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凍える夢  作者: 亜薇
本編
14/33

十二.滑落

やや残酷な描写があります。

 愛も、恋も、霞と同じ。

 澄みやかな心も、切なる願いも。いずれは俗悪な欲望に喰われてしまう、儚い幻想に過ぎぬ。


 魂の螺旋を巡る女は、男の欲心を煽って愛を試す。

 遠い遠い昔、愛に敗れた己の恨みを、誰かの愛を引き裂き晴らさんとしているかのように。

 己が捧げる想いだけが、唯一変わらぬ尊き愛だと、未だ見ぬ主君へ示さんとしているかのように。






 黒い雲が月や星を隠し、光の注がぬ夜。火澄は供も付けず独りきりで、晟凱の宮へ忍び込んだ。即位を控えた当人は王宮に入り不在だが、火澄の目的はの謀反人ではない。

 王弟の宮は、碧佳宮から程近くに在る。主が居ないにも拘らず、近衛に依る警備は過剰な程厳重に為されていた。此の宮に住む晟凱の「娘」を守るために。

 其れでも火澄は、此処に来なければならなかった。氷姫を殺めた者に報復せねば、己も生きていられなかった。もし逆の立場なら、氷花は必ず同じ道を辿るだろう――彼は、そう信じたかった。

 無念のうちに死んだ恋人の仇討ちを遂げるため。大望を、大義を捨てて、何時誰かと出会でくわすか分からぬ広い渡殿わたどのを歩いてゆく。

 れど奇怪にも、遭遇するはずの見張りは姿を見せない。彼の本能は警鐘を鳴らしたが、行く手を阻む者が居ないのは、歩みを止める理由には為らぬ。

 何処からか、甘い香りが流れている。時折氷姫も室で炊いていた芳香で、火澄にも麝香という名と共に覚えが有った。

 異香いきょうは主屋の方角からやって来ていた。抗いようも無く誘われ、足を向ける。愛おしい剣の姫が、敵の居所を示してくれている気がしたのだ。

 回廊を渡り主屋へ入ったが、やはり誰も見当たらない。兵のみならず、下女や下男も見付けられない。

 燈籠や燭台の火が燃えていることから、始末もせずいそいそと去ったに違い無い。

 香が濃く為りゆくのを確かめながら、火澄は幾つか襖を開けて奥へ進む。いよいよ最後の室に来た時、言い知れぬものを覚えて止まった。

 其の感覚を振り払い襖戸を開くと、畳の間が広がり、とばりの下りた帳台ちょうだいが在った。両端に置かれた燈台の明かりで浮き彫りに為り、奇異なるものを放っている。

 さらり、と衣摺きぬずれがして、火澄は中に人の気配を認めた。剣の柄を掴む右手に力を籠めてから、腹を決めて左足を踏み出す。

 執念が、憎悪が、平生へいぜいの彼を失わせていた。声も掛けず、突然に帷子かたびらを除けて内を覗くと、此方に背中を向けてしとねの上に座す女が居た。

 袿姿うちきすがたで、長い黒髪は後ろに流している。見知らぬ男の侵入に気付いているのか否か、少しも動かない。

「霞の君とは、そなたか」

 仇怨きゅうえんの灼熱に身を焦がし、火澄は乾いた掠れ声を発した。女は腰をねじり、上半身だけ振り向くと、袖口で口元を隠したまま火澄を見上げた。

 揺れる紫水晶の瞳が、恋しい人を亡くした孤独な青年を映し出す。両の玉臂ぎょくひが伸ばされ、顔の半分を隠していた手が取り払われると、天恵としか思えぬ至高の艶花が有った。

 女が彼をばくすのに要したのは、たったの一目いちもく。只の一瞬。目が合うや否や、火澄から暴虐なる憎しみが消え飛んだ。彼にとり、此の出会いは救いであり、情け深き癒やしでもあった。

 妖姿に目を眩まされ、暫時惚けていた火澄は、腰の剣を外して躊躇い無く床へ放り、膝を折る。霞乃江の背を抱き寄せて虚ろに見詰め、紅の引かれた厚い唇を塞いだ。

 彼女の頭に右手を添えると、温かな息を漏らして舌を絡ませ合う。荒いものではなく、まるで恋人にする口付けの如く優しかったが、かつて氷姫と交わしたものとは根本が異なっている。此れは紛れも無く、男が女に房中で施す戯れだった。

 霞乃江の口端から溢れた唾液を掬い、舌先を歯の裏側、口蓋まで伸ばす。多くの女が悦ぶ所を狙うのは、火澄が彼女の肉体を欲するがゆえ。壊れ物を扱うかのように触れるのは、彼女への愛執に囚われたがゆえだった。

