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凍える夢  作者: 亜薇
本編
5/33

三.暗転

 走る、走る、疾駆する。

 己が尊きもののために。

 振り返ることなかれ。

 自責の念に潰されたくなければ。

 立ち止まることなかれ。

 卑怯者のそしりを受けたくなければ。






 深い蒼天の流れる、恵み注ぐ日。

 王宮より一里程離れた石造の大神殿で、祥岐の王子たちに依る祈りの儀式が行われた。

 次代の王たる太子が取り仕切り、国の豊穣と平和を願う、年に一度の神事。武に優れた王子らが、天帝・聖龍に剣舞や供物を捧げ、妙齢の巫女らが祈祷する。立ち会うのは王族や神官たちのみで、三十名にも満たない。

 例年王と王妃も臨席していたが、王は数日前より具合が良くなく、王宮にて通常の公務を執っていた。

 王妃、および雪を含む四人の王子が一堂に会する場に、簒奪を企てる背信者の一団が現れた。

 神威有る聖堂が清貴せいきなる血に染まり、裏切りに制圧される。命辛々逃げおおせたのは、剣を持てぬゆえに舞えずにいた、雪只一人であった。

 此の日、氷姫は王都の外れに位置する王師の演習場に居た。婚約者の火澄も姫に従っていたが、途中で神殿を守る兵に合流するため、小隊を一つ連れて出て行った。

 半刻も経たぬうち、火澄は氷姫の元へ帰り膝をついた。彼は紅鳶色べにとびいろの長髪を一つに束ねた長身白皙の美丈夫で、沈着冷静を崩すことが無い。姫は斯様な恋人が血相を変えるのを初めて目にし、不穏な予感に駆られて人払いした。

晟凱せいがい親王が、兵を挙げました」

 誰より信頼する火澄の言に、姫は我が耳を疑った。

「謀反、大逆でございます。大神殿が襲撃されました」

 火澄は神殿への途上、早馬に依り造反を知らされた。其のまま駆け付けるか迷い、氷姫の身を案じて戻って来たのだった。

「太子さまを討ち取り、王妃さまを捕えて、碧佳宮に向け進軍しています。近衛にも裏切り者がおり、守りが手薄に為っている恐れも有ります」

「母上が捕まり、兄上が討たれたと」

――叔父上、やはり。

 悲痛と悔恨を横溢おういつさせ、声を詰まらせる姫に堪りかね、火澄は思わず俯いた。

「雪殿下だけは、神殿を守っていた私の部下が城の外へお連れしました。太子さまをはじめ、他の王子さま方は……」

――雪が、生きている。

 失意に引き裂かれ、沈められた暗闇の底で、光明が見えた気がした。血を分けた王子のうち、一人でも生き残っていれば、氷姫が為すべきは一つしか無い。

「雪を連れて逃げて欲しい。紗柄が戻ったら、二人で雪を守ってくれ」

 姫ならば屹度きっとそう願うと、火澄にも予想出来ていた。次なる問いも、答えは分かり切っていたが、半ば祈るが如く重ねる。

「では、氷姫は」

「わたしは父上をお守りする」

「しかし」

 何としても止めねばならぬ火澄の瞳に、必死な静炎が宿る。ところが氷姫は、彼女への忠愛にめしいた男の内腑ないふえぐり、反論を拒む。

「お聞き届けくださらねば、貴方への想いを捨てる」

 酷烈に言い渡す姫には、一切の情けを見出だせなかった。火澄は手足が震えるのを抑え、後ずさる。諦念ていねんに呑まれ、手も足も出ない。他でもない、此の決断をする氷姫こそが、彼が心底欲した女なのだから。

「兄上たちが斃れ、雪が此の国を継ぐ者と定められた。雪さえ居れば、そして貴方と紗柄が助力くだされば、必ず再起出来よう」

 氷姫の自信が何処から生まれ来るのか、火澄には解せない。夫と為る彼と、光龍の紗柄を頼ってのものなのか。絶念の余り生じた危険な思考なのか。いずれにせよ、姫と共に逃げる道は絶たれてしまった。

「氷花さま」

 恋慕を確かめ合うために呼ぶ、姫の御名。惜しむように、微かな希みに縋るように、今一度呼び掛ける。

「氷花さま、どうかご無事で」

 去りゆく恋人の背中を見詰めたまま、氷花は立ち尽くす。最後に目が合った時、火澄の瞳は澄んだ雫に濡れていた。

「火澄殿。愛している、何時までも」

 高潔なる姫君の誓言は、彼女と火澄が居なくなった後にも残り、純なる余韻を引いて寂しげに鳴っていた。




 独り馬を走らせた氷姫は、騒然とする碧佳宮・正殿に入った。兵が集まり主殿を囲み、何故か中に入ろうとしない。

 氷姫の姿を見た者たちは、戸惑いながら平伏し道を空ける。姫も顔を知っている壮年の将官が、金の装飾扉を開けようとする彼女を恭しく制止した。

「大神殿で、逆族が大罪を犯したのは知っているだろう。陛下は中におられるのか」

 身震いが止まらぬまま問うた姫が、扉の向こうの気を探る。

「宰相閣下はじめ、側近の方々を呼んで朝から籠られておいででした。しらせを聞いて中に入ろうとしましたが、何やらふう術が用いられているらしく……」

 将官が答え終えぬうちに、姫は金細工の施された取っ手を握る。両開きの扉を奥へ押すと、奇妙な鈍い感触を残して簡単に開けられた。

 触れた箇所から神気が感じられる。将官の言う通り、力有る神人が術を掛けていたに違い無い。姫以外には、開けるのは疎か、蹴破ろうとしてもびくともしなかったのだろう。

 主殿の方角には、姫と同じく神人である王の気配が全く無い。考え得る事態としては幾つか有り、彼女は受け入れ難い最悪な状況まで想定していた。

「わたしだけで行く。戻らねば、残った者たちで王宮を守れ」

 己だけに扉が開いた訳を、邪猾じゃかつな企みを、見通せぬ姫ではない。れど其の聡さと誇りとが、彼女を飛び込ませた。祥岐の王女たる氷姫が、身命を賭して落ちねばならぬ罠であったのだ。

 姫は素早く屋内へ入り、皆が止める時すら与えずに扉を閉めた。奈落の門が再び開かれるのは、悪辣なる者の手に依り、全てが終わった後と為る。

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