十.守人【1】
人の宿とは、天が下した歩むべき道。
人に希望を、時に失望を齎し、人を人たらしめるもの。
人が死へと向かいながら完遂すべき、生の意味其のもの。
与えられた宿に従い、命尽きる瞬間まで果たさんとする者が居る。
一方で、宿に抗う者――他の道を信じ、死すら恐れず挑む者が居る。
従おうと、抗おうと。人は宿から逃れられない。
王も民も、神巫女も只人も。
人には皆、生と死が在るように。
人が皆、朝と夜を迎えるように。
風耶に入った時、太陽が雲一つ無い中天に掛かり、地上を見下ろしていた。
厩舎に馬を預けた紗柄は、雪の手を引き早足で町中へ入って行く。顔を隠すため、頭巾を被って俯いたままの雪は、転ばぬよう注意して付いて行かねばならなかった。
小さな町ながらも、目抜き通りは人で混み合っている。茗人に良く居る褐色肌の人間も多い。一時期彼の国の一部であった名残であろう。
雪の息が上がり始めた頃、紗柄は誰も居ない路地を見付けて滑り込む。彼女が手を離した途端、雪は其の場にへたり込んだ。
「休め」
素っ気無く労ってから、紗柄は背を向けて通りの方を見やる。誰にも付けられていないのを確かめた後、後ろの彼を一瞥して肩を上下させた。
「紗柄。これから会いに行く人って、どんな人なの」
「古い知り合いだ。会うのは五年ぶりくらいに為る」
次の質問すら浮かばない、手短過ぎる説明だった。
「信用は出来る男だ。王子を裏切っても、私に対しては嘘一つ付けないだろうな」
「そう……なの」
何処の誰か分からぬ者が、己の知らないところで紗柄と特別な間柄に為っていると思い、雪は素直に呑み込めなかった。
「光龍を祭祀する一族の末裔だから、私に協力的なだけだ」
邪推するな、とばかりに付け加えられ、眼を泳がせる。
「そ、そうなんだ」
暫時、どちらも黙っていた。通りから馬車や人が行き交う雑然とした音が流れて来る中、先に動いたのは雪だった。両膝の外側を手の甲で叩き、一つ大きく息を吐く。
「もう大丈夫。行こう」
本当に大丈夫なのかを見定めるために、紗柄は指で雪の顎を上げた。無言のまま首元や額に触れ、気を確認する。
「紗柄、もう子供じゃないんだから」
肩を引いた雪が、白い頬を幾ばくか紅に染めて窘める。だが紗柄の血色の良い口唇や首筋に恥じらうのは彼だけで、効果は無かった。
「後少しで着く。離れるなよ」
今一度雪の腕を掴み、通りへ出る。頭に布を被り直した雪は、よろめいた所を踏み止まり、また必死に付いて行く。
やがて紗柄は、再び狭い脇道に逸れた。人気の無く為ったところで歩く速度を落とし、此れから会おうとしている人物について雪に話し出した。
――茗と聖安の国境近くに、珪楽という聖なる地が存している。
珪楽の民たちは、紗柄の前世である先代光龍に縁が有り、神巫女を祀り始めた。凡そ、五百年前のことだという。
自らを『光焔の守人』と呼ぶ巫覡の血族は、人界有数の神人たちを抱える高名な一族だった。光龍が死して転生するまでの間、眠り続ける神巫女の魂を鎮め慰め、神剣・天陽とともに非天から守ってきた。
「其の『守人』の一人が、どうして風耶に居るの?」
紗柄が光龍に関わりの有る話をするのは、雪にとっても珍しい。彼女の反応に注目しながらも、彼は興味津々に聞いていた。
「私が……今世の光龍が祥岐に現れたと聞いて、探しに来たようだ。以来、風耶に住んで、私が天命を果たす気に為るのを待っている」
内容からして、紗柄が最も口にするのを嫌う話だったが、彼女に苛立ちの類は見られない。雪には其れが不思議だった。
「奴は非天の所為で大切なものを喪っている。だから、私に復讐をさせたいのだ」
紗柄の声が、冷えた外気に溶け、足下の硬い土へと沈み込んでゆく。
「紗柄は、彼に申し訳無いと思っているんだね」
雪の問いに、紗柄は肯定も否定もしなかった。
「今も此れからも、屹度私は奴の望み通りには動けない。しかし、力には為ってくれるだろう。虫のいい話だが」
