二十三.魔剣
黒の巫女に飽食され、剣と為りし男――炬。
彼を繋縛し支配するものは、
主の魔性か己の狂気か。
或いは……
改めて正対した男は、六尺は優に有ろう均整の取れた体躯をしていた。鉄の人面で両目以外の顔を覆い、面立ちは分からない。燃える黄昏色をした髪を結い、一つ背に垂らしているのが覗けるのみだ。
彼が尋常ではない黒の気を身に付けているのには、紗柄も警戒していた。本来黒神と其の巫女以外が宿すことの無い力を、見事なまでに自然に身に付けている。年月を掛け霞乃江から移されたのだろう。
「炬という。わたしの奴隷だ」
黒鉄面に黒衣といい、黒色の気といい、尽くを暗黒に包む男の名には、全く似合わしくない――と、紗柄は思った。
黒の気に馴染んでいるのを見るに、奴隷というより霞乃江の魔剣其のもの。碧佳宮を襲って王や氷姫を殺し、火澄を返り討ちにしたのは、恐らく此の男だろう。
「祥岐国王子の従者にして、討伐士の紗柄。参る」
体格差の有る、明らかな手練れの男を前に、紗柄は迷わず先手を取った。凛鳴と地影が乾いた音を立てて重なり合い、各々の剣に移った神気が衝突する。
紗柄が一太刀、二太刀と浴びせ、炬が受ける。筋力で劣る紗柄だが、まるで気圧されていない。凛鳴が折れない程度の神力を刀身に載せ、差を埋めて不足を補う。人ならざる者との戦いを重ね、巨大な妖異を斬るために身に付けた、特有の妙技である。
一度間合いの外に出ても、紗柄は息吐く暇も与えず飛び掛かり、振り下ろす。高さが加わり打ち合うと、鮮やかな火の花が舞い散った。
命じたのは霞乃江だが、一連の凶事で手を下したのは炬。となれば、紗柄は眼前の男を倒さずにはいられない。
仇討ちこそが、命を懸けた雪の悲願でもある。激烈な怒りを抑える必要も無く、妖にしか向かわせぬ鋼鉄の殺意を籠め攻勢を掛けていた。
炬とて、あの氷姫さえ嬲って殺した男。紗柄に加減する訳も無く、彼女の斬撃の合間を縫って首を狙い、一閃二閃と送り込む。心の臓をと定めて刺突する。
――速さも切れも、凛鳴に力を載せて漸く互角か。
戦いながら敵の力量を測る紗柄は、声に出さず呟いた。
魔族は人よりも身体的に優れている。炬が繰り出す剣の技も、其の突出した瞬発力や持久力を前提としている。
人間の少女である紗柄が、炬の剣を全て避け、または受け切れているのは、相手よりも多量の神力を駆使しているがため。そして幼少の砌より、人ではない怪物たちとの戦いを数多熟して来たためだ。
――惜しむらくは、地影。
使い手が身体に黒の気を溶け込ませているとはいえ、地影は黒巫女が振るってこそ真価を発揮する剣である。他の者が握れば、肉体と剣が打ち解けあえずに、如何に剣術に長けた者でも実力を出し切れない。
神剣と剣士に生じる微妙なずれは、紗柄程神気に鋭い神人でなければ見出せない。然れど確実に、炬の技を鈍らせる瞬間を作り出す。
紗柄の胸へと突き込む剣を避けられ、炬は遅滞した。逃さぬ紗柄が跳躍し、凛鳴の白刃を彼の脳天に落とす。狙いが外れ、頭の代わりに割れたのは、無機質なる黒い面。
鉄面の下から現れたのは、黄昏色の髪と白い肌をした、青年の顔だった。紗柄も息を呑む程の精悍な美形で、彫りの深い顔立ちは人界に存するどの人種の特徴とも異なる。
「魔族――か?」
黒の気が渦を巻く奥に有る、珍しい気の性質と併せて判断したが、対峙した経験を持たぬ紗柄にも自信は無かった。
炬は左掌で顔を押さえ、右手の剣を下ろして立ち竦む。紗柄からすれば、隠さねばならぬ顔でもあるまいに、隙を見せてまで気にする理由が分からなかった。
「己の顔と声に耐え切れず、自ら声を潰して面を付けたのだ」
何時の間に雪から離れていた霞乃江は、炬へ歩み寄る。
「紗柄は『晄』の顔を見た。此れでますます、生かしてはおけぬな」
下僕に耳打ちして、また距離を取る。紗柄には霞乃江が何と声掛けしたか聞こえず、炬の表情は分からないものの、彼は確かに頷いていた。
未だ正体を失っている雪の元へ戻り、霞乃江は立ったまま戦いの続きを見守る。唇に笑みを刻んで熱の宿らぬ瞳で炬を追い、今日此の日のために『彼ら』を我がものとした、格別なる夜を想起していた。




