松賀騒動異聞 第十四章
第十四章
「前にも、木幡さんに言いましたが、松賀族之助とか、松賀正元・伊織、島田理助のような侍がそのまま磐城平藩の実権を握っていたら、この元文の百姓一揆は起こらなかったと私は思っているのです。彼らが守旧派のクーデターによって打倒され、旧の木阿弥と云うか、侍の・侍による・侍のための政治が行われ続けたことが全藩一揆を引き起こした原因と私は考えているのです。これは、磐城平の内藤藩だけに限定されることでは無く、江戸時代というか封建時代に共通することです。良い例として幕末最後の戊辰戦争が挙げられます。官軍が押し寄せて来た時、農民たちはほとんど例外無く、自分の藩の侍の防衛戦には協力せず、官軍の味方をしたと云う事実があります。この磐城においても、官軍の手引きをして、地元の人間しか知らない間道を案内して官軍の攻撃を助けたという話はよく聞くところです。これは、よその藩でもあった話です。領民一体で国を防衛したという話は聞いたことがありません。戦争は侍の戦いであり、年貢と称して搾取され続けた農民たちには藩の侍たちに対する恩儀の気持は皆無であったのでしょう。元文百姓一揆にしてみても、治部左衛門以下、百姓たちに対する慈愛は少しも感じられませんね。唯一、百姓たちの窓口となった赤井喜兵衛に当初の対応で一抹の男気を感じますが、彼も最後には百姓を裏切り、藩の捕り方役人に百姓の代表たちを売ってしまいます。一揆収束後、御褒美として銀子を拝領しています。赤井もただの侍でしか無かったのです」
「確かに、小泉さんのおっしゃる通りだと思います。この一揆でも内藤治部左衛門という家老が登場してきますが、この人は松賀騒動で松賀・島田を義英の命により追い落とした治部左衛門の嫡男で、弟の内藤丹下、改め舎人と共に悪家老としての役割を果たしていますね」
「畢竟、彼らは官僚であったのでしょう。少なくとも、政治家では無かった。現代のように立法府と行政府が分かれている社会では、官僚は官僚らしく、政治家は政治家らしく、というスタイルでとりあえずは問題は無いと思いますが、当時、というか、幕藩体制下では家老クラスの上級家臣は藩の高級官僚であると共に、政治家でもなければならなかった。ただの官僚では駄目だったのです。むしろ、政治的センスを十分持っていた方が家老職を預かる者としては良かった。おそらく、松賀族之助はそのような政治的センスを多分に持っていたと思います。幕閣にも、領民百姓にも評判が良かったという話ですから。一方、治部左衛門は藩主・政樹がそんなに課税して大丈夫なのかと心配して尋ねた折、お殿様、大丈夫です、百姓たちは結構内福なものです、と言ったと書いた本を読んだことがあります。所詮は、搾れるだけ搾ってやろうという、よくドラマで見る悪代官程度のレベルの男でしか無かったのでしょう。その意味でも、その急進性が災いをもたらしたとしても、藩財政の立て直しを先ず我が身から始めようとばかり、武士レベルから財政の緊縮化を図った伊織・理助たちは立派であったと思いますね。彼らが打倒され、一掃されてしまい、自己努力を放棄し、他力本願とばかりに年貢を上げることしか頭に無い者が実権を持った、その報いとして元文百姓一揆が起こり、その一揆が口実になったかどうかまでは断定は出来ないまでも、地の利が良く、実収も良かった磐城平の地を追われ、延岡の人には悪いけれど、地の利が悪く、しかも、実収も大いに低下した九州・日向への国替えという事態を引き起こしてしまった。会社経営ならば、確実に責任問題となりますよ」
「元文の百姓一揆でも大勢の百姓を処刑しましたね。一揆が起これば、その首謀者は処刑されるという掟は厳然とあったとしても、処刑された人数は多過ぎたと思っています。実際、芝原村の吉田長治兵衛と中神谷村の佐藤武左衛門の二人は首謀者は私たち二人ですから、処刑するのは私たち二人にして下さいと懇願したにもかかわらず、十名近い百姓を首謀者として処刑したのはいかにも酷い話です。封建時代の残虐性を露骨に感じますね」
いわき地方史研究会編「いわきの歴史」から
元文百姓一揆:
元文三年(一七三八)九月には、平藩領内磐城四郡百八十一ヵ村の惣百姓数万人が、結束して平城下に押し寄せ、十八ヶ条の請願ありとして、割元や豪商宅を打毀し、四日間にわたって藩の武士団と対抗して、要求を貫徹した一揆が起こった。
一揆の原因:
