二十七.迷霧
恋しい君。
来世でも必ず出会うと約した、
美しい心の輝ける君よ。
貴方が私を迷わせる。
仇敵の一人、炬を討った紗柄は、闘いの中極限を超えて刃毀れした凛鳴を鞘にしまい、雪へと向き直った。
正体を失っている雪を案じ駆け寄ろうとするが、足から脱力して頽れてしまう。深手を負った訳ではないが、神力の応酬が齎した弊害は浅くなかった。
――何かが、おかしい。
思考に掛かる靄を払うように、紗柄は頭を横に振った。去り際に妖王が残した科白が発端と為り、五百年前、千年前に生きた光龍の記憶が断続的に甦る。霞乃江と邂逅し、炬と戦うことで、其の間隔が短く為っていた。
「雪」
漸く雪の傍まで辿り着くと、あどけない彼の寝顔を見て嘆息した。自分は他の誰でもなく紗柄なのだと確かめ、安堵した。
雪は人鬼と為った紗柄を救い、人として受け容れてくれた。紗柄が誰よりも愛おしさを感じ、命を懸けて守りたい青年とは、雪である『はず』である。
彼を側に感じれば、言い知れぬ惧れを取り除けると考えた。膝を折ろうとした時、背中から霞乃江の声がした。
「我が君、黒龍さまがお眠りになる地は、誰も知らぬ。封印した天帝と薺明神を除いては」
黒龍の名に何故か惹きつけられ、否応無く振り返ってしまう。炬の亡骸を放して立ち上がった霞乃江は、紗柄の前に初めて姿を現した時と変わらず妖麗に笑んでいた。
「場所が分からずとも、彼の君と魂で繋がるわたしが地影に力を集め、お呼びすれば良い。封術に裂け目を作れば、屹度お目覚めになる」
地影を手に取り、剣先を天へ向けて典雅なる黒刃を見入っている。炬が死のうとも、剣が吸ってきた呪力が衰えることは無い。正統なる持ち主である霞乃江の手に戻り、輝光をより強めていた。
呆気に取られる紗柄の前まで来ると、抜き身の御剣を両手で差し出す。
「雪王子を人柱とすれば、彼の御方が戻られる」
我が目我が耳を疑う紗柄にも、黒巫女が何を言わんとしているのか解せてしまう。
「殺せというのか。私に、雪を」
左様な考えが浮かんだことにすら、甚だしい嫌悪が湧き起こった。美しい顔に怒りや侮蔑を露わにするが、霞乃江は意に介さない。
「おまえも会いたいのだろう? 黒龍さまに」
当てられてはならない本心を言われ、紗柄の総身は氷の如く固まった。
「思い出し始めているのだろう? おまえが誰を愛していたのかを。誰に愛されていたのかを」
紗柄には否定出来なかった。呼び起こされる様々な記憶の中で最も灼然としたものは、眩光に包まれた『彼』の御姿、『彼』への誓いに他ならない。
闇龍は、光龍の魂に受け継がれてきた情愛を知っている。己も同じだからこそ、抗えないものだと分かり切っている。
其の想いは、千年もの間に降り積もったもの。大いなる意思を前にすれば、紗柄や霞乃江が生きてきた寸刻など取るに足らぬ。
此れが、霞乃江の切り札だった。こうして紗柄を追い詰めながらも、彼女自身、身を裂かれる絶念に耐えていた。
「おまえが真に守りたいのは、雪王子などではない。王子にあの方の面影を見て、輪廻の旅路に一時の安らぎを見出しただけだ」
「黙れ!」
激した紗柄が凛鳴に手を掛けたが、肩から下に振戦を呈して抜かずにいる。地影を拒み切れずにいる光龍に、霞乃江はいよいよ勝利を期待し始めた。
彼の君は、霞乃江の姿を瞳に映し出してくれる。目を細め、愛する人を見詰めるかの如く微笑んでくれる――左様な夢を、幾夜見てきたことだろう。
所詮は、幽けき夢。主の愛慕は己ではなく紗柄のもので、囁いている誘惑も、そう認めるがゆえの窮策である。
「王子はおまえにとって、あの方の代わり。代わりを殺して、あの方を取り戻すが良い」
紗柄の右手を取った霞乃江は、天女さながらの儚い笑みを拵え、抵抗にも遭わずに地影の黒い柄を握らせてしまった。黒の気が、神剣から紗柄へと流れてゆく。
寒威に襲われるどころか、温もりすら伝わる感覚に、紗柄は自己が失われる怖れに見舞われた。紗柄であり紗柄でない何かが、遥か遠き日の誓言を守らせようと働き掛けてくる。直ぐ様跳ね除けるべき誘いに、迷いを生じさせる。
心に立ち籠める霧の中、決断の時が押し迫っていた。




