十一.守人【2】
闇龍までもが関わっているというのは、紗柄にとり盲点であった。彼女は未だ、闇の神巫女とは会ったことが無いし、存在を近くに感じたことも無い。
「奴らが晟凱に加担していると考える根拠は何だ」
反論したい気持ちを籠めて、紗柄は問うた。
「晟凱に、黒の気が移っている」
其れは、神気を感知する能力を持つ者には確たる証拠であった。
「二日前、祥岐王崩御の凶報が出された。前王が乱心したため晟凱が立ち、成敗したとの話。でっち上げの、邪悪な大義名分だけれどね」
簒奪者が適当な話を拵え、前王を貶めるのは良く有る。民や他国に向けて公表出来る、何らかの口実が有れば良い。
「前王は国葬にすらされず、王宮の端で密やかに葬られた。儀式を行ったおれたちの仲間が、晟凱を見た時に気付いたんだ」
名君と称えられた父王が、終いまで屈辱的な扱いを受けたと知り、雪は小さく嘆息する。依水は彼を気にしつつも、神妙な面持ちで続けた。
「君の持つ神気とは逆の、純黒の気だよ。『黒の神』以外には、闇龍のみが持ち得る気だ」
晟凱が其の気を持っていた事実は、黒巫女が彼に近付き――或いは以前から近くにおり、力を渡したのを意味する。
「宮殿で、祥岐王や重鎮たち……王気を持つ者や徳を積んだ者たちが大勢殺された。闇の神巫女の神剣・地影は、そうした者たちや邪念に囚われた者の血を吸い、黒巫女の力を増幅させる」
己の持つ光龍の神剣・天陽と対を成す剣の名を聞き、紗柄は眉を顰めた。
「地影は、妖王に奪われたのではなかったか」
依水は其の双瞳に此れまでに無い陰りを落として、重々しく首肯した。
「五百年前の、先代神巫女たちの時代から、おれたちが天陽と地影を非天の手に渡らぬよう隠し通してきた。だけど七年前、妖王に奪われてしまった」
「天陽は奴の戯れで私の手元に来たが、地影は行方知れずだったな」
忌まわしき過去が、紗柄の涼やかな顔を歪めてゆく。
「妖王が闇龍に地影を渡したのか。如何して、闇龍は力を得ようとする?」
依水を射通す彼女の眼光が、雪を些か不安にさせた。何故なのかは分からなかったし、考えるのが怖い気もした。
「闇龍が果たそうとするのは、何時の生でもたった一つだけ――黒神の復活」
黒の神とは、天帝・聖龍の双子の弟神である。神の中で唯一黒色を纏って生まれ、非天を統べる邪神に堕ちた、悪の最たるもの。人の理を外れ転生を続ける光龍が、永遠の螺旋輪廻を巡って倒すべき敵の最たるもの、と伝えられている。
千年前の『天宮の戮』において、天帝と五闘神の一柱、薺明神に依り、黒神は下界に封じられた。非天の手で放たれぬよう、封印の地は誰にも明かされていない。斯様な話は、童子でも聞き知っていた。
「黒神が力を分けて創った闇龍は、未だに主と繋がれている。闇龍に働き掛けることが、黒神が甦る只一つの方法なのさ」
此処までを聞き、雪は依水の仮説を整理した。
「つまり、闇龍が黒神を甦らせるために謀反を起こさせたのですか?」
「おれはそう思っておりますが、あくまで想像の域を出ません。光龍である紗柄が直接確かめねば、正解は分からないのです」
人智を超えた者たちの所業を、力有る巫覡の一族とはいえ、依水たちが推し量るのは難しい。龍神が降した巫女の行いは、同じく宿を持って龍神に遣わされた巫女にしか解し得ないのだ。たとえ、本人が宿を棄てた積もりであっても。
「風に当たって来る」
突として立ち上がった紗柄が、雪が尋ねる間も与えずに出て行く。何も言わず見送った依水は、心配げな雪へ声を掛けた。
「直に、おれの世話をしてくれている者が戻って来ます。二階の室へ案内させますので、お休みください」
指摘しなかったものの、依水は雪が疲労を溜めているのを気の乱れで察していた。紗柄も気付いておらぬはずが無いが、見掛け以上に余裕を欠いていたのだろう。
「依水殿、ありがとう」
礼を伝え、雪は背凭れに背を付け天井を見上げた。