その第一に商品、貨幣経済の進展がある。この時代になると、商品・貨幣経済の進展により、有産階級が生じ、財の配分に不均衡をきたし、不平不満がおこった。百姓の余剰販売米についても、藩の買上げが行なわれ、商人に買米が委ねられた。かくて、商人は特権を獲得し、百姓は年貢の増徴、農産物の安値売り、高利の負債を負うようになったためである。一揆勢は商人層の打毀しを第一に実行した。原因の第二は、不作・洪水による減収であった。享保五年(一七二〇)七月、平城下と領内の洪水による被害のため、知行百石につき籾十俵の減給、八月の暴風雨による洪水では、四千石永荒の損害をうけた。同十三年九月には、風雨損害二万三千石に達した。原因の第三は、日光・渡良瀬川改修の手伝金のことである。享保十二年(一七二七)、日光参宮本役一万両、同十四年、日光手伝金一万四千両、同十七年、渡良瀬川普請、元文元年(一七三六)、江戸藩邸の火災による失費など負担金が多額となり、藩財政の窮乏をつげた。また、藩主の浪費もこれに加わった。
苛酷なる徴税:
以上の原因による藩財政の窮乏は、必然的に苛酷な徴税となった。まず、郡代の一人川崎刑部を家老格に任じ、総指揮とし強力な徴税を開始した。
刑部は城下や領内の戸数を調査した。名主と大庄屋を招集して、七月十五日までに町内の男子一人に付き、鳥目十二銅を申し渡した。さらに、門構えの家の運上は二百文、石屋門一ヵ所に付き五文、長屋門に百五十文、塀重門に百文、町間口二間に付き三十二文、酒屋百石造り一両、味噌・醬油屋一石に付き五十文、諸職人の運上二分増、猟師運上二分増、諸鳥の殺生するもの一人に付き百文、寺院は大小に限らず一ヶ年三百文、神主・山伏・神子一人に付き百文、医師一ヶ年一分などを申し渡した。
一揆の経過:
元文三年九月十八日、一揆勢力は平城へ向かって押し寄せた。城下鎌田川の渡し舟を引上げ、鎌田口より五千人、谷川瀬口より三千人、白土口より三千人、長橋口より二千人、平窪口より三千人、好間口より四千人の総勢であった。白木綿の小旗に、村名組名を書き、不参加の村があれば、焼き払う旨を各村に通達した。不参の狐塚村(四倉町狐塚)割元酒井与右衛門や、菅波村(平菅波)七右衛門の宅を打毀し、平三町目市郎右衛門は藩士と通謀したことにより打毀し、二町目牢舎に押し入り、荒田目村喜惣治を救い出し、紺屋町丸屋七郎左衛門宅を打毀した。城内では家臣百余人が、陣列をしいて対峙していたが、百姓に鉄砲を奪取された。田町の藩会所には、知行割賦・年貢帳・新税関係書類や、夫役金帳などを備えてあったが、一揆勢は全部焼却した。
一揆勢への回答:
1.小物成は免除する
2.年貢は昨年並に減免する
3.籾の借り上げや山年貢の借り上げは、秋に元利共に返済する
4.貯籾・種大麦の貯蔵は中止してもよい
5.新田畑税は本田畑は免上げ、免下げをしているので却下する
6.百姓貯穀物の貯穀は、これ以上はできない
7.雑穀の全免については相談したい
8.課税は上田の収穫を標準とせず豊凶によって行なうものである
9.不作小検見の上下平均のことは、検見の上きめる
10.他領の検見のようにする
11.諸商売の諸役は免除する
12.百姓からの買上代金や、普請人足・日雇代の支払が少いとのことは、よく調査し
てみる
13.糠・藁・松葉代金は納入ごとに渡してほしいとのことは、年勘定であるから変更
しない
14.慶長金と文字金の通用について、三分の一の返還要求については、返還すること
はできない
15.公用役人他出の場合の伝馬夫役負担は、過重とのことであるが、規定の通り行な
っており、私曲はない
16.鉄砲役銭は減額してもよい
17.雑穀問屋を平町に設けてもよい
18.馬買相場を独占的決定は、不当であるとのことであるが、これは馬方と相対に決
定する
以上のように、惣百姓の要求は全面的に貫徹された。
しかし、責任者は処刑される結果となった。
一揆責任者の処刑
元文四年四月、百姓一揆の藩の当局者として、家老内藤治部左衛門、内藤舎人及び御番頭赤井喜兵衛の退職と、一揆勢の次の指導者が処刑された。
時に、八月二十三日のことであった。
芝原村 長治兵衛 鎌田川原に於て打首七日曝し
中神谷村 武左衛門 同上
藤間村 利右衛門 鎌田川原に於て打首三日曝し
平久保村 与惣治 同上
好間村 理四郎 同上
八茎村 五三郎 同上
荒田目村 伊三郎 同上
高久村 甚五兵衛 牢屋にて打首
狐塚村 藤三郎 追放
下高久村 太平次 その村に幽閉
下舟尾村 伝兵衛 同上
荒田目村 喜惣治 曲田にて打首
内藤氏延岡へ移封
延亨四年(一七四七)に内藤政樹は、領内の騒動、一揆などの責めを負い、日向(宮崎県)延岡城七万石へ移封された。
大須賀次郎筠軒著「磐城史料」から
