十二.滑落
やや残酷な描写があります。
愛も、恋も、霞と同じ。
澄みやかな心も、切なる願いも。いずれは俗悪な欲望に喰われてしまう、儚い幻想に過ぎぬ。
魂の螺旋を巡る女は、男の欲心を煽って愛を試す。
遠い遠い昔、愛に敗れた己の恨みを、誰かの愛を引き裂き晴らさんとしているかのように。
己が捧げる想いだけが、唯一変わらぬ尊き愛だと、未だ見ぬ主君へ示さんとしているかのように。
黒い雲が月や星を隠し、光の注がぬ夜。火澄は供も付けず独りきりで、晟凱の宮へ忍び込んだ。即位を控えた当人は王宮に入り不在だが、火澄の目的は彼の謀反人ではない。
王弟の宮は、碧佳宮から程近くに在る。主が居ないにも拘らず、近衛に依る警備は過剰な程厳重に為されていた。此の宮に住む晟凱の「娘」を守るために。
其れでも火澄は、此処に来なければならなかった。氷姫を殺めた者に報復せねば、己も生きていられなかった。もし逆の立場なら、氷花は必ず同じ道を辿るだろう――彼は、そう信じたかった。
無念のうちに死んだ恋人の仇討ちを遂げるため。大望を、大義を捨てて、何時誰かと出会すか分からぬ広い渡殿を歩いてゆく。
然れど奇怪にも、遭遇するはずの見張りは姿を見せない。彼の本能は警鐘を鳴らしたが、行く手を阻む者が居ないのは、歩みを止める理由には為らぬ。
何処からか、甘い香りが流れている。時折氷姫も室で炊いていた芳香で、火澄にも麝香という名と共に覚えが有った。
異香は主屋の方角からやって来ていた。抗いようも無く誘われ、足を向ける。愛おしい剣の姫が、敵の居所を示してくれている気がしたのだ。
回廊を渡り主屋へ入ったが、やはり誰も見当たらない。兵のみならず、下女や下男も見付けられない。
燈籠や燭台の火が燃えていることから、始末もせずいそいそと去ったに違い無い。
香が濃く為りゆくのを確かめながら、火澄は幾つか襖を開けて奥へ進む。いよいよ最後の室に来た時、言い知れぬものを覚えて止まった。
其の感覚を振り払い襖戸を開くと、畳の間が広がり、帳の下りた帳台が在った。両端に置かれた燈台の明かりで浮き彫りに為り、奇異なるものを放っている。
さらり、と衣摺れがして、火澄は中に人の気配を認めた。剣の柄を掴む右手に力を籠めてから、腹を決めて左足を踏み出す。
執念が、憎悪が、平生の彼を失わせていた。声も掛けず、突然に帷子を除けて内を覗くと、此方に背中を向けて茵の上に座す女が居た。
袿姿で、長い黒髪は後ろに流している。見知らぬ男の侵入に気付いているのか否か、少しも動かない。
「霞の君とは、そなたか」
仇怨の灼熱に身を焦がし、火澄は乾いた掠れ声を発した。女は腰を捩り、上半身だけ振り向くと、袖口で口元を隠したまま火澄を見上げた。
揺れる紫水晶の瞳が、恋しい人を亡くした孤独な青年を映し出す。両の玉臂が伸ばされ、顔の半分を隠していた手が取り払われると、天恵としか思えぬ至高の艶花が有った。
女が彼を縛すのに要したのは、たったの一目。只の一瞬。目が合うや否や、火澄から暴虐なる憎しみが消え飛んだ。彼にとり、此の出会いは救いであり、情け深き癒やしでもあった。
妖姿に目を眩まされ、暫時惚けていた火澄は、腰の剣を外して躊躇い無く床へ放り、膝を折る。霞乃江の背を抱き寄せて虚ろに見詰め、紅の引かれた厚い唇を塞いだ。
彼女の頭に右手を添えると、温かな息を漏らして舌を絡ませ合う。荒いものではなく、まるで恋人にする口付けの如く優しかったが、かつて氷姫と交わしたものとは根本が異なっている。此れは紛れも無く、男が女に房中で施す戯れだった。
霞乃江の口端から溢れた唾液を掬い、舌先を歯の裏側、口蓋まで伸ばす。多くの女が悦ぶ所を狙うのは、火澄が彼女の肉体を欲するがゆえ。壊れ物を扱うかのように触れるのは、彼女への愛執に囚われたがゆえだった。