間も無く、二人はある家の前に着いた。鼠色をした石壁の小さな家で、似たような佇まいの住居に挟まれている。正面を見上げると、二階の出窓が大きく開かれていた。
入口の前に来ても、紗柄は戸を叩こうとしない。雪が尋ねようとした時、突然内側から木扉が開いたが、向こうには誰も立っていない。
「入るぞ」
傍の雪ではなく、室内に居る者へ断ってから、紗柄は遠慮無く入って行った。薄暗くがらんとした玄関を過ぎ、居間らしき室に来たところで、漸く家主を見付けた。
「やあ。久し振りだね、紗柄。良く此処が分かったね」
「お前の気は分かりやすい。街に入ったら容易に感じ取れた」
椅子に座したままで二人を迎えたのは、風変わりな男だった。萌黄色の長髪が肩まで覆っており、ゆとり有る派手な柄の着物を纏っている。覡よりも、芸術家という方がしっくりとくる風貌だ。
「君の方は、隠神術でも使っていたのかい? 家の前に来るまで分からなかったよ」
「追われているからな。数日匿って欲しい」
挨拶もそこそこに頼みごとをする紗柄に、男は細い目を開いて静止した。
「『また』追われてるの? 今度はどうしたのさ」
「違う。私ではなく、此の雪の方だ」
言うや否や、紗柄は雪の背を押し、男の前へ立たせた。
「初めまして、王子さま。『光焔の守人』のひとり、楽人の依水といいます」
「は、初めまして」
紹介も未だなのに、何故王子と当てられたのかが分からず、雪は口籠った。
「足を不自由にしております。ご無礼をお許しください」
男は王族を前に跪礼もせず、頭だけ下げる。雪が下方へ視線をやると、着物に隠れて見えにくいが、左脚が付け根近くから失われていた。
「い、いえ。気にしないでください」
雪は依水の足元から出来るだけ自然に目を逸らし、首を横に振った。紗柄が、依水は大切なものを失くしたと言っていたのをふと思い出した。
「紗柄。来てくれたということは、考え直してくれたのかな」
「頼りに出来る者が他に居ないのと、非天の動向について訊きたいだけだ」
紗柄は、答えてから気付いた。依水は知っていながら敢えて問うたのだと。
「嬉しいな。其れこそがおれの役目だ」
にこりとした笑顔を作り、依水は雪へも目配せして向かいの椅子を手で示した。
「失礼しました。どうぞ、お掛けください」
雪と隣り合わせに座した紗柄は、一息吐いてから、依水が此の世で最も厭わしく思っているであろう名を発した。
「妖王に会った。七年振りに、何の前触れも無く」
依水は変わらず笑んでいたが、彼の背景を知らぬ雪にさえも、空気が変わったのが分かった。
「私を聖安まで誘き寄せ、其の間に都で大逆が起きた。偶然とは思えない。奴が逆賊に手を貸しているのではないか」
推論を述べながら、紗柄は拳を握り掌に爪を食い込ませた。己を欺いた者への怒りよりも、まんまと誘い出された自身への恨みが、じわりと滲出する。
何時の間に柔和な表情を消していた依水が、少しして一つ頷いた。
「君たちが何故追われているのかは、都に出入りしている一族の若者たちから聞いた。おれなりに、思うところが有る」
非天の動きを探るため、珪楽の巫覡一族から十数名が各地へ散らばっている。特に此の七年、紗柄が居る祥岐や茗、聖安を注視してきた。中には国の神事を司る巫覡や楽人として、王宮に入っている者も居た。
都から程良く近い風耶の地に留まり、同胞たちを取り纏めて紗柄のために待つのが依水の役割だった。
「『闇龍』をご存知ですか?」
唐突に出されたのは、伝奇や神話にしか出てこない人物の呼称。紗柄ではなく、自分に返答を求められているのだと悟り、雪は自信を持って答えた。
「光龍と対極を成す神巫女でしょう」
雪でなくとも、『黒神』に仕える闇の巫女の話は、大抵の人間が耳にしたことが有るだろう。千年の昔、創造主である黒の邪神を次代の帝に据えようと画策し、時の天帝神王の命で処刑されたと伝えられている。
「おれたちは、晟凱親王の後ろに、妖王と闇龍がいるのではないかと踏んでいます」