「私の助けと為ることが、紗柄が避け続けていた光龍の宿を果たすことに繋がるのですね」
初対面の、其れも下民である依水の前で、憚りもせずに悲哀の涙で目尻を湿らせる。紗柄を思いやる透明な滴が、王子の本源を象徴しているようで、依水は背筋を凍らせた。
依水の言った通り、程無くして一人の年老いた男が帰って来た。
男は光焔の一族ではないが、珪楽の出であり、依水が左脚を失った頃から身の回りの世話をしてくれているらしい。見知らぬ来客にも驚かず、雪を上階の客室へと連れて行った。
暫く使われていなかったであろう、小さな客間は、湿っぽいが気に為る程ではない。男が去るなり寝台に寝そべった雪は、重い瞼を閉じた。都を脱出して以来、久方振りに人心地付けた。
雪が眠りに就いた頃、紗柄が帰って来た。箒で上がり口を掃いている下男に会釈し居間に戻ると、先刻から座ったままの依水と目を合わせた。
「覚悟は決まったかな?」
険しげな顔をしていた紗柄は平然と、深沈としている。上の階に雪の気を見付け、ちらりと仰いでから告げた。
「雪を休ませて、奴に未だ其の気が有るなら、都へ戻る。戻って斃すべき者を斃す」
戸外で独り悩んでみたが、彼女の考えは変わらなかった。
「誇りを守るために命を懸けると、雪が言っている。逃げたいと言わぬ限り、付き合ってやる積もりだ」
「宿を、受け入れるの?」
静かに、しかしはっきりと、紗柄は頭を振った。
「黒幕が闇龍で、雪が望むのなら、討ち果たす。光龍の宿とは関係無い。雪のやりたいようにさせるのが、私の為すべきことだ」
予想通りとばかりに、依水は微笑んだ。
「驚くべき入れ込み様だね。君、あの綺麗な王子に惚れてるのかい?」
偶には紗柄の歳相応な困り顔を見られればとからかったのだが、彼女は露骨な嫌悪を示しただけだった。
「恐い、恐い。悪気は無いって」
両手を振って謝ると、紗柄は咳払いをした。彼女とて、本気で怒っている訳ではない。
「私に居場所を与えてくれたのは、氷姫と雪だから。其れに……何やら雪には懐かしさを感じるのだ。出会うよりも、ずっと前から知っている、温かさを」
己の心情を率直に表した紗柄は、迷い道に踏み入り、心を置いて来てしまったかのように、ふわりとした調子で言った。
「魂の螺旋の何処かで、雪王子と――或いは良く似た人と、巡り合っていたのかもね」
「そうかもしれぬな」
前世や転生の話をしたがらない紗柄にしては、奇妙なくらいに腑に落ちた様子だった。依水は雪と初めて会ったが、あの王子が紗柄に与えられた艱難辛苦に如何な影響を及ぼしてきたか、見えた気がしていた。
「もう、五年くらい前かな。仲間と一緒に光龍を珪楽に迎えようとした時、君は応じてくれなかった。十数年間君を探し続けたおれたちは、ちょっと悲しかったよ」
其の時、既に氷姫や雪と出会っていた紗柄は、光龍の宿を果たす積もりは無いと言い放った。依水たちは落胆しながらも、数年掛けて受け入れようとしていた。
「同胞の命と神剣を奪われて尚、独りしぶとく生きている――おれに残された宿は、『光龍』を見守ること。君が神巫女の宿を拒んでいても、おれは自分の宿に従うと決めた」
「依水」
紗柄は我知らず、彼の名を呼んでいた。
「死なないでね。君のやることに口出しはしないし、協力もする。でもおれは未だ、諦めていないよ」
光龍でありたくない紗柄に、押し付けようとする言い方ではない。だが言葉通り、彼女への期待を捨てた訳でもない。
かつては楽人ではなく、妖討伐士であった依水は、今世に現れたという光龍へ天陽を渡すため、仲間と共に祥岐へと向かった。道中、妖王が連れた妖狼の群れに襲われ、同じ討伐士だった依水の恋人を含む全員が殺された。
妖王は天陽を奪い、左脚を失った依水だけを生かした。敢えて留めを刺さなかったと見受けられたが、真意は分からない。
大事なものを掬い取られた依水が『諦めていない』のは、紗柄が妖王への復讐を遂げることだ。妖王は紗柄にとっても因縁深い敵なのだから。
