……ねぇ、湊。……最後にもう一度、わがままを聞いてくれない?」
「はいっ、もちろんですよ。なんでも、いってください」
できるだけ優しく微笑んだ。
「……ふふ、ありがとう。……じゃあ……」
何を、言うのかな。食べたいもの?欲しいもの?それとも、どこかに行きたい?
「……湊は、もう私のことなんか忘れて、いつかまた誰か素敵な女の子を好きになって、あの子を幸せにして。……そして湊は、誰よりも幸せになって……私の分まで生きて、幸せになってください……」
……えっ……?
「そんなのっ、できるわけが…!」
……これは優希さんの願いだ。例え嘘でも、絶対できないってわかっていても、叶えてあげるべきなんだ。それなのにっ…!………俺は……俺はっ…!
「……お願い。……約束、して?」
「……は、い……っ」
「……ふふ、ありがとう……」
いっぱい悩んで出した結果、俺は声を絞り出して彼女と約束したのだった。俺の返事を聞いて彼女はどこか寂しいような、でもホッとしたような笑顔になった。
「……ねぇ、湊……一人にして、ごめんね。……私ね、湊に出会えて、好きになれて、よかったとずっと思ってたの」
だ、だめだ!やめろ!そんな言い方しないでくれ!
「……たくさんの素敵な思い出を、ありがとう。さよなら……愛して…い……」
「優希さんっ!!しっかりしてくださいっ!!だ、誰か……先生っ!先生ーーー!!!」
っ、行くな!行かないでくれ!!……俺を、一人にしないで…!……置いて、いかないでくれ……!
……俺は、立派な医者になりたかった。俺の夢が叶えるのを優希さんが一番そばで見守ってくれるって、約束したのに……なのに、何が夢だ…!何が未来だ…!優希さんがいなきゃ、そんなの意味がない…!……意味が…ないんだよ……。
二十一歳の冬、俺の愛した女性は、この世から儚く散り逝ったのだった。
×××××××
三十一歳の冬。あの日から十年。俺は成り行きで医者になって、運よく手術が失敗したことのない俺は、万能のヒーローと患者や看護師に呼ばれてる。……皮肉なものだ。
「春山先生!す、すす好きです!」
いつの間に目の前に来た新入りの看護師に告られた。周りに同僚が何人かいて、ブツブツと何か話している。
「あ〜あ、また告白かぁ。でも春山先生って本当にカッコいいですよね〜。三十代で未婚ですっけ」
「そう。あ、でも狙っても無駄だからね。あの子も百パーフラれるよ」
「え?なんでですか?」
「もう誰かと付き合う気がないって聞いたんだけど、なーんか訳ありっぽいよね……あの、先輩は確か春山先生と同じ大学でしたっけ?何か知りませんか?」
「……彼が生涯を誓った唯一の女性は、もういないのだから」
「……悪いが、君の気持ちには答えられない」
俺は、新入りの看護師にこう言った。……昔から何回も告られたが……俺の答えが変わることはない。
謝罪の言葉を口にしたのは……何万回目なんだろう。
「ごめん…ごめんね……優希さん。俺は、優希さんとの約束を守らなかった……守ることができなかった」
目の前の御影石を見つめ、縦に彫刻された名前を見つめ、また謝罪の言葉を口にした。涙は出なかった。涙なんて、もう何年前から乾かしたんだ。
「……優希さんは、ずるい人です。優希さんのことを忘れるのも…他の誰かを好きになって幸せにするのも…優希さんの分まで生きて幸せになるのも……できるはずがないというのに……」
……ずるい……本当にずるいよ……。
「……それなのに、そんなこと言って……後を追うことすら許してくれない……優希さんもいないのに、俺が幸せになれるわけ、ないじゃないですか……」
……優希さん……寂しい……苦しい……もう、一人で生きたくないんだ……。どうして、くれるんですか……。……ねぇ……優希さん……会いたいよ……。
ーーーー春に、桜が咲いていなければ、意味がないんだ。桜が咲くからこそ、春なんだよ……
お読みいただき、ありがとうございました。