元文三年九月の百姓一揆は、奸臣の奢侈聚歛、百姓を困窮せしめしに起る、終に百二十余年の故国を去り、遼遠の僻境に移る、君臣婦女に至るまで、嘆き哀まざるなし、人民も亦恚憤の余り、累代の領主に敵対し、後には疲弊衰頽を極めしと云う、宜しく後世の鑑戒と為すべし、是時政樹留別の歌あり、日に向ふ國に命をのべおかばまたみちのくの人にあふべしと、別離の情感慨余りあり、今二三の筆記と、里老の口碑とを参取し、一揆の本末を叙する左の如し、
人君に愛憐の情なければ、之が下たる者堪へずとかや、況んや、民の膏血を浚い、己の奢侈に供するをや、竹槍席旗の一時に暴起する、怪むに足らざるなり、享保十年十月、幕府内藤氏に命じ、下野國鬼奴川の内渡瀬川を修治せしむ、重臣相議し、管内に令し、百石につき金壹両を課し、費途に充つ、同十六年四月、日光廟の修繕を命ぜらる、十月に至って成る、費用給せず、又管内に令し、百石に付金二両を課す、藩士は知行の半を減ず、内藤氏の苛税此より始る、(猪狩氏筆記)元文三年正月、内藤治部左衛門、同舎人、中根喜左衛門、三松金左衛門等相議して曰く、内庫銭殻に乏しく、貸借の道も亦窮る、之を民に取らざる、何を以て國用に給せんと、管内に令し、夫役金と称し、是年より七ヶ年間、毎年百石に付金壹両参分を課せり、是より先、租を苛くし、高免は九つ半迄徴収せしとぞ、又種々の名を設け、諸税を徴発す、酒漿麹豆腐等を売るものも、其売高に応じ税金あり、売人荷物十駄に付、輸入税五百文、輸出税も亦同じ、其荷物を売る
者は商高十両に付、四百十六文の税あり、他國の者と雖免さず、毎日吏員立合、之を徴収す、其他戸障子襖畳等の多少に応じ、家屋税あり、物議囂然たり、人民の苛税を除かれんを訴うるもの、比々踵を接す、省りみず、或は之を譴責し、或は入獄を命ず、百姓は此苛酷なる誅求に堪えず、額を蹙めて私語し、相共に其苦を免かれんを謀る、村々相期せずして同一なりしか、何人の書き出せしにや、俄然檄文一通を伝え、封内を周廻せり、曰く七萬石惣百姓、領主へ十八ヶ條の願あり、九月十七日を期し、城下に会合せん、村毎に標旗を掲ぐべし、鍬鎌斧、鉈大椎等を携帯すべし、如し同心なく出合ざるに於ては、大勢押寄せ、四方より火を放ち、老幼男女を問わず撲殺すべしと、是に於て同心なき村は一村もなく、期日に及び、各処一時に蜂起し、玉山組四倉組は狐塚割元與右衛門の宅に押寄せ、家屋土蔵を打破り、味噌桶酒桶の箍を切り、米穀を蹈散し、神谷組は赤沼村の割元七右衛門の宅を破壊し、家什諸器を微塵と為せり、十八日、暴徒四方より進む、東は鎌田口より五千人、南は谷川瀬口より三千人、白土口よりも三千人、西は長橋口より二千人余、北は平久保口より三千人、好間口よりも四千余人、皆旗を飄し、螺を吹き、大閧して、城下に乱入す、勢驟雨の野を過ぎ、怒潮の沙を捲く如く、直に三町目の町方割元、市郎左衛門の家宅を破壊し、次に壹町目の役所を毀つ、此時、吏胥内より銃を放って防御す、暴徒は其背を襲い、大椎を揮って、墻壁を破り、無二無三に跳入り、槍刀弓銃を奪い、諸帳簿を擘き、之を井中に投じ、或は溝中に埋む、此役所は、七萬石の政務所なりしが、知行割賦冊、新たに徴収する諸税、及夫役金の割賦帳等、一張の零紙も余さず、盡く亡滅せり、貮町目に獄舎あり、荒田目村喜惣次なるもの、十一年前、封内百姓の困乏を嘆き、告状を出せしに、受理せられず、遂に江戸に登り、横賦の事実を、将軍家に闌訴す、此を以て久しく此獄に繋がる、百姓共予め協議しけるは、喜惣次は我等の為めに一身を犠牲に供せしものなり、第一に之を救うべし、次には新徴苛税を除かれんことを苦請し、入獄せし村役人を救い出すべしと、一隊を分ち、獄舎を打破り、罪人を盡く放出し、又紺屋町丸屋七右衛門の家を打砕けり、七右衛門は、平常米穀を賤糴し、機に投じ貴糴し、巧に其利を占め、会計諸吏に諂諛し、百姓の私隠を発摘せしものなりとぞ、是夜は町家富商を脅刧し、縦飲放啖、満街狼藉を極む、藩士は弓銃を携え、陸続馳せて城中に集る、十九日已牌、暴徒は気勢を皷し、一斉に三松金左衛門の宅へ押寄せ、金左衛門を撲殺せんと犇きしが、早くも逃走して在らず、家宅は什器を併せ、盡く破砕せり、夫より進んで田町門を破り会所の門を祈る会所にては銃を放て防ぎしを、好間村の利四郎なるもの、趫捷力あり、跳り入って銃を奪う、大衆斉く乱れ入り、土蔵を毀ち、諸帳簿を持出し、十二間許に積上げ、障子橱櫃の類を毀ち、其上に堆積し、火を放って之を焼く、火光天を焦し、黒烟地に漲る、此会所に蔵せる帳簿は、七萬石賦税に関する、総括原簿、山海村里明細地図、武士系図、前城主鳥井氏より代々知行割賦冊、藩士町人百姓、格式目録、一本も残らず焼き尽せり、暴徒は火勢に乗じ、螺を吹き大に鬨す、城中にては、火を士邸に縦って、城に向い攻め寄せ来りしかと心得、巨煩を発ち、軍皷を鳴し、大に拒守の気勢を観めし、甲士数百を城楼敵台に配置し、刀槍を閃めかし、弓銃を列