五.黒獣
人でありながら人の仇と為る、美しき黒色の獣。
地の底を見詰め、深淵を求める者――霞乃江。
義父を簒奪者に落とし、貴き姫君を屠ったのは、我利私欲のためか。
或いは、紡がれし魂を懸けて追い続ける、高尚な使命のためか。
其の心、誰ぞ知る。
親王晟凱は、祥岐王の良き弟だが、此れといって皆の目を惹く男ではなかった。秀麗な兄と違い容姿は十人並みで、英雄でも豪傑でもない。若かりし頃より兄王の陰で、冷酷かつ淫蕩な本質をひた隠し、世間を欺いてきた。
王の栄光を羨みながら、謀反を起こす気概も力も無い。何事も為さずに老いて死ぬ定めであったが、ある女を側らに置いたがために、兄を殺す罪咎を犯す羽目に為った。
彼の女、晟凱の娘にして、其の実は愛妾である。晟凱の妃の娘だが彼との子ではなく、妃が別の男ともうけた不義の子だった。
数年後、妃の密通を知って激怒した晟凱は、妃と間男を斬殺して娘だけ生かし、実子と偽り通した。生みの母にも父にも似ていない、天より舞い降りたかのような至美は、癇癪を起こして手討ちにするには惜し過ぎたのだ。
娘は、名を霞乃江といった。
人の子にして只人に非ず。彼女の妖美に魅せられ手繰り寄せられれば、人の倫など容易く破られてしまう。晟凱など一溜まりも無く、血を分けた娘だと誤解しつつも同衾するという、浅ましい愚行を犯した。
晟凱は己の宮の奥深くに霞乃江を置き、人目に触れさせずに育てた。彼女は長じるにつれて魔を深め、何時しか義父の耳元で、兄王を殺せと囁き始めた。
甘やかな声が誘うままに、兵を率いて神殿を占拠し、王子たちを殺させた。奥に幽閉していたはずの霞乃江は、知らぬうちに王師の将軍たちを晟凱側に付かせており、信じられぬ程簡単に運んでしまった。
其の足で碧佳宮へ入ると、主殿の広間には首の無い兄と姪・氷姫の骸が在った。室の片隅に控えていたのは、兄の首桶を手にした鉄面の大男であった。
愚かだが、決して頭の悪くない晟凱は、霞乃江が麗しいだけの人形ではないと気付き始めた。本当は勘付いていたが、義娘の齎らす花蜜の芳香に当てられ、獣じみた嗅覚を鈍らせていたのだ。
顔面を蒼白にした晟凱は、霞乃江の待つ奥間へ助けを求めに来た。彼女は白い薄衣を通した両の腕を広げ、幽鬼の如き兄殺しの男を頬笑みで迎えた。
晟凱は心の臓を掴まれ、五体の自由を奪われて、貪色な顔つきに転じた。床に組み敷いた霞乃江からは、鮮血と焼灰の臭いではなく、理性を崩す豊潤な香りがした。
束の間、罪も罰も忘却させられ、暴欲に呑まれた。霞乃江の肌に眩惑され、喜悦させることに夢中に為り、彼女が身を捩り、嬌音を上げる度に精気が漲り滾る。
暫し房中で耽った彼は、忽ちにして甦った。他人からは実の娘にしか見えぬ、霞乃江の裸身を讃美し、穢し、愛でた。
「まこと、おまえの言う通りに為ったな」
浅黒い手指が、娘の頸や背筋を撫ぜてゆく。晟凱にしか開かぬはずの身体は、彼しか知らぬはずの稀有なる媚態を成した。
「義父上のお役に立てて、霞乃は嬉しゅうございます。然れど……雪という王子を逃しました」
「あれは取るに足らぬ。直に捕らえられる」
義娘が如何にして、誰の力を借りて、晟凱の役に立ったか――彼は彼のために追及しなければならなかったが、口から出たのは別の問いだった。
「氷姫の最期は、如何であった」
「命乞いをいたしました。ご記憶に留める程の、価値有る女ではございません」
霞乃江の答えは意外だった。晟凱が目を付けていた美々しき剣の姫は、父の仇に諂ったりするであろうか。見苦しい最期を晒したりするであろうか。
「許しを請うたのなら、殺さず捕らえて来れば良いものを。あれ程の美姫はそうおらぬであろう」
何処までも貪欲な此の男は、気に入った麗姿の女を殺すのを好まなかった。現に、神殿で捕らえた兄王の妻は生かしてある。
霞乃江はふいと外方を向き、厚い紅唇を尖らせる。
「他の娘を褒めるのはお止めくださいまし。死体でも良いなら試してみてはいかが? 未だ腐り果ててはおらぬでしょう」
酷悪な言葉を浴びせられても、晟凱が募らせるのは、霞乃江への執愛ばかりであった。
「戯言よ。拗ねた顔も美しいな、霞乃」
再び覆い被さってきた義父の、汚穢な背中に爪を立てながら、黒巫女・霞乃江は天の闇を仰ぐ。
彼女が望むものは、暗黒の先の先に御座すという、遥かなるもの只一つ。肉体に受ける如何な快楽も苦痛も圧倒する魂の主――只、一柱。




