十六.劫火
ある時、少女は火焔を産んだ。
閃き、燻り、揺らめく黒の炎は、何時しか広がり天へと昇る。
烈々として鳴り止まず、凡て呑み込み荒れ狂う。
渦巻きながら世界を灼いて、いずれ己をも炮烙する。
此の絶崖が、凍える夢のいやはてと信じて。
夢から目醒め、貴方と再会するために。
火澄をも屠った霞乃江は、独り宮殿の廟に籠っていた。
王家の先祖たちの位牌が、階段状の壇の上に並べられている。王の血を引く魂たちは、床に両膝を付いた霞乃江と、刀置きに掛けられた地影を囲んで見下ろしていた。
此処は碧佳宮の敷地内に在りながら、儀式が無ければ人の出入りが無い。霞乃江が密やかに身体を休め、血を吸い膨張した地影の力を鎮めるには、都合の良い場所だった。そしてもう一つ、彼女が霊廟に来た邪曲なる訳が有った。
「氷姫、皆様の仲間入りをした気分は如何か?」
淡々と語り掛けた相手は、白骨化した頭蓋だけの氷姫であった。殺して暫くは肉も皮も付いており、物言わぬ花と為った姫を愛でていた。しかし程無くして腐り始めたため、見るに堪えず晒され頭としたのだ。
「此の霞乃江は、死んでも此処には来られぬ。もうご存知であろうが、わたしは王孫ではないからな。哀しく、恨めしいことだ」
姫の頭蓋は、御影石の床に置かれた白い盆の上に載り、霞乃江と正対している。
「命惜しさに娘を売った姦婦の腹から生まれ、妻殺しの欲深い義父に囲われた娘。其れがわたしだ。王家の姫として扱われてはいるが、決してそなたのようには為れぬ。真白き氷の花よ」
霞乃江は、口端だけで笑っていた。
「血海に沈んだ宮でお会いするまで、長らく見えていなかったな。孺子の頃以来、か。あの頃より、わたしは晟凱に幽され外に出られなく為ったゆえ」
姫の頭蓋は、黙している。
「心を許せる侍女も、近しい友も、わたしには居なかった。そうした者が一人でも居れば、斯様な話も出来たかもしれぬ――そう、お慕いする御方の話だ」
姫の頭蓋は、動かない。
「長い長い歳月を、凍えて焦がれて待ち続ける。愛しい君の御前に立つことだけを夢見て耐え忍ぶ。貴女に、解る? いや、貴女には解るまい」
姫の頭蓋は、答えない。
「わたしは貴女を好かぬ。ゆえに、貴女の男を奪ったのだよ」
姫の頭蓋は、微動だにしない。
「貴女を愛した恋人が最期に求めたのは、わたしであった。貴女が当然得るはずだったものを、わたしがいただいた」
姫の頭蓋は、何の不満も示さない。
「真実を告げよう。貴女には知る権利も義務も有る」
姫の頭蓋は、否定も肯定もしない。
「貴女と、貴女の恋人を陥れたのは、あの方をお救いするため。あの方とわたしが、もう一度出会うためだ」
霞乃江の声は、微熱を纏い始める。
姫の頭蓋は、瞬き一つしない。
「わたしの望みはね、髑髏の姫君。あの方の足下に平伏し、服従を誓い、隷属する幸福に歓喜しながら、此の呼吸を止めること」
霞乃江は己の腕を抱き、深く嘆息する。
姫の頭蓋は、只耳を傾ける。
「あの御方と再会するためなら、凡ゆる雪辱を甘んじて受ける。四肢が裂かれようとも、此の眼が潰されようとも、舌を抜かれようとも挑んでみせる」
姫の頭蓋は、慄かない。
「たとえ、誰に憎まれようとも。娼婦と罵られようとも。幾百幾千殺めようとも。人でなしと蔑まれようとも」
姫の頭蓋は、何かを問いたげに見えなくもない。
「あの御方がどなたで、何処におられるのか――知りたいか?」
霞乃江は再び、姫を横目で見やる。
姫の頭蓋は、頷かない。
「世を統べるためにお生まれになった、いと高き闇の君よ。千年の昔より、たった独り地上にお隠れになっている」
主を語る霞乃江は夢見心地で、別人の如く陶然としている。
「あの方の異母弟君が、幼いわたしに濁世で生きる術を教えてくださった。そしてあの方の存在をわたしに思い出させてくださった」
姫の頭蓋は、忘我の境に入った霞乃江を見詰めている。
「確かに、今生のわたしは未だお会い出来ていない。だが、わたしは知っている。此の穢れた身体の奥に継がれた魂に、あの方の記憶が刻み込まれているのだから」
霞乃江は感極まって肩を震わせ、涙を頬に伝わせ、黒い天井を見上げた。
「あの、光輝く微笑みを取り戻すためなら。あの、優しい御声を取り返すためなら。あの、慈愛に満ちた黒曜石の瞳に、今一度映されるためなら」
今生では見えていないはずの主を、見知っているかのように讃美する。眩い笑みを向けられ、素晴らしい時を共にしたかのように愛慕する。
「わたしは、何にでも為ってみせる」