す、是時内外吶喊の声、山嶽を震動す、市街にては既に大戦の起りしと思惟し、老を扶け幼を負い、東に逃れ西に匿る、恐惶狼狽、実に惨状を極む、重臣藩士に令して曰く、暴徒は我が封内の百姓なり、我より戦を挑み、彼を傷害すべからず、且つ空砲を連発して威嚇すべし、彼若し退かず逼って城中に乱入するに及ばば、臨機の処置に出てざるを得ずと、初めは銃に丸す、故に百姓の即死するもの三四人、創を被むるもの太だ多し、百姓は進まず退かず、城の四方を囲み、大声に罵って曰く、中根喜左衛門、内藤舎人、内藤治部左衛門三人の家老、何ぞ出てざる、平時威権を弄し、我等を浚剥す、今や潜匿して出でず、臆病家老、狗鼠にたも若かずと、盖し三家老は怨府なり、百姓之を生獲して甘心せんと欲す、而して治部は江戸に登り在らず、喜左衛門舎人の二人は、十七日の夜より城中にあり、故に憤怒に堪えず、斯く罵りけるなり、城中にても、鎮静の方策に苦しみ、三日の間衆議區々なりしが、二十日午牌に及び、大手門を推開き、衷甲の騎士四人、頭鍪を戴き、軍襖を著け、弓銃手刀槍隊百人許を従え、徐々と乗出し、大音揚げ、我々は塚本雲平、赤井喜兵衛、本間吉兵衛、原兵左衛門なり、汝等狼藉城下に迫るは、何等の故ぞ、城主を怨望するか、役人を憤怒するか、将た訴訟を為さんとするか、事理によりては、我々にて持承くべし、頭立たる者、出でて陳述せよと、百姓の内より、中神谷村武左衛門、狐塚村藤三郎、小川村長兵衛、木戸村半次右衛門等十人許、手に一射の書を捧げ、進み出て曰く、我等は萬々已むを得ず、此挙に及びしなり、近年百姓は、苛税に苦み、幾回となく哀訴するも、毫も聴かれず、或に目して強訴とし、捕えて獄に下さる、今や百姓の疲瘁、其極に達し、饑寒交々迫る、百姓をして此の極に至らしめしものは誰ぞ、我等は三家老に面し、此事を痛責し、憤欝を洩さんと欲するなり、寛租を願うもの十八ヶ條あり、願書も此の如く所持せり、之を家老等の手に付せず、直に君公に伝致せらるべきや、雲平曰く、事の子細は了知せり、我々四人、汝等に代り、必ず願旨を貫徹すべし、假令十八ヶ條、悉く允可を得さるも、十二三條は必ず満足を與うべし、是事我々死を以て誓ん、汝等は速かに村里に帰り、後日の命を待つべし、武左衛門曰く、否々一歩も退くまじ、既に死を以て誓わる、盍ぞ直に江戸に登り、之を君公に稟請せざる、雲平曰く、汝は何村の誰なるぞ、武左衛門曰く、何村の誰にても推按を須いす、我等の言は、即惣百姓の意見なり、苟も此願の許可せられざるか、百姓は盡く饑死すべし、死は一なり、豈手を束ねて斃んや、平時にありてこそ、貴賎の別上下の差あれ、死生の際に臨みては、百姓も役人も一人は一人なり、我等進退の決は、一に願書の許否如何にあり、生死の決するも、亦此にあるなり、然るを今甘言を聞て退き、如し乞う所を得ざれば、我等何の面目ありてか、村里饑寒の老幼に対すべけん、雲平曰、汝等我言を疑う勿れ、我々の内一両人、直に江戸へ登り、事情を陳述するは、固より論を俟たず、但し往復百十余里の路程なれば、今夕旅装を結束し、明朝を以て発せんと思うなり、汝等此旨を以て能く衆を諭し、暴行を戒めて退き、願書には惣代の印を捺し、我等の途に上るを待って交附せよ、されば家老に抑阻せらるるの心配もあるまじと諭し、馬を返し城に入る、暴徒の気勢、是に於て頓に挫け、往々散じて村里に帰る、(按に乱民記には、是日惣人数は城下より東西の山へ引退き、百間許なる仮屋四つ五つ暫時に構造し、此に楯籠ると見ゆ、されども其退散せし時日を記さず、又同記には百姓惣勢八萬四千六百余人と見ゆ、是と前記の貮萬人、其実を得るものならんか)毎村各一二人を撰み、城南菩提院に会し、議して曰く、惣代を定め願書に捺印せざるべからず、又数人を留め、題書の許否を領せざるべからず、然も留る者、或は首悪を以て罪せられん、誰か之に当る者ぞと、協議の末、武左衛門、利四郎、及下平窪村與惣次、柴原村長次兵衛、上小川村與八の五人を留め、願書には下船尾村伝兵衛、上荒川村定右衛門、住吉村新五右衛門、岡小名村作兵衛、高久村太平次等調印せり、二十一日朝、赤井喜兵衛、火口左衛門、軽卒四五人を具し、江戸に登る、伝兵衛等百人許、之を長橋に送り、願書を交付せり、初め一揆の起るや、十八日急使を馳せ、変事を江戸に報ず、江戸にある士、警を聞て起ち、星夜奔馳し来る、途に相踵く、内藤治部左衛門は、特に鎮撫の命を受けて下る、赤井火口の二氏と、水戸長岡に遇う、己れ百姓の怨府たるを聞き、恐れ躊躇せしか、遂に江戸へ引返せり、是時に当り、城中貯蓄なし、穀倉僅に五六十苞あるのみ、家老等は暴徒の再燃を慮り、拒守厳戒、藩士の城を出つるを許さず、二十七日に至り、糧食已に盡く、急を湯長谷に告げ、米百苞を借る、父老慨嘆して曰く、國に三年の蓄なき、國其國にあらずと云う、今や一月の食なし、國政知るべしと、暴徒の退くや、驟雨の歇み、怒涛の収まり、萬籟の寂然たる如し、是に於て、増田稲右衛門、加藤伝右衛門。