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凍える夢  作者: 亜薇
本編
29/33

二十七.迷霧

 恋しい君。

 来世でも必ず出会うと約した、

 美しい心の輝ける君よ。

 貴方が私を迷わせる。






 仇敵の一人、炬を討った紗柄は、闘いの中極限を超えて刃毀はこぼれした凛鳴を鞘にしまい、雪へと向き直った。

 正体を失っている雪を案じ駆け寄ろうとするが、足から脱力してくずおれてしまう。深手を負った訳ではないが、神力の応酬が齎した弊害は浅くなかった。

――何かが、おかしい。

 思考に掛かるもやを払うように、紗柄は頭を横に振った。去り際に妖王が残した科白せりふが発端と為り、五百年前、千年前に生きた光龍の記憶が断続的に甦る。霞乃江と邂逅し、炬と戦うことで、其の間隔が短く為っていた。

「雪」

 漸く雪の傍まで辿り着くと、あどけない彼の寝顔を見て嘆息した。自分は他の誰でもなく紗柄なのだと確かめ、安堵した。

 雪は人鬼と為った紗柄を救い、人として受け容れてくれた。紗柄が誰よりも愛おしさを感じ、命を懸けて守りたい青年とは、雪である『はず』である。

 彼を側に感じれば、言い知れぬおそれを取り除けると考えた。膝を折ろうとした時、背中から霞乃江の声がした。

「我が君、黒龍さまがお眠りになる地は、誰も知らぬ。封印した天帝と薺明神を除いては」

 黒龍の名に何故か惹きつけられ、否応無く振り返ってしまう。炬の亡骸を放して立ち上がった霞乃江は、紗柄の前に初めて姿を現した時と変わらず妖麗に笑んでいた。

「場所が分からずとも、彼の君と魂で繋がるわたしが地影に力を集め、お呼びすれば良い。封術に裂け目を作れば、屹度きっとお目覚めになる」

 地影を手に取り、剣先を天へ向けて典雅なる黒刃を見入っている。炬が死のうとも、剣が吸ってきた呪力が衰えることは無い。正統なる持ち主である霞乃江の手に戻り、輝光をより強めていた。

 呆気に取られる紗柄の前まで来ると、抜き身の御剣を両手で差し出す。

「雪王子を人柱とすれば、彼の御方が戻られる」

 我が目我が耳を疑う紗柄にも、黒巫女が何を言わんとしているのか解せてしまう。

「殺せというのか。私に、雪を」

 左様な考えが浮かんだことにすら、甚だしい嫌悪が湧き起こった。美しい顔に怒りや侮蔑を露わにするが、霞乃江は意に介さない。

「おまえも会いたいのだろう? 黒龍さまに」

 当てられてはならない本心を言われ、紗柄の総身は氷の如く固まった。

「思い出し始めているのだろう? おまえが誰を愛していたのかを。誰に愛されていたのかを」

 紗柄には否定出来なかった。呼び起こされる様々な記憶の中で最も灼然しゃくぜんとしたものは、眩光に包まれた『彼』の御姿、『彼』への誓いに他ならない。

 闇龍は、光龍の魂に受け継がれてきた情愛を知っている。己も同じだからこそ、抗えないものだと分かり切っている。

 其の想いは、千年もの間に降り積もったもの。大いなる意思を前にすれば、紗柄や霞乃江が生きてきた寸刻など取るに足らぬ。

 此れが、霞乃江の切り札だった。こうして紗柄を追い詰めながらも、彼女自身、身を裂かれる絶念に耐えていた。

「おまえが真に守りたいのは、雪王子などではない。王子にあの方の面影を見て、輪廻の旅路に一時の安らぎを見出しただけだ」

「黙れ!」

 激した紗柄が凛鳴に手を掛けたが、肩から下に振戦ふるえを呈して抜かずにいる。地影を拒み切れずにいる光龍に、霞乃江はいよいよ勝利を期待し始めた。

 彼の君は、霞乃江の姿を瞳に映し出してくれる。目を細め、愛する人を見詰めるかの如く微笑んでくれる――左様な夢を、幾夜見てきたことだろう。

 所詮は、かそけき夢。主の愛慕は己ではなく紗柄のもので、囁いている誘惑も、そう認めるがゆえの窮策きゅうさくである。

「王子はおまえにとって、あの方の代わり。代わりを殺して、あの方を取り戻すが良い」

 紗柄の右手を取った霞乃江は、天女さながらの儚い笑みを拵え、抵抗にも遭わずに地影の黒い柄を握らせてしまった。黒の気が、神剣から紗柄へと流れてゆく。

 寒威かんいに襲われるどころか、温もりすら伝わる感覚に、紗柄は自己が失われる怖れに見舞われた。紗柄であり紗柄でない何かが、遥か遠き日の誓言を守らせようと働き掛けてくる。直ぐ様跳ね除けるべき誘いに、迷いを生じさせる。

 心に立ち籠める霧の中、決断の時が押し迫っていた。

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