息を継ぐ間に、火澄の手が霞乃江の腰帯へと伸びる。彼女は抗わなかったが、小首を傾げて問いを投げ掛けた。
「わたしは、貴方の愛する方を殺しました。貴方は仇を討ちに来たのではありませぬか?」
傍らには、氷姫の頭蓋が置かれていた。其れには目もくれず、火澄は霞乃江の姿だけを硝子玉の双眸に映している。
何時の間にか、火澄の両手は震え出していた。血の気が失せて覇気の無い顔は、本来の彼とはまるで別人のようだ。
「どうか、苦しまないで」
慈しみ、労わるように声を掛け、火澄の手に己の手指を重ねる。其のまま彼の手を腰元に運び、帯を解かせるよう導いた。
「わたしも、貴方が欲しゅうございます」
皆まで囁めかぬうちに、火澄は霞乃江を引き寄せ、共に茵の上へ倒れ込んだ。性急に衣服を脱がせながら、唇や頬、首筋や鎖骨へ接吻を降らせてゆく。
合わせた着物を分けて胸元を開くと、純白に輝く豊かな乳房が現れる。逡巡無く掌へ収めて弾力を確かめ、形を歪ませ、やがて先端を口に含み舌で転がした。
霞乃江の吐息に嬌声が混じり始め、火澄の耳を侵す。心地良い高さの声が一層誘惑するが、殆ど正気を失っていても、彼は焦らない。
処女の氷姫にしてやるはずだったように、時間を掛けて丹念に焦らし解きほぐし、待ち切れぬ霞乃江が切なげに泣き出す頃、漸く身体を繋げた。
朽ちて物言わぬ骨と為り、眼窩の奥より彼を見守る恋人の前で、火澄は霞乃江と交わった。此れは、仇の女を犯すことに依る復讐ではない。憂いを塗り潰し、苦しみを忘却するために求めた女が、偶々仇だったというだけだ。
火澄の不運は、黒巫女・霞乃江の絶大なる魔。幾度目合い果てても、続きをせがむ彼女への愛欲は増殖するばかりで、終わりが来ない。欲に負けて理性を失い、己の為すべきことすら見失い、霞乃江に悦びを与えるだけの肉塊と化した。
夜明けが近付いた。不義極まる此の行為が、どれ程繰り返された頃であろうか――突として、前触れ無く。霞乃江の中で快楽を貪っていた火澄の首が斬られ、側方に跳んだ。
首の有った場所から上方へと血が噴き出し、霞乃江の濡れた肌に降り掛かる。頭から血潮を被り、火澄に吸われて付いた無数の痣も覆い隠され、真紅に染められた。
「炬、堪えられぬ奴だ」
霞乃江が呆れ顔を向けた先に、透ける黒石の剣を携えた炬が立っていた。火澄の血を纏った刀身は、赤黒く爛々と輝いている。
倒れた首の無い死体を退かし、ゆらりと立ち上がる。跪いた炬から剣を受け取り、柄から切先までをまじまじと見詰めた。
「此れで良い」
嬉しげに目を細め、口の横に付いた生贄の精と血を舐める。つい先程まで己の虜にし、棒切れ同然に為った男を見下してから、奥に置かれた氷姫の髑髏を見やる。
「憐れよな、氷姫。此の男、そなたの見ている前でわたしを抱いたぞ。わたしの胎で果てるうち、わたしへの恨みもそなたへの愛も、凡て忘れてしまったのだ」
物言わぬ姫の頭蓋骨は、死んだ恋人を何も語らぬまま見ている。姫を裏切った男を恨んでいるのか哀れんでいるのか、霞乃江には知る由も無い。
「また満ちた。後はもう一人だが――さて、どちらにしようか」
役目を果たした闇龍の神剣・地影は、再び霞乃江の魂に封じられて姿を隠す。多少先走ったものの、命令通りに贄を殺した炬に褒美を与えるため、彼女は両腕を広げて血だらけの裸身を晒した。
「炬。わたしは未だ、満足しておらぬ」
其の下命を待ち侘びていた炬は、首を垂れて主の細腰を抱く。他の男に汚された肌に構わず触れて、頬を摺り寄せるが、冷たい鉄面が邪魔をする。
霞乃江は嬌笑し、彼女だけが外せる下僕の面を取り去る。素顔を見せた炬は、抑えられずに彼女の唇を喰らい、同時に指で耳朶を挟み、擦る。彼の主人は、こうしてやると悦いのを知っていたからだ。
己の言葉を持たぬ男、炬。彼もまた、霞乃江の猛毒に浸され、虜囚に落ちた男の一人に過ぎなかった。