片山市右衛門、工藤源右衛門の四人を、封内に派遣し、各村を鎮撫し、村長等をして、再び暴挙を企るのことなきを誓わしめたり、江戸へ登りし赤井火口の二氏は、騒擾事実を備後守政樹に具陳し曰く、善後の策他なし、速かに苛税横賦を除くにありと、政樹之を容る、乃帰って之を家老に謀る、内藤舎人曰く、首悪を懲罰せず、何を以て善後を策せん、聞く五町目、名兵衛の家に滞宿し、願書の許否を待つもの五人あり、彼筆墨料と名づけ、各村より金壹分づつを醵集し、飲食の費に充つ、此五人なるものは、元謀首悪たる疑いなしと、因って、二氏の帰り、藩主の旨を伝うるに托し、利四郎、與惣次、長次兵衛、武左衛門、與八の五人を会所に呼出し、縛して獄に投ず、上大越村利右衛門は隠居なりしが、扇動の罪ありとて縛せらる、八茎村に五三郎なる者あり、暴挙の日泥酔し、街上に放言して曰く、五三郎は会所を破壊せりと、会所に鋸一挺を残すあり、下高久村太平次の名あり、故を以て二人も又縛せられ、其他下高久村甚五兵衛、狐塚村藤三郎、及び願書へ調印せし下船尾伝兵衛等、皆縛に就く、鞠治数次、支吾する所多し、檄文を作るものの如き、終に得る能わず、羅繊獄具る、元文四年八月二十三日、中神谷村佐藤武左衛門、柴原村吉田長兵衛、下平窪村高田與惣次、上小川村與八、好間村利四郎、上大越村利右衛門、八茎村五三郎の七人を鎌田川原に斬り、下高久村甚五兵衛を貮町目獄舎に斬る、又狐塚村藤三郎を追放し、下高久村太平次、下船尾村伝兵衛等を其村に幽せり、後封内に令し、百石一両三分の夫役金を除く、
【現代語訳】
元文三年九月の百姓一揆は、奸臣の奢侈によって百姓を困窮させたが故に起こったものである。その結果として、百二十年余の間住み慣れた国を去って、遠く離れた辺境の地に移ることとなった。君臣並びに婦女に至るまで、嘆き悲しまかった者はいなかった。
領民においても鬱憤のあまり、長年国を治めてきた領主に敵対して立ち上がった結果、後に残ったのは疲弊衰退のみに過ぎなかったと云われている。
このことは後世の訓戒となるべき鑑とすべきであろう。
延岡に移る時に詠んだとされる政樹の惜別の歌が残されている。
日に向ふ 國に命を のべおかば またみちのくの 人にあふべし
と別離の情と感概、双方余りあるものがある。
今、ここに二、三の筆録された史書と里老から聞き取り調査した語り伝えを取り纏め、
以下に一揆の本末を述べることとする。
人の上に立つ君主に領民に対する慈愛の情が無ければ、下の者は耐えられない状況となる。ましてや、領民の膏血を吸い、自分の奢侈に供するということになれば、領民が竹槍を持って蓆旗を立てて一斉に蜂起することは当然のことであり、不思議に思うことではない。
享保十年十月、幕府は内藤家に下野国鬼怒川の内渡良瀬川の修理工事を命じた。
内藤家の重臣たちが相談・協議した結果、領内に百石につき金一両を課税する旨藩令を発し、その費用に充てた。
同十六年四月、日光廟の修繕を命ぜられ、十月に修繕を完了した。幕府からの費用は出なかったので、また領内に藩令を発し、百石について金二両の課税を行った。と同時に、藩士には知行を半分に減らした。
内藤家の苛税はこの時から始まったのである。(猪狩氏筆記)
元文三年正月、内藤治部左衛門、同舎人、中根喜左衛門、三松金左衛門たちが相談・協議したことには、藩の金庫にはもうお金が無いし、借金もこれ以上は出来ない、やはり、領民から徴収するしかないということで、領内に夫役金と称して、今年から七年間の間、毎年百石につき金一両三分を課税することとするという藩令を発した。
これ以後、租税も上げて、高免に関しては九割五分まで徴収するということになり、また、種々の名目を設けて、いろいろな税金を徴収した。例えば、酒・醬油・麹・豆腐などを売る者も、その売上高に応じて税金を課し、商人には荷物十駄につき、輸入するものに関しては五百文の税金、輸出するものに関しても同じ税金を課し、その商品を売る者に対しては商い高十両につき、四百十六文の税金を課した。他国の者といえども税金免除とはならず、毎日担当者が立ち合い、相応の税金を徴収した。その他、戸・障子・襖・畳などの数に応じて、家屋税を設けた。
領民の間では大変な物議を醸し、苛酷な税であるから撤廃して欲しいと訴える領民は後を絶たなかった。
しかし、何にも見直しはせず、訴え出た者を譴責処分にしたり、入獄を命じたりした。
