二.異端
天の僕でありながら、天命を拒んだ異端の乙女。
光焔の化身――紗柄。
翳すは聖剣、振るうは凶剣。妖しの獣を剿滅す。
踏み締め進むは死屍累々、勇んで浴びるは血と毒の霧。
仙姿玉質、八面玲瓏。然れど異名は戦巫女。
罪業負いし彼の女の、行くべき道は。
十七年前。孤高の巫女・紗柄は、奈雷から数えて三番目の光龍として降された。
濃い香色の艶髪に、大きな深紫色の瞳。白磁の肌、白桃の頬に映える赤い唇。無欠なる麗容を前にすれば、左腕に刻まれた龍の御印を確かめずとも、紗柄が天来の者だと即座に分かる。
神巫女・光龍は、天帝の意志を下界で代行する者。非天を討ち人を守る者。しかし紗柄は、巫女である己と宿を否定した。かつて幼き頃、妖を滅ぼす力で人を殺戮した罪のために。
祥岐の王都、江煉より南下すること十日程。独り旅に出た紗柄は、南東の大帝国・聖安の領内に入った。彼の国の民を苦しめているという、大妖を斬るためだ。
聖安を訪れるのは初めてではないが、以前足を踏み入れたのは帝都・紫瑤から遠く離れた地方のみ。今回も目的地は北の外れで、国境を越えても祥岐の村々と景色は変わらない。
討伐士の手こずる妖異が出たと伝い聞けば、雪王子を守る任を放棄してでも赴いてゆく。王族に仕えながら身軽に動けるのは、祥岐がいずれの大国とも同盟を結んでおらず、百年近く戦をしていないため。だが状況が違っていても、紗柄は何処へなりとも駆け付けただろう。
亡くした親兄弟の生業を継ぎ、妖の殲滅を続けるのは、紗柄なりに選んだ生きる術。天の御名を掲げずに、神授の力を振るう理由であった。
此度紗柄が狙うのは、播蛇という人喰い大蛇である。山裾に広がる闇の森、湖の畔に潜み、日が落ちると這い出て人里を襲う。象をも丸呑みにする巨体であるが、人も捕食する。処女を好んで喰らい、男は砕いて磨り潰し、地に吐き捨てるという。
道中、宿場などで擦れ違う人々から聴いた噂話を頼りに、標的の潜む森を探す。大妖を追う紗柄に、人は皆不思議がったが、其の訳が戦うためとは夢にも思わなかった。隙を見せぬ凜々しき面持ちとはいえ、弓も剣も携えておらぬ、楚々たる美少女であるがゆえに。
妖の掃討は、神力が強く妖力が弱い日輪の昇る間に済ませるのが常勝法だ。ところが紗柄は、己の剣を他者に見られる可能性を極小にするため、妖に利が有る夜半に進んで対峙した。
日が没し、十六夜の月が上がった頃。湖の岸辺に腰掛け待っていた紗柄は、妖気の塊が僅かに蠢くのを察した。閉じていた目を開き、月明に照らされた黒い湖底の中心を見据える。一つ、二つと水泡が浮かび、紋を成し波及させてゆくと、漸く立ち上がった。
「凜鳴」
其れは、紗柄が好んで用いている愛刀の名。呟くなり、一振りの刀が右手に収まる。神術を用いて魂に封じ、何時でも呼び出せるようにしている。
光龍の使命に従わぬ彼女は、神剣・天陽を振るわない。七年前、開光を遂げた時に抜いて以来、二度と使わぬと決めた。
地鳴りが起こり、火の山の如く湖水が噴出した。黒飛沫の内から長大な妖魔が飛び、宙に留まり尾をくねらせる。腰帯に差した刀の鯉口を切り、膨大な神気を放ち始めた紗柄に気付いたのか、淡金色に光る双眼を彼女へと向けた。
頭部は青色、胴から尾にかけては真黒い。体長は岸に生えている樹々の高さを優に超え、大蛇より竜だと言われた方が納得出来る。
只の蛇であれば出すはずも無い異様な鳴き声を発しつつ、播蛇は一端水中に戻った。猛烈な速さで水面を泳いで陸地に上がり、程無くして微動だにせぬ紗柄の眼前へ現れた。
尾を振り、乾いた音を流し鎌首を擡げた敵に、紗柄も抜刀して八相に構える。播蛇は左右に裂けた口から瘴気を吐き出すが、神気で身を包む彼女には届かない。
先端の割れた舌を伸縮させ、喰った獲物の血と毒液に濡れた牙を剥いて、紗柄に齧り付く時を見計らう。恐らく彼女は、此の怪物が出会った中で最も上等な生き餌であろう。慎重に頃合を伺いながらも、仕掛けたくて待ち切れない様子だ。