「依水、済まぬ」
座した依水の真前に立った紗柄は、彼から目を逸らさず、身動ぎもせずに謝罪する。
「私は昔、剣を合わせたことが有るゆえ、凡そ奴の力量は分かる。戦えば腕の一本二本では済まされぬ。奴は憎いが雪のために、今は危険を冒せぬのだ」
身を守るために「鬼」と為り、妖王とも戦った。あの時戦意を滾らせたのは、開光の切っ掛けを作った彼への憤り、与えられた力への陶酔、何方も有った。結果、目醒めたばかりの光を操り切れずに遇らわれて終わった。
だが今は、背負うものが違う。
幼い頃に受けた深い傷のため、彼らの望む光龍には為れない。守り続けなければならぬ者のために、仇敵へも挑めない――何一つ彼の力に為れず、紗柄なりの自責の念が有った。
「謝ることは無い。美しい心のまま、信念を貫く君にまた会えて、安心したよ」
「美しい心……私が?」
かつて人鬼と成り果て、天陽を手に罪科を重ね続けていた頃。妖王に言われ、焼き付いている呪言が立ち昇る。
『美しい貌をしていながら、血に塗れた醜い心の神巫女よ』
憎き男の言霊が如何に己を縛ってきたか、依水に真逆を言われる今まで気付かなかった。其れが今、彼女には酷く滑稽に思えてきた。
「王子が起きたら、夕餉にしよう。此の五年で、おれの笛も上達したんだ。良かったら聴いてくれないか」
何時もは捉えどころの無い依水が、急に面を伏せて小声に為った。
「ああ」
唇を綻ばせてから、紗柄は厨へと歩み出す。
「支度を手伝ってくる」
思わぬ申し出に、依水は年頃の娘には礼を失する物言いを止められなかった。
「炊事なんて出来るのかい? 王宮暮らしだったのに」
「子供の頃は良くやっていた。屹度思い出すだろう」
紗柄は腹を立てることも無く言い置いて、室を出て行く。
「ありがとう、紗柄」
彼女の背に礼を言った依水は、一箇所だけ在る出窓を見上げた。夕刻に差し掛かり空が橙色に色付き始め、隣家からも飯を炊く香りが漂い着いていた。
雪と紗柄を合流させた火澄は、密かに都へ戻っていた。晟凱に抗うための勢力に加わり、反撃の機会を窺うためだ。
王と氷姫を喪った時点で、彼は自死を考えた。然れど氷姫の願いを聞き入れて雪王子を逃し、気弱なはずの彼が気丈に振る舞うのを目にし、踏み止まったのだ。
晟凱は己に降らぬ者に手配を掛け、王師は火澄を捕らえようと追っていた。
簒奪者に恭順せず、火澄の味方と為る者は、今やごく僅か。王宮で祥岐王と共に殺害された、宰相の一族をはじめとする忠臣たちであった。
宰相は都に隣接する魏州の州侯を兼ねており、一族で領地に逃れて地方領主たちとの接触を図り、反晟凱派を集めようとしていた。晟凱は其の動きを潰すべく王師の出陣を命じ、内乱が勃発するのも時間の問題と為っていた。
王都と魏州の境に在る旅亭にて、亡き宰相の嫡男、若き新魏州侯と密会した火澄は、雪と紗柄を逃したことを伝えた。雪を次期王に立てて晟凱を討ち、義を貫くべきだと熱弁した。
雪以外の王子たちが殺され、死んだ氷姫以外の王女たちも多くが捕まった今、旗印と出来るのは軟弱と蔑まれた雪のみ。宰相の息子の本心は如何あれ、火澄に言われるまでもなく、やり方は其れしか無かった。
火澄は、自身の部下や氷姫の隊に居た将兵らを纏め、魏州侯に下ると約した。魏州侯は近く攻めて来るであろう王師を迎え撃ち、雪を王座に据えると宣言した。全ては逆賊を誅し、亡き主君から受けた大恩に報いるために。
用を終え、退室しようと席を立つ火澄に、侯が躊躇いがちに一言付け加えた。
「貴方の想い人、氷姫さまを手に掛けた女が見付かった」
其の言は、義心に燃えた火澄の熱を忽ち冷却させ、別の炎を吐き出させた。怨憎は彼から正常な思考を奪い、惑わせ、魏州侯の報せに違和感を持つ冷静さを失わせた。
王や父である宰相ではなく、氷姫を殺めた者と表した理由。犯人を知った経緯。問うべきを問わず、疑うべきを疑わず、火澄は独り、昏き陥穽に嵌められたのだ。