百姓たちはこの苛酷な懲罰に耐えかねて、額を寄せ合ってひそひそ話をしたり、何とかしてこの苛酷な課税から免除されたいと謀った。その点に関しては、村々の思いは期せずして同じであった。誰が書いたかどうかは不明であるが、突然一通の檄文が領内を駆け巡った。その檄文には、七万石の全ての百姓は、領主への十八ヶ条の請願書を掲げ、九月十七日を期して、城下に参集する、村毎に標旗を掲げ、鍬・鎌・斧、鉈・大椎などを携帯することとする、但し、この呼びかけに応じない村に対しては、大勢で押しかけ、四方から火を放ち、老幼男女を問わず撲殺することにすると書いてあった。これによって、この蜂起に加わらない村は一村も無くなり、期日に及んで、各所で一斉蜂起した。
玉山組四倉組は狐塚村の割元・與右衛門の屋敷に押しかけ、家屋土蔵を打ち破り、味噌桶・酒桶の箍を切り、米穀をばら撒き、神谷組は赤沼村の割元・七右衛門の屋敷を破壊し、什器などを微塵に打ち砕いた。
十八日、暴徒が四方から平城下に侵入してきた。東は鎌田口から五千人、南は谷川瀬口から三千人、白土口からも三千人、西は長橋口から二千人余、北は平久保口から三千人、好間口からも四千余人、皆旗を翻し、法螺を吹いて、大きな鬨の声を上げて、平城下に乱入した。一揆勢はまさに驟雨が野原に降り注ぎ、荒波が波打ち際の砂を巻き上げるかのように、ただちに三町目の町方割元・市郎左衛門の屋敷を破壊し、次は一町目の藩役所を打ち毀した。この時、藩役人が中から鉄砲を放って防御したが、暴徒は裏から役所を襲撃し、大椎を揮って、壁を打ち破り、遮二無二中に押し入り、槍・刀・弓・鉄砲を奪い取り、帳簿類を破り、井戸の中に投げ捨てたり、溝の中に叩きこんだ。
この役所は七万石の藩政務所であったが、知行割賦の帳面、新規課税の税金及び夫役金の割賦帳などを一冊残らず破棄された。
二町目には藩の獄舎があった。そこに、荒田目村の喜惣次という者が十一年前に領内の百姓の困窮振りを嘆いて、藩の目安箱に文を入れたが、聞き届けられなかった。
そこで、最後には江戸に登り、苛税賦課の現実を将軍家に駕籠訴をしたが、この咎を以て長い間この獄に繋がれていた。百姓たちは蜂起の前に、喜惣次は我等百姓の為に一身を犠牲にした者であるから第一番目に救出し、次は新規課税を免除して欲しいと請願し、獄に入れられていた村役人を救い出すと事前に決めていたので、一揆勢の一隊をこの獄舎に向けて、獄舎を打ち破り、罪人を全て牢の外に出した。
紺屋町の丸屋七右衛門の屋敷を打ち砕いた。七右衛門は常日頃米穀を安く買いたたき、機を見ては、高値で売りさばき、巧みに巨利を占めていた。また、藩の会計担当の役人に諂臾し、百姓が内緒で隠したものを暴露していた者であった。
この夜は町家富商を脅迫してまわり、大酒を飲んだり、痰を吐いたりして平城下は狼藉を極めた。
一方、藩士は弓・鉄砲を携えて、続々と城に馳せ参じた。
十九日になって、暴徒き気勢をあげて、一斉に三松金左衛門の屋敷に押し寄せ、金左衛門を撲殺しようとしたが、素早く逃げ出して家には居らず、暴徒は家屋敷、家財、什器など全て破砕した。そこから進撃して、田町門を破り、会所の門を破壊した。会所では鉄砲を放って防いだが、好間村の利四郎という者は敏捷な男で飛び上がって中に入り、鉄砲を奪った。暴徒は皆会所に乱入し、土蔵を毀し、中の帳簿の類を全て持ち出し、十二間ほどの高さに積み上げて、その上に障子・橱櫃の類を壊して載せ、火を放って焼いた。その炎は天を焦がすように燃え上がり、黒い煙はあたりに充満した。この会所で保管していた帳簿は七万石の税金に関する総括原簿とか、山海村里の明細地図、武士の系図、前の城主・鳥居氏からの代々の知行割賦の帳面、藩士町人百姓、格式目録といった文書で全てこの時焼き尽くされたのであった。
暴徒は火勢に乗じて、法螺を吹き、大きな声で鬨の声を挙げた。
城中に於いては、侍の屋敷に火を放って、城に向って攻め寄せて来るのではないかと思い、大きな不安に駆られ、軍鼓を鳴らし、城を堅守する気勢を示し、鎧武者を数百人、櫓とか矢倉台に配置し、刀・槍を閃かせ、弓・銃を並べ立てた。
そして、城の内外で吶喊の喚声が起こり、山野を轟かせたのであった。
平城下市街ではもう戦が始まったのかと早合点し、老人を助け、幼少の子を背負い、東に逃れ、西に隠れるといった様相を呈し、恐惶狼狽し、実に惨状を極めたのであった。
藩の重臣は藩士に、暴徒は我が領内の百姓たちであり、こちらから戦いを挑み、百姓を傷つけてはならない、空砲を連発して威嚇すること、それでも退却せず、万一城中に乱入するようであれば、臨機応変の処置に出て構わないと布告した。
