二十五.半身【2】
暫く経つと、晟凱が公務のために都へ戻って行った。一月程で帰って来るという。霞乃江が『父』と睦み合う、あの甘美なる耐え難き光景を見ずに済む時が、束の間訪れたのだ。
煌びやかな着物を纏い、炬と晄が語る魔国の話に耳を傾ける霞乃江は、優婉閑雅なる天女其のもの。男に抱かれて悦びに乱れる彼女と、同じ少女とは思えない。神聖とさえ表せる光が宮に差し込まれ、炬に巣食った邪な念も浄化された気がしていた。
とある夜半、月の満ち満ちし半宵。何か正体の知れぬものに睡眠を妨げられた炬は、隣に寝ていた晄が居ないのを不審に思った。此のところ、自分の眠りが妙に深く為ったのを訝しんでいた炬は、何時も晄が運んでくれる白湯に、昨夜は口を付けなかったのを思い出す。
不安が現実と為ったのを確かめるために、炬は晄の気を追って室を出た。夜更けも見廻りの兵が廊下に居るものだが、誰一人居ないのがおかしい。
想像通り、炬が誘われたのは霞乃江の寝所であった。閉ざされた襖戸の向こうより、聞きたくもない妖しげな声が流れて来た。
数瞬の迷いの後、炬は許しも得ずに戸を開けた。行灯が室を明るくしており、御簾や屏風といった遮る物も無い。室の奥、畳に敷かれた茵の上で、激しく交わる少年と少女が居た。
仰向けに倒れた霞乃江。彼女の細い両脚を広げて伸し掛かり、一心不乱に押し入っている晄。二人は衣服を身に着けていなかった。
美しい顔に恍惚を浮かべた霞乃江は、晄が動いて深々と貫かれる度、背を弓なりに反らせて嬉しそうに喘ぐ。面を付けていない晄は、時折獣のような呻き声を漏らしたり彼女の口を吸ったりして、情欲に任せ腰を打ち振っている――炬の半身であった晄は、晄ではない妖物と化していた。
霞乃江を前にして、其の豊穣を得たがらない男など居ない。先ず込み上げたのは、醜悪な羨望と鋭い疼き。蕩けるような悦楽を独り占めにする晄を目の当たりにし、これまで己が弟のために耐えてきた全ての屈辱が、凡ゆる努力が、滑稽かつ無意味なるものと悟った。
此の宮に来るまで、晄は女と契ったことなど無いはずだった。其の割に手慣れているのと、躊躇いも見せず目合っているのを見るに、今夜が初めてではないだろう。
誘惑に抗し、弟を第一に想ってきた炬を他所に、弟は疾うに陥落して此の世の者ならぬ美姫に身も心も捧げていた。理不尽なる背信が、炬の魂に悪鬼を生んだ。
見かねて逃げ出し、自室に走って布団に潜り込む。朝まで一睡も出来ず、己と同じ姿の晄と絡み合う、淫奔な霞乃江の艶めかしい顔が、白く芳しい太腿やこぼれる乳房が、瞬刻も忘れられなかった。
翌朝を迎えた。晄も霞乃江も何事も無かったように振る舞っていた。炬が覗いていたのには、少なくとも晄は気付いていただろう。
箍が外れた晄は、夜が更けると隠そうともせずに、堂々と下人部屋を抜け出した。誤魔化すどころか、態と炬に見せ付けていた。就寝前に眠り薬入りの白湯を渡さなく為ったのが、確たる証であろう。
晄は、日を追う毎に――霞乃江と身体を重ねる度に、人が変わっていった。何がと問われると、炬にも一言で表し切れぬ変化ではあるが、確実におかしく為っていた。
口を開けば霞乃江のことばかり話したし、彼女は何処を舐って突いてやれば悦ぶとか、昨夜は如何行ったとか、何度気を遣らせてやったとか、耳障りな話まで得意げに口にし始めた。
お人好しでやや意気地の無い、炬無しでは生きられない晄は、横柄な態度をちらつかせる高慢な少年に為った。
其れでも尚、弟を案じる炬は、直に晟凱が帰って来るため、霞乃江の元に通うのはやめるよう言い聞かせた。斯様な忠告は嫉心の表れとして、晄に依り一笑に付された。
