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凍える夢  作者: 亜薇
本編
30/33

二十八.選択

 誰も入り込めぬ、暗澹あんたんの森。

 とこしえに破れぬ、寒宵かんしょうの檻。

 小さな体も、脆い心も凍り付き、

 逃避の果てに、閉じ込められた。


 連れ出してくれたのは、白雪しらゆきの君。

 全て奪われ、踏みにじられても、

 清澄せいちょうなる誇りは穢れない。


 凍える夢のいやはてに、

 彼を守ると心に決めた。

 紗柄として生き、死すると決めた。


 貴方との約束を、

 紗柄は果たせないけれど。

 屹度きっと許してくれる、貴方なら。


――また、お会いしましょう。次の世こそは。






 如何程の時が経ったであろうか――実際は然程さほど経ってはいなかったが、紗柄や霞乃江には途方も無く長く感じられた。

 何時しか視線を雪へと移していた紗柄は、凛鳴ではなく地影を手放した。己の剣が、逡巡を断ち切るように地へ突き立てられ、霞乃江が目を剥く。

「今の生で私を想ってくれた者を、如何どうして殺せる?」

 静かに話し出した紗柄は、迷霧の晴れた顔をしていた。

「雪も、氷姫も。光龍ではなく私を受け容れてくれた。おまえにも、闇龍ではなくおまえを見詰めてくれた者が居るのではないか」

 唖然とする霞乃江には、紗柄の言が心底分からなかった。自身を想ってくれる者など一人として居ないと、『思い込まされて』いたために。

 対の神巫女である紗柄も、同じだと高をくくっていた。敵同士でありながら、真の意味で分かり合えるのは、此の世に紗柄だけだと思っていた。

 一拍置くと、紗柄は躊躇しつつ、両の瞳を燦爛さんらんとさせ言い重ねた。

「其れにあの方自身、こんなことは望まぬはずだ」

 其のたった一言に、霞乃江は魂を抜かれて声を失した。

 此の争いを目にして最も悲しむのは、他の誰でもない彼の君であると、本当は霞乃江も気付いていた。其れでも止めなかったのは、「霞乃江」として生きてゆくのを諦めたからだった。

「おまえは雪の大切な者を奪った。おまえを如何するかは、雪に訊く」

 立ち尽くす霞乃江に背を向け、紗柄は再び雪へと歩んで行く。凛鳴を封じて消し去り、両手で雪を抱き起こした。

 何時にも増して無防備な主に触れた感覚は、紗柄が知っているものと異なっていた。同じ位であった身長が、今は雪の方が高い。紗柄よりも華奢な体格だと思っていたが、こうして支えてみると見た目以上に重い。

「雪、起きろ」

 掛けたことの無い穏やかな声音で、眠る雪を目覚めさせる。彼に触れた手から足先に至るまで、紗柄として生きている実感がみ渡ってゆく。

 黒の力で奪われていた雪の意識を、紗柄が取り返す。彼が目を開け、長い睫毛を震わせるのを確かめて、漸く胸を撫で下ろした。

「紗柄」

 目を見合わせた雪が、大切な少女の名を呼んだ瞬間、息を詰まらせた霞乃江の声が、辛うじて耳に入って来た。

「炬……」

 紗柄が振り返った時、死んだはずの炬が、放心する霞乃江の隣に立っていた。地影を右手に握り、紗柄を凝視している。恨み顔ではなく、蒼褪あおざめた死人の顔をしている。

「紗柄!」

 雪の一叫が響くや否や、紗柄は彼から離れて身構えた。炬の猛る刃が迫り来たが、剣を呼び受け太刀する余裕は無い。避けてしまえば、其の隙を突いて雪を狙うだろう。

 瞑目した紗柄は、一歩も動かなかった。

 地影に胸を貫かせて炬を捕まえた後、踏み止まり、己が手に呼び出したのは、天陽。

 満身の力を籠め、炬の背を突き刺した。神剣を通して神巫女の神気を注ぎ込む。

 死する直前、炬の命は溜め込まれた黒の気に繋がれていた。対極の力で此れを払わねば、炬は亡霊のまま生き続け、次は雪に危険が及びかねない。

 凝然ぎょうぜんとする雪にも霞乃江にも、瞬刻も与えぬうちに、紗柄は血煙を上げて仰向けに倒れ伏した。炬もまた、紗柄から抜いた地影を取り落とし、背に天陽が刺さったまま俯せに崩れた。