「数日の間に、百……二百は喰ったな」
厭わしげに目を細めた紗柄は、硬い鱗に覆われた敵の内側を透かし見る。妖が喰らった人々の命が束ねられている、心の臓を探し出す。
急所を狙えば、一刀で殺すことが出来る。だが紗柄には、妖を怨む彼女には、容易く楽にしてやる積もりは毛筋程も無かった。
播蛇が巨頭を突き出す前に地を蹴り、躊躇い無く飛び込んでゆく。神力で起こした風に乗って高さを制すると、宙返りして下降を始め、地に向けた刀で妖の右眼を刺し貫いた。
其のまま捻り回して顔面を抉り取り、紗柄は巨獣の背後に着地する。巫女の力に満ちた刃に顔の半分を刮ぎ取られた播蛇は、緑の血を吹き逆巻く炎の如く暴れ狂う。
苦悶の余り、毒針を持つ尾先を紗柄へ向かわせたものの、難無く避けられ続け様に尾を斬り落とされる。体勢を保てなく為り崩れ落ち、頭と胴の傷からは神焔が立ち昇った。
青黒い身体が燃え爛れ、播蛇は大地を転げ回る。せめて火を消そうと湖へ入水するが、神気で練られた紅焔は自然の理を退け、妖を焼き殺すまで消失しない。
「惨めに死ぬが良い」
凍えた低声を漏らした紗柄は、凛鳴を一振りし納刀した。溺れ死ぬのが早いか焼け死ぬのが早いか、月光と炎が炙り出す大妖の最期を眺め見た。
悍ましい声が止み、妖の血が溶けた湖が静謐とするまで、長い時を要さなかった。嘆息した後、只の二太刀で滅した怪物に殺された幾百の人々の不運に同情して、更に息を吐いた。
踵を返して湖を背にした時、戦いの最中から存在を感じていた男に語り掛ける。
「妖王」
樹林の奥より、紗柄にとり忌まわしい男が現れ出でた。肩まで伸びた癖の強い翠の髪に、底暗き翠の双眸。人ならざる妖魅の者、妖異の始祖たる者――妖王・邪龍である。
「七年振りか。隣国まで赴いて来るとは、随分と仕事熱心なことだ。光龍・紗柄」
神経を逆撫でされ、紗柄は眉を顰めた。
「相も変わらず、同胞を見殺しにするとは。飽きれた奴だ」
其の昔、天帝の異母弟として天に君臨していた邪龍は、邪神に与して地上に落とされ、端麗なる異形と為った。数百年を掛けて人や魔族と成した子孫が、妖族と括られるものたちだ。ゆえに妖王と呼ばれているが、父として長として、同族を慈しむ心は持ち合わせていない。
再び刀に手を掛けた紗柄には、数々の疑念や遺恨が有った。此の機を逃すと次が何時に為るか見当も付かず、戦意を露わに敵を睨め付ける。然れど妖王は、剣を交える積もりで来たのではないらしい。
「此処で油を売っている場合か? 此れ以上、何も失くしたくはなかろう」
淡々とした、其れでいて試すような一言で、紗柄の胸中が一気に騒ついた。
「おまえが宿から逃げ、縋った別の道。守ると決めたのなら、片時も離れるべきではなかった」
言い重ねられ、不安が増す。妖王という男の邪悪さを忘れていた、己の愚かさを思い知る。
「宿を捨てたおまえとは異なり、身を奉じる者も居る。今生を終えるまでに、未だ見ぬ主と会うのだと、凡て投じる者も居る」
転じて意図の分からぬことを言われ、紗柄は疑心を募らせてゆく。
「其の者が宿願を成就させるには、人柱が要る。人の中でも王に伍する徳を備えた者の血が、『彼の君』を解き放つらしい」
「彼の君? 人柱だと?」
表現の意味を考えようとするが、妖王には待つ気も自ら説く気も無いようだ。
「おまえの守るべき者は、其の人柱と為るに相応しい者ではないか?」
聞くや否や、紗柄は走り出した。妖王の横を通り過ぎ、後ろを振り返りもせずに風を切る。
「白と黒の龍神が訣別した、千年前のあの夜から、光と闇の巫女は戦う定め」
光龍と闇龍の螺旋輪廻を追う、唯一の者たる妖王は、消えて行く紗柄の背を見て独り言ちた。
「三度目の幕は開いた。死ぬのはどちらか、生きるのはどちらか」