更に、自分と霞乃江の仲を邪魔するなら出て行けだの、晟凱暗殺に力を貸せば霞乃江を抱かせてやるだのと、支離滅裂なことを口走った。
かつて炬に母国を捨てさせ、親兄弟を失望させ、王子の矜持をも手放させた半身の弟は、完全に消えていた。
然れど、霞乃江に依って真に狂わされていたのは、晄ではなく炬であった。
晟凱が戻って来る前夜。此の邸に来て、長らく持たずにいた剣を手にした。日が落ちて霞乃江の閨に入り、何時にも増して行為に耽っていた晄を、狐面を付けた炬が一刀の下に首を刎ねて殺した。
為そうと決めて行ったのは確か。しかし、剣を振り落としたのは限り無く衝動に近かった。霞乃江を独占する弟が許せなかったのか、霞乃江の虜囚と為った弟を解放したかったのか、炬自身にも判然としなかった。
寸前まで交わっていた少年の血を浴びて、霞乃江は炬に怯えるどころか満足げに笑っていた。炬の面を外し、可愛らしい唇で口付けをせがみ、両の脚を開いて彼を迎え入れた。
弟を手に掛けた昂りと、欲した女を漸く手に入れられたという歓喜。炬は無我夢中で霞乃江を犯した。此の女は晟凱でも晄でもなく、己だけの女なのだと。此れからは己だけが、飢えた霞乃江を満たしてやれるのだと、世界へ思い知らせるかのように。
日が昇り、夜の闇が逃げ去った。幾日か振りだった眠りから覚めた炬は、途中で失神し、未だ気を失っている霞乃江を見付けた。
床、どころか室中が、血の海に沈んでいた。鮮烈な紅色と、噎せ返る臭いとで、炬は記憶を取り戻してゆく。
自分と同じ顔をした晄の首が転がっていた。首を失くした晄の裸体もまた、放られていた。
「晄……」
此れが、炬が呼んだ最後の名だった。双子であるがゆえに、生きた弟が発していたのとほぼ同じ声。聴くに堪えず、炬は自らの喉に爪を立てて掻き毟る。
白い喉から血が出始めたが、声帯に達するには時間が掛かると思った。其処で捨ててあった剣を取り、喉に突き立てた。
苦しみの余り膝を折った炬は、血が噴き出す喉を押さえて悶えた。其のまま死ぬところであったが、何時の間にか目覚めていた霞乃江は許さなかった。
身の内に湛えた黒の力で、炬の傷をみるみるうちに癒やしてしまう。そう経たずに塞がったが、炬は声を永遠に喪失した。
半開きの目で此方を見ている弟の首が視界に入り、炬は焦燥に駆られた――顔も、潰さねばならぬ。晄と同じ顔を、自分で見るのも人に見られるのも我慢ならない。
晄と同じ顔面を見、同じ声を聴くことで、彼はもう此の世におらぬという現実を突き付けられる。己が手で半身を殺めておきながら、殺めた事実を受け入れられず、気が狂いそうに為る。
「おまえも晄も、何も悪くはない」
顔を切り裂くか、焼き焦がすか、考え始めるや否や、霞乃江が言った。
「おまえは弟想いだ。弟を奪ったわたしが憎かろう。だが、わたしはおまえが欲しかった」
炬と晄の内側を覗き、霞乃江は炬を下僕にすると決めた。其れだけのために晄を惑乱させ、同時に炬の欲も掻き立てることで、炬に半身を殺めさせた。
彼に身体を与えて耽溺させ、心では憎ませる。全てが、邪な女の筋書き通りであった。
「わたしは戦う術を持たぬ。宿を果たすため、おまえがわたしの手足と為れ」
霞乃江の唇が歪み、弧を描く。片羽根を捥がれた炬は、魂を喰われた屍さながら。
人心を暴き、思う様に操る黒巫女に、炬は凡ゆるものを奪われた。一つだけ、霞乃江に気取られず、守り抜いたものが有る――霞乃江への愛だ。
魔剣と為った見返りとして、彼女を腕に抱いて慰める夜を授けられた。無上の幸福に包まれる中、あの刹那に失くしていた想いが、炬に戻りつつあった。
己が何故、弟を手に掛けたのか。夜毎、誰かとの望まぬ官能に溺れて孤独を凌ぐ霞乃江が、心では真に愛しい者を求めていたからである。




