十七.渇仰
独りの苦渇を堪え、来るのか分からぬ晨明を待つ。
斯様な夜を、一体幾度越えたであろうか。
煌やかな銀細工の飾る帳台に囲われて、襦袢を着た霞乃江が茵に臥していた。
あえかな少女に過ぎなかった霞乃江は、妖王に依って自己の何たるかを知らされた。時を掛けて真の主を知り、彼の君に従う喜びに感じ入り、闇を御して力を開け放った。
眠っている時のみならず白昼でさえも、前世の記憶は夢と為って甦った。過去生の黒巫女は別人に違い無いが、自身であるかのような錯覚を呼び起こす。
氷姫を殺めてからというもの、嬉しくも悲しき其の錯乱は、徐々に激しさを増していた。五百年前を生きているのか、千年前を生きているのか、分からなく為る瞬間が有る程だった。
開闇して月日が経ち、容易く抑えていた力が、何時の間にか溢流していた。堰き止めることも出来ず、其の気も起きぬため、落ち着くまで身を横たえているしか無い。
「邪龍さま」
垂れた布帛の直ぐ向こうに、慣れ親しんだ男の気を見付けた。妖王は帳を上げて入り、蒲団の中に居る霞乃江の側で膝を付いた。
誰も寄せ付けたくない霞乃江は、室の外には鉄面の従者・炬を控えさせていた。常人離れした使い手とはいえ、妖王相手では門番にも為らぬらしい。
「お見苦しいところをお見せし、恥ずかしゅうございます」
消え入りそうに言ってから、両腕を交差させて顔を隠す。斯くも弱々しき姿を見せるのは、兄でもあり父でもある此の男のみである。
「地影の力と共に、おまえ自身の力も強まっている。記憶がより鮮やかに為りつつあるのではないか」
難無く言い当てた妖王は、霞乃江の髪を指先で梳く。見下ろす翡翠の目は、己の娘を愛しむようにも、都合の良い弄び物で愉しむようにも見えた。
彼の心内を知ってか知らでか、霞乃江は虚飾を帯びぬか細いだけの声を発する。
「夜、傍らで慰めてくれる者が、一人でも居てくれれば良いものを」
「あれは、おまえを慕っているのではないのか」
妖しの王が指しているのは、侵入者に気付かず室の外で忠義を尽くす青年のことだ。
「炬はわたしの身体に溺れた奴隷。心ではわたしを憎み、何時かは殺そうと狙っているのです」
虚勢の奥に、引き千切られる寂寥が潜んでいた。見逃さぬ妖王は、否定するか肯定するか迷い、瞬時に後者を選ぶ。
「ああ……そうだったな」
酷薄なる口元を微かに歪め、寄る辺無さに慄える霞乃江を抉ってゆく。
「彼の方なら、わたしをお側に置いてくださる。疑いも無くそう思っていた。でも今は……」
「信じ切れなく為ったのか」
霞乃江は肩を縮ませ、目元に乗せた指と指の隙間から天井を見た。
「何故『琉羅』ではなく『あの女』が……」
覗いたのは、明らかな嫉心であった。
「彼の御方は前世のおまえである琉羅ではなく、あの女を選んだ。あの女の転生である紗柄もまた、いずれ全て思い出すやもしれぬな」
悪意に塗れた妖王が、事も無げに霞乃江を試す。彼女の応えは想像通りだった。
「只、お会いしたい。お目覚めになった我が君が、またあの女を求めるとしても――」
紅を差していない霞乃江の頬や唇からは、生気が消えていた。瞳はある一点のみを追い、実体の無い何かを掴もうと逸らさない。
「見返りなど求めませぬ。然れど、あの女が憎らしい。此れまで厭わしいのは氷姫だけだったのに」
彼の君と出会いたい一心で、妖王の助言に従い地影で殺戮を重ねた。功を奏して黒巫女としての力と記憶が戻りつつあるが、光龍への名状し難い負の感情まで起こされていた。
「千年の昔から、おまえと紗柄は奪い合う運命。言わねば解らぬおまえではなかろう」
勿体付ける妖王は、端正な顔が歪みそうなのに耐えながら、失意に囚われつつある少女に耳打ちした。
「最後の人柱は、雪ではなく紗柄にすれば良い。死んでいれば、彼の君と再会させずに済む」
妖王の妙案は、霞乃江にとり唯一の策だった。遥か昔、主の心が何処に在ったのかを知った以上、光龍と会わせる訳にはいかなかった。
「だが、紗柄は剣鬼の如く強い。あれがおまえの力を得ているとはいえ、負ける可能性は十分に有る」
「雪王子を使えば良いのでしょう」
霞乃江にも即答出来た。彼こそが、戦巫女と呼ばれ懼れられる光龍が守り続ける者。宿を捨てた彼女にとり、唯一の拠り所であろう。
「俺が手を貸してやる。あの様なか弱き子供、おまえになら如何とでも出来よう」
何故か不機嫌そうな妖王を一瞥し、霞乃江は暫く思案してから言った。
「一つ、始末を付けねばならぬものを終わらせてから、取り掛かりましょう――邪龍さま」
情けを乞うでも媚びるでもなく、名を呼び掛けて身を起こす。
「貴方は、我が君に似た面影をお持ちですね」
妖王は両目を開いた。せがまれてもいないが、霞乃江を両の腕で背後から包み込む。
「こうしてやれば、一時の慰めと為るか」
人間の男が、好いた女に向けるであろう視線を拵えるなど、妖王には簡単なことだ。霞乃江の額に尤もらしい口付けを落としてやった。
「お優しいところも似ていらっしゃる」
其の呟きには、流石の妖王も首を傾げた。確かに優しい振りはしているが、聡い霞乃江のこと。己の魂胆を見抜いた上で、皮肉を籠めたのかと思った。
「我が異母兄上は、誰よりもお優しかった。俺のような異物さえも気に掛け、己の身を顧みずに救ってくださった」
未だ、天界に居た頃。一柱の神だった妖王は、実父と継母に殺され掛けて天宮で逃げ回っていた。同じく天に居た彼の君に助けられ、其の後死よりも恥ずべき目に遭った。
「だが、俺は違う。情愛の類いを知らぬからな」
警告の積もりだったが、霞乃江はゆっくりと頭を振る。
「いいえ、貴方はお優しい。わたしには分かりまする」
邪な男は、少女の花開く笑みに敬愛を見出した。少なくとも此処千年近くは触れていない温かさに、思わず言葉を詰まらせた。
釈然としないまま、妖王は否定せず乗ってやることにした。霞乃江に寄り添い、眠りに落ちるまで只抱き締めてやっていた。左様な行為には、何時ものような其の場凌ぎの愉快さなど、微塵にも感じられなかった。