当初は実弾を込めて撃ったので、百姓の死者が三、四人ほど出て、且つ疵を負った者も大勢出たのであるが、百姓は進撃することも退却することもせず、城の四方を囲んでは、大声で、中根喜左衛門、内藤舎人、内藤治部左衛門の三人の家老はどうしてここに出て来ないのか、いつもは威張り腐って我等百姓をいじめているくせに、今は城に隠れて出て来ないのか、臆病家老め、犬とか鼠より劣るやつめ、と罵った。このように、三人の家老は百姓の怨差の的となっており、百姓たちはこの三人を生けどりにして日頃の鬱憤を晴らそうとしたのであるが、この時、治部左衛門は丁度江戸に登っており岩城には不在であった。
中根喜左衛門と内藤舎人の二人は十七日の夜から城中に籠っていた。それで、生けどりにすることも出来ず、憤怒にまかせてこのように罵っていたというわけである。
さて、城中でもこの一揆をどのように鎮めたらよいか、対応に苦慮し、三日間衆議を重ねていたが、漸く二十日の午後になって、大手門を開き、鎧を付けた騎馬武者が四人出て来た。いずれも、兜を被り、陣羽織を着用し、弓・鉄砲・刀槍の兵士を百人ばかり従えて、大手門からゆっくりと出て来て、大音声を上げて、我々は塚本雲平、赤井喜兵衛、本間吉兵衛、原兵左衛門と申す者である、お前たちが狼藉をして城下に迫ったのはどのような理由であるか、城主を怨んでの振る舞いか、それとも藩役人に対する怒り故か、訴えのためであるか、お前たちの頭である者はここに出て、理由の趣旨を述べよ、と語った。
その声に応えて、百姓の中から、中神谷村の武左衛門、狐塚村の藤三郎、小川村の長兵衛、木戸村の半次右衛門など十人ばかりが手に一通の書を捧げて進み出て言った。
私たちは万事止むを得ず、このような振る舞いに及んだものでございます。近年、私ども百姓は、苛税に苦しみ、これまでにも何回にもわたり哀訴を繰り返してまいりましたが、少しもお聞き届けにはならず、強訴をすれば捕えられて獄に繋がれる始末となります。
今や、私ども百姓の疲弊はその極みに達しており、餓えと寒さが交互に私どもに迫ってきております。
百姓にこのような塗炭の苦しみを与えているのはどなたでございましょうか。
私たちは三人の家老に面会し、百姓にこのような苦しみを与えていることの責任を強く求め、もって日頃の鬱憤を晴らしたいと欲しているものでございます。
ここに、寛大な租税をお願いする十八ヶ条の請願書がございます。
これは、家老たちの手に渡すのでは無く、直接お殿様にお渡ししたいと思いますので宜しくお取次ぎ下さい、と言った。
これを聞いて、塚本雲平は、事の仔細は了解した、我々四人、お前たちに代わり、必ず
願いの主旨を貫徹させるようにする、この十八ヶ条全てが認められるということは難しいと思うが、十二、三ヶ条は必ずお前たちが満足するように認めて戴くよう、我々は生死を賭してお前たちに誓うこととする、であるから、お前たちはすみやかに村に帰り、後日の結果を待て、と語った。
これに対して、武左衛門は、私たちは一歩も引くつもりはございません、既に死は覚悟の上で誓っております、少しでも早く江戸に登られて、この請願書をお殿様にお渡し下さい、と言った。
雲平が、お前は何村の誰であるか、と名前を尋ねると、武左衛門は、何村の誰ということはこの際関係ございません、私の言う事はすなわち百姓全部の意見と考えて下さい、とにかく、今回のこのお願が認められなければ、私たち百姓は全員飢え死にすることとなります、死は唯一絶対のものであり貴賎の上下はございません、手をこまねいて何も行動を起こさないで死ぬなんてことは出来ません、何もない平和な時であれば、貴賎の上下の差はございますが、このように死ぬか生きるかの境目にあっては、百姓も藩のお役人も一人は一人でございます、私たちの進退を決めるのは唯一、この願書が認められるか認められないかにかかってくるのでございます、私たちの生死を決めるのもまたここにあるのでございます、それで今、あなたさまの甘言に乗せられて退き、お願いしているところを叶えて戴けなければ、私たちは何の面目をもって、村で餓えと寒さに苦しんでいる年寄りと幼い者に対することができましょうか、と言った。
雲平は、お前たちは我が言葉を疑ってはいけない、我々四人の中から一人か二人は、すぐ江戸に登り、殿様にお前たちの事情をお話し申し上げることは間違いなく行うことである、但し、ここから江戸へは往復で百十余里の旅程であるので、今夜旅支度を整え、明日の朝、出発しようと思っている、それでお前たちはこのことをみんなによく話して聞かせ、暴行を禁じてこの場を退き、請願書には惣代の印を押した上で、明日我々の誰かが旅立つのを待ち構えて、請願書をその者に渡すこととせよ、そうすれば、お前たちが心配しているように、家老たちに止められるという心配もないであろうと一揆の首謀者たちを説得し、馬を返して城に入った。