 息を継ぐ間に、火澄の手が霞乃江の腰帯へと伸びる。彼女は抗わなかったが、小首を傾げて問いを投げ掛けた。

「わたしは、貴方の愛する方を殺しました。貴方は仇を討ちに来たのではありませぬか?」

 傍らには、氷姫の頭蓋が置かれていた。其れには目もくれず、火澄は霞乃江の姿だけを硝子玉の双眸に映している。

 何時の間にか、火澄の両手は震え出していた。血の気が失せて覇気の無い顔は、本来の彼とはまるで別人のようだ。

「どうか、苦しまないで」

 慈しみ、労わるように声を掛け、火澄の手に己の手指を重ねる。其のまま彼の手を腰元に運び、帯を解かせるよう導いた。

「わたしも、貴方が欲しゅうございます」

 皆まで囁めかぬうちに、火澄は霞乃江を引き寄せ、共に茵の上へ倒れ込んだ。性急に衣服を脱がせながら、唇や頬、首筋や鎖骨へ接吻を降らせてゆく。

 合わせた着物を分けて胸元を開くと、純白に輝く豊かな乳房が現れる。逡巡無く掌へ収めて弾力を確かめ、形を歪ませ、やがて先端を口に含み舌で転がした。

 霞乃江の吐息に嬌声が混じり始め、火澄の耳を侵す。心地良い高さの声が一層誘惑するが、殆ど正気を失っていても、彼は焦らない。

 処女の氷姫にしてやるはずだったように、時間を掛けて丹念に焦らし解きほぐし、待ち切れぬ霞乃江が切なげに泣き出す頃、漸く身体を繋げた。

 朽ちて物言わぬ骨と為り、眼窩がんかの奥より彼を見守る恋人の前で、火澄は霞乃江と交わった。此れは、仇の女を犯すことに依る復讐ではない。憂いを塗り潰し、苦しみを忘却するために求めた女が、偶々仇だったというだけだ。

 火澄の不運は、黒巫女・霞乃江の絶大なる魔。幾度目合まぐわい果てても、続きをせがむ彼女への愛欲は増殖するばかりで、終わりが来ない。欲に負けて理性を失い、己の為すべきことすら見失い、霞乃江に悦びを与えるだけの肉塊と化した。

 夜明けが近付いた。不義極まる此の行為が、どれ程繰り返された頃であろうか――突として、前触れ無く。霞乃江の中で快楽けらくを貪っていた火澄の首が斬られ、側方に跳んだ。

 首の有った場所から上方へと血が噴き出し、霞乃江の濡れた肌に降り掛かる。頭から血潮を被り、火澄に吸われて付いた無数の痣も覆い隠され、真紅に染められた。

「炬、堪えられぬ奴だ」

 霞乃江が呆れ顔を向けた先に、透ける黒石の剣を携えた炬が立っていた。火澄の血を纏った刀身は、赤黒く爛々と輝いている。

 倒れた首の無い死体を退かし、ゆらりと立ち上がる。跪いた炬から剣を受け取り、柄から切先までをまじまじと見詰めた。

「此れで良い」

 嬉しげに目を細め、口の横に付いた生贄の精と血を舐める。つい先程まで己の虜にし、棒切れ同然に為った男を見下してから、奥に置かれた氷姫の髑髏しゃれこうべを見やる。

「憐れよな、氷姫。此の男、そなたの見ている前でわたしを抱いたぞ。わたしのはらで果てるうち、わたしへの恨みもそなたへの愛も、凡て忘れてしまったのだ」

 物言わぬ姫の頭蓋骨は、死んだ恋人を何も語らぬまま見ている。姫を裏切った男を恨んでいるのか哀れんでいるのか、霞乃江には知るよしも無い。

「また満ちた。後はもう一人だが――さて、どちらにしようか」

 役目を果たした闇龍の神剣・地影は、再び霞乃江の魂に封じられて姿を隠す。多少先走ったものの、命令通りに贄を殺した炬に褒美を与えるため、彼女は両腕を広げて血だらけの裸身を晒した。

「炬。わたしは未だ、満足しておらぬ」

 其の下命を待ち侘びていた炬は、首を垂れて主の細腰を抱く。他の男に汚された肌に構わず触れて、頬を摺り寄せるが、冷たい鉄面が邪魔をする。

 霞乃江は嬌笑し、彼女だけが外せる下僕の面を取り去る。素顔を見せた炬は、抑えられずに彼女の唇を喰らい、同時に指で耳朶みみたぶを挟み、擦る。彼の主人は、こうしてやるといのを知っていたからだ。

 己の言葉を持たぬ男、炬。彼もまた、霞乃江の猛毒に浸され、虜囚に落ちた男の一人に過ぎなかった。

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