「ゆ……き」

 殆どの神力を失った上、地影の湛えた黒の力に侵された紗柄には、傷の治癒も出来ない。激しい痛苦に耐え、静かに『終わり』を待つのみと為った。

「無……事か? ゆ、き」

「うん、何とも……ないよ」

 悲泣ひきゅうし赤く腫れてゆく雪の目を見上げ、紗柄は頬を緩めた。霞乃江に惑わされ、彼を手に掛けるか迷ったのが如何に愚かであったか、無意味であったか。こうして彼を守り、彼の腕の中で息絶えてゆくのが、如何に幸運であるか。温かな想いが巡り巡った。

――ああ。やはり、間違ってはいなかった。

 前世の誓いか、雪か。選択を強いられ、嫌厭けんえんしてきた天陽を抜いてまで雪を選んだが、悔いは無い。

 霞乃江の、妖王の言う通りなら、紗柄が犠牲と為ることで彼の君が戻って来る。しかし紗柄は、本能めいたもので感じていた。左様な方法で呼んだとて、彼は応えぬであろう――前世に生きた巫女たちが愛した、彼のままであるならば。

「ゆ、き。私が、守り……たかった、のは」

 急速に冷えてゆく右手を、雪の右手が包み込んでいる。握り返す力は、もはや無い。

「紗柄……」

 堪え切れず嗚咽する雪に見送られて、紗柄は紗柄としての生を全うした。




「炬……」

 倒れた炬の側に膝を付き、背中に刺さった天陽を抜くと、霞乃江は生気の無い声で呟いた。

 会いたいとこいねがう主に呼び掛ける使命など、至願など、何処かへ置いて来ていた。傍に落ちている地影は、光龍の紅血をも糧にし一際輝いているが、気にも留めない。

 長い年月を掛け、炬に移してきた黒の力が作用した。開闇した闇龍とはいえ、霞乃江には消えた命火を甦らせる力は無い。炬自身の執念が合わさって膨大なる力と成り、現れたのに違い無い。

 身体のみで繋ぎ止められていたなら、心では霞乃江を憎んでいたのなら、斯様な奇跡は起こらない。考え得る訳は、一つしか無い。

「炬。おまえは、其処までして……わたしの願いを叶えようとしたのか」

 応えの無い炬の両肩を揺すり、返らぬ答えを求める。

「答えよ、炬。おまえは、わたしを憎んでいたのだろう?」

 認めさせようとする問い掛けには、必死さが存していた。『憎んでいた』と言わせなければ、霞乃江が霞乃江でなくなってしまう。炬を切り捨てたのは過ちだと、認めざるを得なく為ってしまう。

「憎んでいたはずだ。其のために、わたしは晄を奪ったのだから」

 今生に、霞乃江を愛してくれる者は居ない。知らぬうちに、自身でもそう仕向けていた。「霞乃江」を未練無く手放せるように。

 薄く開かれた炬の双眸が、霞乃江を映す。動かぬはずの声帯を振動させた彼は、出ぬはずの声を出して告白した。

「愛……し、て……る……」

 幾年もの間聴いていなかった奴隷の声は、知らぬ男のもののようで、他ならぬ炬のものだった。

「か、のえ。愛し、て……」

 目を閉じた炬は、其れ切り、今度こそ沈黙した。霞乃江の紫水晶の瞳からは、大粒の涙珠るいしゅが零れ落ちてゆく。

「炬」

 呼ぶや否や、霞乃江は首を前に垂れ、程なくして事切れた。彼女の背後には、怒りも哀しみも無い目をした雪が立っている。彼の諸手には地影が握られ、霞乃江の心の臓を貫き通していた。

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