暴徒の気勢はこれであっさりとそがれ、囲みを解いてそれぞれが村に帰って行った。
[乱民記には、この日をもって一揆衆は城下から東西の山の方に退き、百間ばかりの仮設の家を四、五軒ほど建て、ここで暫くの間立て籠もったと記載されている。しかしながら、その者たちが退散した月日は記載されていない。また、同記には百姓総勢は八万四千六百余人と書かれている。この人数と前述した二万人、どちらが本当の人数であろうか]
各村から代表者を一、二名ずつ選び、城南にある菩提院で会議を持った。
その会議で議題となった内容は、惣代を決めて請願書には捺印しなければならない、また、数人を残し、請願書が認められたかどうかを確認しなければならない、しかし、残る者は首悪の者として処刑されることとなる、誰がその首悪になるのか、といった事柄であった。その会議での協議の結果、武左衛門、利四郎、及び、下平窪村の與惣次、柴原村の長次兵衛、上小川村の與八の五人を残し、請願書には下船尾村の伝兵衛、上荒川村の定右衛門、住吉村の新五右衛門、岡小名村の作兵衛、高久村の太平次などが調印した。
二十一日朝、赤井喜兵衛、火口左衛門の二人が軽卒四、五人を連れて江戸に登った。
伝兵衛たち百人ばかりが赤井一行を長橋に見送り、請願書を渡した。
当初、一揆が起こるや否や、十八日には江戸に急使を遣わし、変事を江戸藩邸に知らせた。江戸に居る侍たちも変事の知らせを聞いて江戸を発ち、昼夜通して馳せ参じて来ていた。内藤治部左衛門は特に鎮撫の命を受けて磐城に向っており、赤井・火口の二人とは水戸長岡で遭遇した。治部左衛門は自分が百姓たちの怨差の的になっていることを聞き、恐れ躊躇したか、とどのつまりは江戸に引き返した。
さて、当時、城中には米穀の貯えが無かった。穀倉に、僅かに五、六十苞あるばかりであったが、家老たちは暴徒が再燃して襲撃して来るのを心配し、城を厳重に守ることとし、藩士が城を出るのを許さなかった。
二十七日になって、糧食がついに尽きた。窮状を湯長谷藩に告げ、米百苞を借りた。
年寄りが慨嘆して言うことには、国に三年の貯えが無ければ、その国は国としての体を成していないと云われるものだが、今はひと月の食糧も蓄えていない、国政推して知るべし、ということであった。
暴徒が去って行った後は、驟雨が止み、怒涛が収まったように全ての山野が静寂を取り戻した。この時になって、増田稲右衛門、加藤伝右衛門、片山市右衛門、工藤源右衛門の四人を領内に派遣し、各村を鎮撫して廻り、村長などに再び暴挙を企てることが無いよう、誓わせた。
一方、江戸へ赴いた赤井・火口の二人は今回の騒擾の詳細を備後守政樹に申し上げた上で、善後の策は他にはございません、一刻も早く苛酷な税を撤廃するに限りますと勧め、政樹もこれを了承した。
赤井たちは磐城に帰って、このことを家老たちに諮った。
内藤舎人は、首悪を懲罰しないでは、何を以て善後の策を図るというのか、聞いたところに依れば、五町目の名兵衛の家に滞在して、今回の請願書の諾否を待っている者が五人居るとのことだ、あの者たちは筆墨料という名目で、各村から金一分ずつを出させ、飲食の費用に充てているとのことで、この五人が本来の首悪であることは疑い無しである、と語った。
その結果、江戸に登った二人が帰って来た、藩主のお言葉を伝える、という名目で、利四郎、與惣次、長次兵衛、武左衛門、與八の五人を会所に呼び出して、現われたところを捕縛して獄舎に投じた。上大越村の利右衛門は隠居であったが、一揆扇動の罪で捕縛された。八茎村に五三郎という者が居た。暴挙の日に泥酔し、街頭で、会所を破壊したのはこの五三郎だと放言した。また、会所に鋸が一挺残されており、下高久村・太平次という名前が書かれてあった。この理由で、二人も捕縛された。その他、下高久村の甚五兵衛、狐塚村の藤三郎及び請願書に調印した下船尾村の伝兵衛といった者たちが皆捕縛された。
但し、いくら取り調べを行っても、一揆の檄文を作成した者が誰であったかは判明しなかった。
元文四年八月二十三日、中神谷村・佐藤武左衛門、柴原村・吉田長兵衛、下平窪村・高田與惣次、上小川村・與八、好間村・利四郎、上大越村・利右衛門、八茎村・五三郎の七人を鎌田川原で死罪に処し、下高久村・甚五兵衛を二町目獄舎で死罪に処した。
また、狐塚村・藤三郎を追放処分とし、下高久村・太平次、下船尾村・伝兵衛といった者をその村に幽閉処分とした。
後日、領内に、百石一両三分の夫役金を課すという課税は廃止するという藩令が発せられた。