十五.宿業
天地が逆さまに為っても己を愛さぬ男のために、
己に愛をくれる男たちを喰い殺し続ける。
悲しき性と、哀れんだ者が居る。嘆いてくれた者も居る。
全ては、『彼の君』の巫女であるがゆえ。
彼の君に依って産み出され、其の願いを叶えるべく降された、定めの少女であるがゆえ。
かつて霞乃江は、自身が生かされている理由を知らなかった。
王の娘、氷姫よりも――此の国の誰よりも美しく生まれ、実父であるはずの晟凱からも女として虐げられる不条理の意味を知らずにいた。
魔の夜を越えて朝を迎えると、決まって独り、宮の裏手へ抜け出て行く。敷地内に在る小さな森が、霞乃江にとり唯一の逃げ場であった。
獣や妖が出るという訳でもないが、此の森には誰も寄り付かない。只人にさえ察せられる邪気が、宮の人間を遠ざけていたのだが、霞乃江以外に妖の気だと察した者は居なかった。
森奥には小さな泉が在った。周囲にはささやかな花々が咲き、水は澄み渡って静寂に満たされている。
しどけなく身に纏っていた薄衣を脱ぎ、歳の割に婉然とした裸身を晒す。柔肌には所々折檻の痕跡が残り、左肩の大きな火傷は特に痛々しいものだった。
美しく伸びた爪先を水面に浸し、脚と腰を沈めると、穢れを流すように水浴びを始めた。水鏡に映った己の麗容を手で掻き消し、腕や胸を洗う。自分を消し去り、別の何かに生まれ変わろうとしているが如く。
彼女の知らぬ間に、黒い樹の陰より此方を見ている者が居た。翠の眼と髪の、人ならざる男である。
「毎朝来ているな。己の身が厭わしいか」
好奇の念を持って問われ、霞乃江は肩越しに彼を見た。
「こうして禊ぎをしても、傷口に滲みて膚身が冷えるばかりで、清められる気がしませぬ」
男と会うのは初めてではなかった。晟凱に一際乱暴にされた日の翌朝は、声を掛けて来るとは限らないが、大抵姿を見せる。霞乃江が受けている仕打ちは見通しているらしいものの、彼の眼差しに憐憫も慈悲も無い。だからこそ、誇り高い霞乃江も素直に為れた。
「時々、虚しく為る。わたしは『義父』の慰みものに為るため生まれてきたのだろうか――と」
今は未だ、晟凱は霞乃江を実娘と信じていた。しかし彼女自身は、娘を贄にして安穏とする母の言動から、疾うの昔に気付いていた。己は晟凱ではなく、間男との子なのだと。
「左様な生き方が、おまえの『宿』と信じるのか」
「宿……」
意味合いは知っていても、普段口にすることの無い言葉。我知らず繰り返してみると、無視できぬ特異な響きを感じた。
「其の魔を、『実父』をも惑わす其の姿を、報復に使おうとは思わぬのか」
虚ろな瞳を見開き、霞乃江は水に浮かび上がる己が顔を見た。清水に濡れ、木漏れ日に煌めく美肌の滑らかさを、心地良さを確かめた。
「わたしが、義父上を惑わした?」
晟凱は、正妻である母以外にも複数の側女や遊び女を侍らせる好色な男。娘に手を付けたのも手癖の悪さゆえだと思っていた。というよりも、そう信じたかったのだ。己ではなく、義父の所為なのだと。
事実、あの小心な性質では、幾ら色を好んでいても娘を犯すことなど出来はしない。一度の過ちならともかく、毎夜と為ると益々不自然。其れは霞乃江だけでなく、此の悍ましい密事を隠す宮の者たちも皆、知っている。
「おまえは、己に与えられた美の意味を知らぬ。ゆえに、無価値なるものに蹂躙され、貶められたと思い込み、定めを見間違えているのだ」
翡翠の男は水際に立ち、霞乃江に向かって手招きした。真実を投げ掛ける者を拒む理由は無く、応じた彼女は静かに水から上がる。
「哀れなおまえに、どんな男にも、女にも屈さぬ術を与えてやろう」
優しげな声音で言うと、男は正面まで来た霞乃江の黒髪や花唇に触れ、額に口付けた。
「男たちはおまえに平伏し懇願する。凡ゆる富を、享楽を授けて、おまえの愛を得ようとする」
彼は仰々しく片膝を付いて頭を垂れた。やがて立ち上がり、上着を脱いで霞乃江の白い肩に掛けてやった。
「女たちはおまえの有する全てに羨望を抱き、愛を奪われ、おまえを憎みながら死ぬだろう」
彼は未来を予言しながら、過去の霞乃江を語っていた。
幼き頃から生を悲観し、死ぬまで独夜を彷徨うと疑わなかった彼女には、そもそも『愛』が分からない。自分が愛を抱くことも抱かれることも、想像すら及ばない。
「孤独なおまえに、かつておまえが愛した方を思い出させてやろう。彼の御方のために、おまえは其の身に注がれる男たちの愛を尽く踏み潰すだろう」
「かつて、愛した方?」
食い入るように男の双眸を見詰めていた霞乃江は、思わぬ言に首を傾げた。
「かつて愛し、螺旋を巡るおまえの魂が滅する時まで、永久に愛し続けるであろう御方さ」
――尤も、『神巫女』の魂が終わる時など、来はしないだろうがな。
心の底で呟いた男は、切れ長の眼を細めて微笑した。稀有なる玩具を手にした愉楽を、慈しみに掏り替え見せ掛けるなど、邪悪な彼には造作も無い。
「そんな方が、わたしにも居るのなら……」
霞乃江の空虚なる玉面は、期待と不安に艶々と輝いていた。途中で口篭もったものの、妖しの王には皆まで聞く必要も無く、彼女の顎を指で持ち上げた。僅かに開いた、心細げな唇を接吻で塞ぎ、爛れた左肩を手の甲で撫ぜる。
数千年を生きる妖王・邪龍は、戯れと憂さ晴らしに幾多の女を魅惑し、縛してきた。人間の男に傷付けられ、失望した少女を慰めるなど訳も無いだろう。
――『奴』のおらぬ間に、其の巫女を我がものとするのも一興か。
未だ封じられている異母兄への微かな反抗心が芽生え、悪戯が脳裏を過った。然れど霞乃江の眼が燃えたのを見て、容易ではなかろうと即座に判断する。
義父にされるものとはまるで異なる、少女の心身など簡単に蕩かせてしまう口付けを受けても尚、霞乃江は妖王ではなく主を求めていた。
「会いたい、其の御方に」
こうして最後に何かを願ったのは、何時のことだろうか――そう自問する程、霞乃江は諦念に囚われていた。
被虐に依り、色彩を失くした霞乃江の心を甦らせたのは、彼女を真の女にしてやる眼前の男ではない。千年の昔、黒巫女の魂と器を創りし主こそが、眠らされた欲望を、激情を、呼び覚ますのだ。
「会いに行くが良い。彼の君は、屹度其れを望んでおられる」
そう耳打ちされた刹那、生きながらにして己の生を奪われていた一人の少女は、死んだ。




