七.妖狩
人の親から生まれた天の落とし子は、
天人にも為れず、妖とも交れず。
失くした何かを求め、荒野を彷徨う。
其の強さゆえ、後に「戦巫女」と呼ばれる光龍・紗柄。彼女は十七年前、祥岐国の北東に在る討伐士の集落で生まれた。
父は曽祖父の代から続く妖討伐士。母もまた、女ながら討伐士で、夫婦揃って国では名を知られた神人だった。
母親は若くして男の子を二人産み、数年経って女の子を産んだ。巫女である村長は、左肩に白龍の痣を持つ其の娘が、五百年振りに降臨した光の神巫女だと告げた。
光龍の転生、珠の如き童女は、紗柄と名付けられて人の世に迎えられた。
父親は、仲間たちの嫉妬を怖れて紗柄を隠した。家の奥に閉じ込め、人目に触れさせぬよう剣術と神術を仕込んだ。
神気を抑える『隠神術』を教え、娘の特異な気を消させて潜んでいたが、小さな村では長く保たなかった。一家は宵闇に紛れて抜け出し、北へ幾里も離れた寒村に住み着いた。古里とは異なり、討伐士のおらぬ村を敢えて選んだ。
此処でも家族で討伐稼業に勤しみ、妖の脅威に怯える村人たちを守った。妖を討つ力を有さぬ此の村の人々は、光龍と其の一族を得た僥倖に感謝した。
八つか九つという幼さで、紗柄は独りで妖と戦っていた。父母らの助けは要さない。身の丈に大きな剣を取り、血煙を立てながら異形を斬る様は、妖を斃すためだけに生を受けたのかと思う程。
長い髪を振り乱し、不浄の返り血に顔が汚れるのも厭わずに妖を殺してゆく姿は、聖なる巫女には見えない。天に仕える巫女どころか、人の子にすら見えない。左様な紗柄を、父は褒めた。母は誇りに思うと言った。
ところが彼らには、娘へ向ける温かな笑い顔が無かった。彼らは紗柄を産み落としたが、神巫女を地に降ろすための器でしかない――天を崇敬するがゆえに、彼らは紗柄の親には為れなかった。
「妖しの者を破る力を、人へ向けてはならん。討伐士の力は、人ならざる者に抗するために神々がくださったもの」
折に触れて、父は父ではなく、光龍を託された者としての言葉を紗柄に刻み付けた。逃げ出した一家に相応しい、貧しく狭い家の縁側に彼女と並び、薄く平坦な声で言い聞かせた。
「光龍の化身たるおまえは尚のこと。其の力はおまえのものではない。弱き人々のために使わねばならぬ」
物心付いた頃より何度も聞かされ、耳に胼胝が出来た。しかし、ある長雨の日。家を囲む暗緑の森を見詰めて唐突に、父はもう一つ付け加えた。
「おまえは天帝の与え給うた人形だ。人の世に生きていても、同じ人とは見なされぬ。だが人を憎み始めた途端、おまえは己の――光龍としての存在意義を失う」
紗柄の心に溜まり始めた何かを見付け、畏れていたのだろうか。父の冷たい声には、何時にも増して必死さが有った。
「揺るがぬ者に為れ、紗柄。誰にも降されず、神々以外の何者にも乱されぬ巫女に為らねば、おまえは無用の長物と為り果てる。いや、此の世の厄災と為りかねない」
終いの方は、紗柄には良く解らなかった。否、解らぬと己に信じ込ませていたのだが、採るべき返答は定められていた。
「心得ました、父上」
紗柄の声は素直で従順で、活き活きとした熱意に溢れていた。然れど彼女には、隣に居る父の顔を覗く勇気が無く、森の前に出来た水溜まりへと目線を落としていた。
淡々と交わされる、重厚な遣り取りの間、父と娘は一度も目を合わせなかった。凡愚の身で光龍の親と為ってしまった父の辛苦など、紗柄の想像が及ぶはずも無かった。
閉ざされた檻の中で、妖と闘う時が過ぎゆき、宿が回り出す日は兆し無く訪れた。
祥岐に冬がやって来た頃。一家が隠れ住む村の隣村で、化狐が出るとの噂が流れ着いた。そう遠くもないため、両親や兄たちは付いて行かず紗柄のみで発った。彼女が十歳を迎えた頃から、条件に依り彼女のみで討ちに行く機会が増えていた。
早朝より住人に案内されて、紗柄は村外れに在る白い樹林に着く。入口で置いて行かれた後は、霜が降りて寒々しい森を見回した。
姿が見えずとも、標的の位置は把握出来る。腰に携えた刀の柄を掴み、見定めた方角へ歩み出す。
鴉の小気味悪い鳴声が降る下で、枯れた葉や木枝を踏む音を立てて進む。風は無いが、今にも雪が舞って来そうな、刺すような冷気が漂う。
四半刻も経たぬ間に、林立する山毛欅の奥に獲物を見付けた。樹々の隙間より、紅の眼で此方を注視し動じない様子から、紗柄を待ち構えていたらしい。
妖しの気に加え、冬毛ではない灰白の毛並みと四本の尖った尾が、妖異であると示している。尾の数依り四百年は生きているとみられ、狐狸精の中では其処其処の格を持つ方であろう。
妖狐は人の精を吸い、力を蓄え長く生きる。血の臭いをさせておらずとも、在るだけで紗柄の狩る対象と為った。刀を抜き払い両手で構えると、躊躇無く土を蹴った。
紗柄に狙われるや否や、灰狐は背を向けて逃げ出す。術で抑えていない光龍の神気を感じ、命の危機を察したのだろう。
速さには自信の有る紗柄も、獣道に足を取られて思うように走れない。其れこそ妖術の如く、樹と樹の間をすり抜けて行く狐を見失わないのが精一杯だった。
走りつつ、何時ものように、あの狐をどのようにして殺すかを考える。只懸命に戦っていただけの始めの頃とは異なり、剣でなます斬りにするか、神力の炎で丸焼きにするか。如何なる方法で殺したと伝えれば、父母が感心し喜んでくれるか――紗柄が彼らを満足させられるのは、神巫女として、討伐士としての手柄のみだった。
誘き寄せられているとは思いもせず、紗柄は白色の森の終わりに出た。ずっと続いていた樹は無く為り、崖の先には雲に覆われた鼠色の空が広がる。
崖に追い詰めたはずの化け狐は、気配も含めて忽然と消えた。代わりに紗柄を待っていたのは、大岩に腰を下ろした翡翠色の男だった。